ニール・ヤング・バイオグラフィ

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1945年カナダのトロントで生まれたニール・ヤングは、リック・ジェイムス率いるマイナー・バーズ/Mynah Birdsを経て、スティーヴン・スティルスらと共にロサンゼルスでバッファロー・スプリングフィールドを'67年に結成。
 残念ながらバンドは'68年に解散。'69年、ソロとなったニールはアルバム『ニール・ヤング』と、クレイジー・ホースをバックに従えた『ウィズ・クレイジー・ホース』の2枚を発表。また同年夏には、S・スティルスがデヴィッド・クロスビー/David Crosby(元ザ・バーズ)、グラハム・ナッシュ(元ホリーズ)と共に結成したクロスビー、スティルス&ナッシュ(CS&N)に参加、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング(CSN&Y)としての活動も並行して行なうようになる。全米ツアーを開始したCSN&Yは『ウッドストック』にも出演、また'70年に発表された「デジャ・ヴ」は、予約だけで200万枚を超えるという大反響を呼び、発売されるや全米1位に輝いた。しかし、'70年に行なわれたツアーの模様を収めた2枚組ライヴ盤「4ウェイ・ストリート」が全米1位を獲得する頃には、すでにバンドは解散していた。
 ニールのソロ活動としては、'70年に「アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ」が、翌'71年には「ハーヴェスト」が発表されている。どちらも初期の傑作として有名な作品だが、特に後者は、アルバム、シングル“孤独の旅路”の両方で全米1位を獲得し、アメリカ音楽シーンにおけるシンガー・ソングライター・ブームの中にあっても、ニールが際立った存在であることをアピールした。 コンスタントにツアー活動やアルバム制作を続けるニールは'74年、CSN&Y再結成ツアーに参加。同年、ザ・バンドのメンバーらが参加した「渚にて」を発表したのに続き、'75年には「今宵この夜」と「ズマ」の2作品を発表。さらには、S・スティルスと再びコラボレイトを実現させたり、ザ・バンドの『ラスト・ワルツ・ライヴ』に参加したりもしている。

 その後、'78年にクレイジー・ホースと共に行なった『ラスト・ネヴァー・スリープス・ツアー』が翌'79年にレコード化されたが、ここで披露されたセックス・ピストルズのジョニー・ロットン/Johnny Rottenに捧げる曲“マイ・マイ、ヘイ・ヘイ(アウト・オブ・ザ・ブルー)”と“ヘイ・ヘイ、マイ・マイ(イントゥ・ザ・ブラック)”に見るニールのパンクへの傾倒ぶりは、賛否をまじえ大きな話題となった。しかし、こうした、時代の空気に鋭敏に反応しえるニールの感性こそが、革新的なギター・プレイを生み、オルタナティヴの祖と呼ばれながらも伝説と化すことなく若手とも盛んな交流を続け、シンガー・ソングライターという既成の枠に収まることのない自由な活動の礎になっていることは間違いない。
 '94年、自殺したカート・コバーン/Kurdt Cobain(ニルヴァーナ)が遺書に“ヘイ・ヘイ、マイ・マイ”の一節を書き残していたという事実に直面したニールは、同年、そのカートに捧げる曲も含む「スリープス・ウィズ・エンジェルス」を発表。翌'95年にはニルヴァーナと共にグランジ・ブームの立て役者となったパール・ジャムとのコラボレイト作「ミラー・ボール」と“マーキン・ボール”を発表し、ステージでの共演も実現。また、'80年代にスタートし、毎年新旧多くのアーティストが参加する『ブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサート』(障害児教育機関のチャリティ。ニールの実子3人のうち2人も障害を持っている)の主宰も、特筆すべき活動のひとつだ。
 '99年秋には、'88年のCSN&Y再結成アルバム「アメリカン・ドリーム」から約12年ぶりとなるCSN&Y最新作「ルッキング・フォワード」が発表され注目を集めたが、早くも2000年5月にはソロ名義で未発表曲や新曲を集めた最新作「シルヴァー・アンド・ゴールド」を発表するなど、とどまることを知らぬ勢いで我が道を進み続けるニール・ヤング。その情熱とバイタリティには目をみはるばかりである。そんなニールと、彼のよき友人/理解者として存在するクレイジー・ホースの面々との深い絆を知るには、日本でも'99年公開されたジム・ジャームッシュ監督によるドキュメンタリー映画『イヤー・オブ・ザ・ホース』を観るのがよいだろう。

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