笑いと感動の映画『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』、何故、アンヴィルだったのか
あのヘヴィメタル・バンド、アンヴィルのドキュメントにして、感動の嵐を呼び最高傑作との評判が全米を駆け巡った、映画『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』。一躍社会現象となった作品だが、何故このタイミングで誕生したのか。いや…それ以前に、何故にアンヴィルなのか。
◆笑いと感動の映画『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』、何故、アンヴィルだったのか ~写真編~
ここでは、映画『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』を作り上げたサーシャ・ガバシ監督のフィルムメーカー・ノートを紹介しよう。サーシャ・ガバシがこの作品を作り上げることになる、彼のバックボーンを紹介してみたい。
◆ ◆ ◆
私が育ったのは、1980年代初頭のロンドン。クラスメイトたちはピストルズやクラッシュといったクールなバンドに夢中だったが、私が熱を上げていたのはメタルだった。そのことで私は容赦なくからかわれたが、ほとんど気には留めなかった。が、ライシーアムのダンスホールで行なわれたクラッシュのライヴがあった晩は忘れられない。メタルバンドのモーターヘッドのTシャツを着ていた私は、テリーという名のスキンヘッドのパンクスに屋外で殴られたのだ。面白いと思って着ていったTシャツだったが、通用しなかった。パンクスは、皆とは違うことをするという反順応主義を存在理由としているはずだ。が、ばかげたことに、ユニフォームであるボンデージのパンツも履かず、また安全ピンもつけてこなかった私を攻撃したのだった。
当時、私は、ワーダーストリートにあるクラブ、マーキーの常連だった。ザ・フーやジミヘンがマーキーで演奏していたのは、遠い過去となっており、当時は、新しい世代のブリティッシュ・ヘヴィーメタル、例えばアイアン・メイデンなんかがレギュラーとして演奏した時代だった。アンヴィルというトロントのバンドのことを耳にし始めたのもその頃だったが、具体的にどういったバンドなのかということは誰も知らなかった。そして、突如、アンヴィルのヴォーカルのリップスが、雑誌『サウンズマガジン』の表紙に登場した。チェーンソーを振りかざし、バイブレーターを歯で喰いしばる彼の姿を見て、私や友人たちは「なかなかワイルドでクールだな」という印象を受けたが、その写真の印象は、彼らのアルバム『メタル・オン・メタル』を聞いた後の印象とは大違いだった。彼らの音は、信じられないぐらいに良かったのだ。そして、彼らがマーキーにやってきて演奏した1982年の4月には、もうアンヴィルは噂のバンドとなっていた。
その時のライヴには、モーターヘッドのレミーを筆頭に、あらゆる人物が駆けつけてきた。アンヴィルはライヴハウスの屋根をぶっ壊すほどの熱気だった。彼らは、今まで私が聞いたことも見たこともないほど速く、ヘヴィに、熱烈に演奏した。何よりも彼らは演奏することを楽しんでいた。リップスは、まるで興奮剤をやってアドレナリンを出しまくっているギリシャ神話の半獣半神のように、バイブレーターを片手に浮かれ騒いだ。また、レミーのビールの中にそれを突っ込んで泡立たせたりもした。まるで頭をどこかに強くぶつけてしまったかのように、笑い狂った夜だった。音楽は、驚嘆モノだった。新鮮で、オリジナリティに富んでいた。しかし、演奏している本人たちは、彼らがどれほど魅力的かということを自覚している様子はなく、楽しませるというより、自分たちが楽しんでいたように見えた。
ライヴが終わり、新しいスターに会おうと、私はこっそりバックステージに忍び込んだ。私は極度に緊張していて、人が群がる中、ちょっと声をかけられれば満足というぐらいに思っていたのだが、リップスとロブは、英国の若いファンのひとりである私が彼らのライヴをどう思ったか真剣に聞きたがった。彼らは、有名バンドのメンバーがやってきて賛辞を述べるのと同じぐらいの時間を私に費やしてくれた。あの頃のマーキーに出入りしていたケツの穴の小さいロックスターの態度はと大違いだった。アンヴィルにとっては、ファンの存在は最も大切だったのだ。
ライヴの晩の別れ際に、アンヴィルはロンドンに来たのは初めてだから、よかったら案内してくれないかと私に頼んできた。「アンヴィルのツアー・ガイドになれるなんて!」と、私は信じられずに飛び上がった。 翌日、彼らと落ち合い、カナビー・ストリートやら、アビー・ロードやら、ウェストミンスターやら、そこかしこに連れて行った。その日が暮れる頃、彼らは私に「アンヴィル流ニックネーム」をつけようといった。アンヴィルの友人はすべて「アンヴィル流ニックネーム」を持っているというのだ。私に与えられた名前は「ティー・バッグ」だった。まあ、私が英国人だったということだが、彼らはこの名前を口にしてはゲラゲラ笑った。そして私は、未だにこの名前で呼ばれている。
数ヵ月後、私はドニントンのロック・フェスティバルでアンヴィルに再会した。彼らは私の姿を見てびっくりする様子もなく、それどころか、夏の北米ツアーのローディーとして参加する気はないかと私に誘ってきた。私がひとりでトロントまで来れば、あとはすべてのツアーに一緒に連れて行くというのだ。ローディーについて何の経験もないというと、自分たちのローディーはすべてファンなんだと彼らはいった。私はふたつ返事でOKした。
しかし、母に何と言うべきか。母にとっては、16歳の少年がロックバンドと地方回りをすることなど、是が非でも許されるべきものではなかった。そこで私は、作戦を練り、「NYの父と夏を過ごす」と母に告げた。両親の離婚後、父はNYに住んでいたのだ。そしてNYへと私はとび、二日後、トロント行きへの列車に飛び乗った。
ツアーは私の人生最高の体験のひとつになった。私は彼らとアメリカとカナダを横切って何千マイルも旅をした。ただ夢に見ていただけの場所やモノを私は目にすることができた。80年代のパーティーはかなりクレージーだった。けれども、アンヴィルのメンバーはいつでも私を守ってくれて、手に負えないほどのものであれば現場から私をはずした。
ツアーでの私の仕事は、アンプをセットすることから、ライヴの後方でTシャツやカセットテープを売ることまでいろいろあった。でも、最も嬉しかったことは、ロブ・ライナーのドラムの横で毎晩寝ることができたことだった。ロブには、当時、オジー・オズボーンのバックで演奏をしないかというオファーがきていたが、彼はアンヴィルに背を向けることができないとオファーを断ったのだ。私は、演奏するロブの姿を毎晩眺め、この男こそ世界一の素晴らしい男だと思った。感動したね。
2ヵ月の間、私はロブから多くを学んだ。ツアーの終わりに、ロブは私にメンバーとのサウンドチェックをさせてくれただけでなく、どんな風にプレイするのか教えてくれて、しかも、アンコールで「スクール・ラブ」を演奏するときに私を参加させてくれた。そのときの私は、まるで天国にも昇るような思いだった。
あの日々は決して忘れることはできない。友人たちが羨むその夢を、私は実際に体験することができたのだ。しかし、時が過ぎ、何かが私の中で変わり始めていた。デヴィッド・ボウイとイギー・ポップに対する憧れが芽生え始めていた。突然、メタルは、私が15歳のときに感じていたほどクールに思われなくなってしまった。私は成長してしまったのだ。
80年代半ば頃になると、私とアンヴィルとの連絡は途絶えてしまった。アンヴィルのメンバーが夢見ていた栄光は、たいして達成できていなかったようだった。アンヴィルとは比べられないような下手なバンドが成功してビッグになっていったが、彼らにはチャンスはまわってこなかった。皆の記憶から彼らの存在は薄れていっていたようだった。もしかしたら解散してしまったのかもしれないと思ったりもした。リップスとロブはどうなったのだろう。何をしているんだろう。気になってはいたものの、私は自分の人生で精一杯だった。
かつての友、リップスとロブに再び会ってみようと決めたのは、それから20年以上の月日が流れてからだった。彼らが何処にいるのかも、まだ彼らが生きているのかどうかも私には想像すらつかなかった。
※ANVIL アンヴィルとは
1973年、カナダにてスティーヴ“リップス”クドローとロブ・ライナーによって結成。結成当時は「リップス」という名前でスタートし、1977年にデイヴ・アリソンとイアン・ディクソンがメンバーとして参加、特有のドライヴ感あふれるスピード・メタル・サウンドを作り出した。1980年に自主制作のインディーアルバム『Lips-Hard and Heavy』をリリース。その直後、彼らはアティック・レコード会社と契約を結び、この時にバンド名をアンヴィルに変更。昔からミュージシャンやファンらからは「パワーメタルの父」「スラッシュ・メタルのゴッドファーザー」などと認知されており、彼らに影響を受けた多くのバンドが栄光を手にしている。
2007年、ニューアルバム『This is Thirteen』をリリース。日本盤はソニーミュージックより2009年10月21日リリースとなる。
Vo&G:STEVE“LIPS”KUDLOW スティーヴ“リップス”クドロー
アンヴィルのリード・ヴォーカル担当。現在はバンド活動のかたわら、給食の宅配に従事している。
Dr:ROBB REINER ロブ・ライナー
アンヴィルのドラマー。現在、無職。
B:G5 ジーファイヴ
アンヴィルの現在のベーシスト。1996年にアンヴィル参加。オーディションによりメンバーに加わり、半年も経たぬうちにヨーロッパ・ツアーに出かけることになる。
G:IVAN HURD アイヴァン・ハード
1995年、アンヴィル加入のギタリスト。現在はアンヴィルを脱退。
『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』
10月24日(土)より、TOHOシネマズ六本木ヒルズほかにて公開
◆『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』オフィシャルサイト
(C)Ross Halfin /ANVIL! THE STORY OF ANVIL
◆笑いと感動の映画『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』、何故、アンヴィルだったのか ~写真編~
ここでは、映画『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』を作り上げたサーシャ・ガバシ監督のフィルムメーカー・ノートを紹介しよう。サーシャ・ガバシがこの作品を作り上げることになる、彼のバックボーンを紹介してみたい。
◆ ◆ ◆
当時、私は、ワーダーストリートにあるクラブ、マーキーの常連だった。ザ・フーやジミヘンがマーキーで演奏していたのは、遠い過去となっており、当時は、新しい世代のブリティッシュ・ヘヴィーメタル、例えばアイアン・メイデンなんかがレギュラーとして演奏した時代だった。アンヴィルというトロントのバンドのことを耳にし始めたのもその頃だったが、具体的にどういったバンドなのかということは誰も知らなかった。そして、突如、アンヴィルのヴォーカルのリップスが、雑誌『サウンズマガジン』の表紙に登場した。チェーンソーを振りかざし、バイブレーターを歯で喰いしばる彼の姿を見て、私や友人たちは「なかなかワイルドでクールだな」という印象を受けたが、その写真の印象は、彼らのアルバム『メタル・オン・メタル』を聞いた後の印象とは大違いだった。彼らの音は、信じられないぐらいに良かったのだ。そして、彼らがマーキーにやってきて演奏した1982年の4月には、もうアンヴィルは噂のバンドとなっていた。
その時のライヴには、モーターヘッドのレミーを筆頭に、あらゆる人物が駆けつけてきた。アンヴィルはライヴハウスの屋根をぶっ壊すほどの熱気だった。彼らは、今まで私が聞いたことも見たこともないほど速く、ヘヴィに、熱烈に演奏した。何よりも彼らは演奏することを楽しんでいた。リップスは、まるで興奮剤をやってアドレナリンを出しまくっているギリシャ神話の半獣半神のように、バイブレーターを片手に浮かれ騒いだ。また、レミーのビールの中にそれを突っ込んで泡立たせたりもした。まるで頭をどこかに強くぶつけてしまったかのように、笑い狂った夜だった。音楽は、驚嘆モノだった。新鮮で、オリジナリティに富んでいた。しかし、演奏している本人たちは、彼らがどれほど魅力的かということを自覚している様子はなく、楽しませるというより、自分たちが楽しんでいたように見えた。
ライヴが終わり、新しいスターに会おうと、私はこっそりバックステージに忍び込んだ。私は極度に緊張していて、人が群がる中、ちょっと声をかけられれば満足というぐらいに思っていたのだが、リップスとロブは、英国の若いファンのひとりである私が彼らのライヴをどう思ったか真剣に聞きたがった。彼らは、有名バンドのメンバーがやってきて賛辞を述べるのと同じぐらいの時間を私に費やしてくれた。あの頃のマーキーに出入りしていたケツの穴の小さいロックスターの態度はと大違いだった。アンヴィルにとっては、ファンの存在は最も大切だったのだ。
ライヴの晩の別れ際に、アンヴィルはロンドンに来たのは初めてだから、よかったら案内してくれないかと私に頼んできた。「アンヴィルのツアー・ガイドになれるなんて!」と、私は信じられずに飛び上がった。 翌日、彼らと落ち合い、カナビー・ストリートやら、アビー・ロードやら、ウェストミンスターやら、そこかしこに連れて行った。その日が暮れる頃、彼らは私に「アンヴィル流ニックネーム」をつけようといった。アンヴィルの友人はすべて「アンヴィル流ニックネーム」を持っているというのだ。私に与えられた名前は「ティー・バッグ」だった。まあ、私が英国人だったということだが、彼らはこの名前を口にしてはゲラゲラ笑った。そして私は、未だにこの名前で呼ばれている。
数ヵ月後、私はドニントンのロック・フェスティバルでアンヴィルに再会した。彼らは私の姿を見てびっくりする様子もなく、それどころか、夏の北米ツアーのローディーとして参加する気はないかと私に誘ってきた。私がひとりでトロントまで来れば、あとはすべてのツアーに一緒に連れて行くというのだ。ローディーについて何の経験もないというと、自分たちのローディーはすべてファンなんだと彼らはいった。私はふたつ返事でOKした。
しかし、母に何と言うべきか。母にとっては、16歳の少年がロックバンドと地方回りをすることなど、是が非でも許されるべきものではなかった。そこで私は、作戦を練り、「NYの父と夏を過ごす」と母に告げた。両親の離婚後、父はNYに住んでいたのだ。そしてNYへと私はとび、二日後、トロント行きへの列車に飛び乗った。
ツアーは私の人生最高の体験のひとつになった。私は彼らとアメリカとカナダを横切って何千マイルも旅をした。ただ夢に見ていただけの場所やモノを私は目にすることができた。80年代のパーティーはかなりクレージーだった。けれども、アンヴィルのメンバーはいつでも私を守ってくれて、手に負えないほどのものであれば現場から私をはずした。
ツアーでの私の仕事は、アンプをセットすることから、ライヴの後方でTシャツやカセットテープを売ることまでいろいろあった。でも、最も嬉しかったことは、ロブ・ライナーのドラムの横で毎晩寝ることができたことだった。ロブには、当時、オジー・オズボーンのバックで演奏をしないかというオファーがきていたが、彼はアンヴィルに背を向けることができないとオファーを断ったのだ。私は、演奏するロブの姿を毎晩眺め、この男こそ世界一の素晴らしい男だと思った。感動したね。
2ヵ月の間、私はロブから多くを学んだ。ツアーの終わりに、ロブは私にメンバーとのサウンドチェックをさせてくれただけでなく、どんな風にプレイするのか教えてくれて、しかも、アンコールで「スクール・ラブ」を演奏するときに私を参加させてくれた。そのときの私は、まるで天国にも昇るような思いだった。
あの日々は決して忘れることはできない。友人たちが羨むその夢を、私は実際に体験することができたのだ。しかし、時が過ぎ、何かが私の中で変わり始めていた。デヴィッド・ボウイとイギー・ポップに対する憧れが芽生え始めていた。突然、メタルは、私が15歳のときに感じていたほどクールに思われなくなってしまった。私は成長してしまったのだ。
80年代半ば頃になると、私とアンヴィルとの連絡は途絶えてしまった。アンヴィルのメンバーが夢見ていた栄光は、たいして達成できていなかったようだった。アンヴィルとは比べられないような下手なバンドが成功してビッグになっていったが、彼らにはチャンスはまわってこなかった。皆の記憶から彼らの存在は薄れていっていたようだった。もしかしたら解散してしまったのかもしれないと思ったりもした。リップスとロブはどうなったのだろう。何をしているんだろう。気になってはいたものの、私は自分の人生で精一杯だった。
かつての友、リップスとロブに再び会ってみようと決めたのは、それから20年以上の月日が流れてからだった。彼らが何処にいるのかも、まだ彼らが生きているのかどうかも私には想像すらつかなかった。
※ANVIL アンヴィルとは
1973年、カナダにてスティーヴ“リップス”クドローとロブ・ライナーによって結成。結成当時は「リップス」という名前でスタートし、1977年にデイヴ・アリソンとイアン・ディクソンがメンバーとして参加、特有のドライヴ感あふれるスピード・メタル・サウンドを作り出した。1980年に自主制作のインディーアルバム『Lips-Hard and Heavy』をリリース。その直後、彼らはアティック・レコード会社と契約を結び、この時にバンド名をアンヴィルに変更。昔からミュージシャンやファンらからは「パワーメタルの父」「スラッシュ・メタルのゴッドファーザー」などと認知されており、彼らに影響を受けた多くのバンドが栄光を手にしている。
2007年、ニューアルバム『This is Thirteen』をリリース。日本盤はソニーミュージックより2009年10月21日リリースとなる。
Vo&G:STEVE“LIPS”KUDLOW スティーヴ“リップス”クドロー
アンヴィルのリード・ヴォーカル担当。現在はバンド活動のかたわら、給食の宅配に従事している。
Dr:ROBB REINER ロブ・ライナー
アンヴィルのドラマー。現在、無職。
B:G5 ジーファイヴ
アンヴィルの現在のベーシスト。1996年にアンヴィル参加。オーディションによりメンバーに加わり、半年も経たぬうちにヨーロッパ・ツアーに出かけることになる。
G:IVAN HURD アイヴァン・ハード
1995年、アンヴィル加入のギタリスト。現在はアンヴィルを脱退。
『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』
10月24日(土)より、TOHOシネマズ六本木ヒルズほかにて公開
◆『アンヴィル!夢を諦めきれない男たち』オフィシャルサイト
(C)Ross Halfin /ANVIL! THE STORY OF ANVIL
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