【追悼特集】JAM MASTER JAY、ヒップホップの全てのドアを開けた男

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ヒップホップの全てのドアを開いたグループ、RUN-D.M.C.

RUN-D.M.CのDJメンバーであり、プロデューサーとしても活躍していたJam Master Jayが
10/30(水)の夜、銃で撃たれ死亡した。享年37歳。
ニューヨークのクイーンズにあるレコーディングスタジオで作業中、
男2人組に襲われ、頭部を撃たれたという。
ほかにスタッフが一人、脚を撃たれたがこちらは命に別状はないようだ。

米ヒップホップ界では内部紛争などが絶えない世界ではあるが、
RUN-D.M.Cのメンバーは果たして関係があったのだろうか……?
殺人犯の捜査は進められているが、まだ逮捕者は出ていない。

グループの創設者であるJam Master Jay、その功績は計りしれない

―JMJの友人が寄せたコメント―
Russell Simmons(マネージャー)
「20年近く、RUN-D.M.C.はコンテンポラリーな音楽の世界におけるゴスペル・アーティスト達に最も近い存在だった。彼らは神と自己を高めることについて語り、ドラッグをやめ、霊感を与えて精神を高揚させることの大切さを説いた。ヒップホップの良いところ、ポジティブなところを全て象徴していたのだ。Jam Master Jayは長い間、家庭人であり、ヒップホップへのすべてのドアを開いたグループの創設者でもある。私は彼を慕い、そして忘れない。彼は私にとってかけがえのない男なのだ」
Bill Adler(公式バイオグラフィー『Tougher Than Leather: The Rise Of Run-D.M.C.』を執筆者)
「ビニールレコードのドラムビートが針の下で前後にスクラッチされるとき、ある種パーカッシヴな、ヒュッというサウンドがそこから生まれる。一般のポップ・ミュージックのファンに初めてスクラッチを聞かせたのがMizell氏だった。ヒップホップの真髄ともいうべきそのサウンドは、Run-D.M.C.のレコードを通してアメリカ全土に普及し、それによりJayはその多大な功績を認められたのだ(NY TIMES)」
Sha Money XL(JMJファミリーの一員)
「言葉が見つからない。あの日早く、俺は彼と話したんだ。何て言っていいか、本当に分からないんだ。人々は本当に目を冷まさなくちゃいけないよ」

―事件に関するニュース―

サード・アイ・ブラインドのステファン・ジェンキンズがマスター・ジェイを偲ぶ
遺族をサポートするため、ヒップホップ・ネーションが集結
ラッセル・シモンズ、ジャム・マスター・ジェイ殺害の根底にある原因を語る
Run-D.M.C.、引退を表明……!!
遺族に各方面から支援の手
葬儀の様子は……
チャック D、Island Def Jamの代表が偲ぶ(その1)
葬儀が11月5日に
エアロスミスが追悼
ビースティ・ボーイズ、キッド・ロック、インキュバスが追悼
友人が追悼を述べる
バスタ・ライムス、訃報を聴いてアルバム試聴会を途中で中止
事件の第一報を伝える速報

「王座は譲らず…」
’01年にリリースした復帰作『CROWN ROYAL』。プロデュースを務めたのはもちろん、Jam Master Jay。
3人が語った超ロング・スペシャル・インタヴュー。

Part 1
Part 2
Part 3
スクラッチの音のデカさでJam Master Jayってわかるね

ある曲を聴いて友人がそう話したのを思い出した。

豪快な顔立ち同様に男気を伝えてくれる荒々しく迫力のあるカット、それでいてフロントの2MCを自在に操る抜群のターンテーブル術も持ち合わせていた男、ヒップホップ・シーンに数多くのフォロワーを生んできた偉人Jam Master Jay(以下、JMJ)が、彼の地元クイーンズにて凶弾に倒れた。享年37歳。

クイーンズ地区ホリーズ生まれのJMJが地元の仲間、Joseph SimondsことRUNとDarry McDanielsことD.M.C.とラップ・グループを組んだのは'83年頃のこと。

RUN-D.M.Cと名乗った彼らは、ヒップホップをメジャーな音楽へと押し上げ、あのAerosmithを復活させたともいわれる曲「Walk This Way」('86年リメイク版)を筆頭に、「Sucker MC’s(Krush Groove 1)」(WU-TANG CLANがカヴァーしたこともある)、「Rock Box」(EPMDがカヴァー)、「My Adidas」、「Peter Piper」などなど数多くのクラシックスを生んできたのは承知の通り。

サイクルが早く次々と新しいスタイルが生まれるヒップホップ・シーンの中で、多少に浮き沈みはあるものの今まで現役感、現場感を失うことなく活動し続けた彼らの功績は計り知れない。

またJMJはグループの活動以外にも、自身のレーベルJMJレコードを立ち上げ若き才能の発掘にも人力を注ぎ、ONYXやJayo Felonyらをフック・アップ。

近年ではスクラッチ・アカデミーを設立したり、DMCバトルのホストを担当するなど、シーン全体の活性化にも大いに貢献していただけに、今回の事件は無念としか言いようがない。これでまたひとつの時代が幕を閉じてしまったのだ。

これからの季節、例年ならばヒップホップ・ファンは「Christmas In Hollis」を聴き、心躍らせるはずなのだが、今年はそんな気分にはなれないだろう…。合掌…。

文●Masso187um

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