―JMJの友人が寄せたコメント― | Russell Simmons(マネージャー): 「20年近く、RUN-D.M.C.はコンテンポラリーな音楽の世界におけるゴスペル・アーティスト達に最も近い存在だった。彼らは神と自己を高めることについて語り、ドラッグをやめ、霊感を与えて精神を高揚させることの大切さを説いた。ヒップホップの良いところ、ポジティブなところを全て象徴していたのだ。Jam Master Jayは長い間、家庭人であり、ヒップホップへのすべてのドアを開いたグループの創設者でもある。私は彼を慕い、そして忘れない。彼は私にとってかけがえのない男なのだ」 | Bill Adler(公式バイオグラフィー『Tougher Than Leather: The Rise Of Run-D.M.C.』を執筆者) 「ビニールレコードのドラムビートが針の下で前後にスクラッチされるとき、ある種パーカッシヴな、ヒュッというサウンドがそこから生まれる。一般のポップ・ミュージックのファンに初めてスクラッチを聞かせたのがMizell氏だった。ヒップホップの真髄ともいうべきそのサウンドは、Run-D.M.C.のレコードを通してアメリカ全土に普及し、それによりJayはその多大な功績を認められたのだ(NY TIMES)」 | Sha Money XL(JMJファミリーの一員) 「言葉が見つからない。あの日早く、俺は彼と話したんだ。何て言っていいか、本当に分からないんだ。人々は本当に目を冷まさなくちゃいけないよ」 | | 「スクラッチの音のデカさでJam Master Jayってわかるね」 ある曲を聴いて友人がそう話したのを思い出した。 豪快な顔立ち同様に男気を伝えてくれる荒々しく迫力のあるカット、それでいてフロントの2MCを自在に操る抜群のターンテーブル術も持ち合わせていた男、ヒップホップ・シーンに数多くのフォロワーを生んできた偉人Jam Master Jay(以下、JMJ)が、彼の地元クイーンズにて凶弾に倒れた。享年37歳。 クイーンズ地区ホリーズ生まれのJMJが地元の仲間、Joseph SimondsことRUNとDarry McDanielsことD.M.C.とラップ・グループを組んだのは'83年頃のこと。 RUN-D.M.Cと名乗った彼らは、ヒップホップをメジャーな音楽へと押し上げ、あのAerosmithを復活させたともいわれる曲「Walk This Way」('86年リメイク版)を筆頭に、「Sucker MC’s(Krush Groove 1)」(WU-TANG CLANがカヴァーしたこともある)、「Rock Box」(EPMDがカヴァー)、「My Adidas」、「Peter Piper」などなど数多くのクラシックスを生んできたのは承知の通り。 サイクルが早く次々と新しいスタイルが生まれるヒップホップ・シーンの中で、多少に浮き沈みはあるものの今まで現役感、現場感を失うことなく活動し続けた彼らの功績は計り知れない。 またJMJはグループの活動以外にも、自身のレーベルJMJレコードを立ち上げ若き才能の発掘にも人力を注ぎ、ONYXやJayo Felonyらをフック・アップ。 近年ではスクラッチ・アカデミーを設立したり、DMCバトルのホストを担当するなど、シーン全体の活性化にも大いに貢献していただけに、今回の事件は無念としか言いようがない。これでまたひとつの時代が幕を閉じてしまったのだ。 これからの季節、例年ならばヒップホップ・ファンは「Christmas In Hollis」を聴き、心躍らせるはずなのだが、今年はそんな気分にはなれないだろう…。合掌…。 文●Masso187um | |