'96年の大規模なファイナル・ツアーの後にラモーンズが解散して以来、ジョーイは表立った活動をすることはなかった。しかし、時にはゲストとしてショウに出演したり、右に挙げたSire Recordsのシーモア・ステインのコメントにあるように、ソロアルバムの制作にも取り掛かっていたようだ。アルバムの制作は終わっていたとされているが、リリースについての情報は今のところ出ていない。
New York Daily News紙によれば、ジョーイは入院先の病室で、U2の曲“In A Little While”を聴いた直後に死亡したという。ベッドサイドに付き添っていた彼の母親、Charlotte Lasherは死ぬときの様子を次のように語っている。
「曲が終わると同時に、ジョーイの命も終わりました」
数年前に行なわれたLAUNCHとのインタビューの際、ラモーンズが成し遂げたことに満足しているかと訊いたところ、ジョーイは次のように話していた。
「やりたいことは全てやったと思うよ。唯一手に入れられなかったものは、たぶん大金じゃないかな」
「でもそれが全てじゃないんだ。自分にとっては、ラモーンズは全てのパンクロック・ムーヴメントにおける草分け的存在だった。みんなが後からついて来るような青写真を、無意識のうちに描いていたような気がする」
ジョーイはバンドをリードし、パンク革命を起こしたことで遺産を残した。ラモーンズは'70年代パンクの中心となったセックス・ピストルズやクラッシュ、グランジ・ロックのニルヴァナ、パール・ジャム、ネオパンクのオフスプリング、ブリンク182、ランシド、グリーン・デイといったバンドに影響を与えた。
ジョーイは彼のバンドが与える影響をよく認識していた。
「すごいことだと思うね。褒められるのは嬉しいよ」
「向こうを張って真似されるのは最高に光栄なことさ。そうすることで、物事が良くなっていくんだ。エキサイティングで、そして新鮮でいられる。人々にも同じことをするように影響を与えているんだ。全然、悪いことじゃないだろ?」
ジョーイ・ラモーンは故郷での葬儀の後、Hillside Cemeteryというニュージャージ州ウッドハーストにある墓地に埋葬された。そこにはジョーン・ジェット、ブロンディのメンバーのデビー・ハリーとクリス・ステイン、ラモーンズの元ドラマーTommy、その他友人や家族が参列した。
また、ラモーンズが頻繁に出演したパンクのメッカ、ニューヨークのクラブCBGB'sでは、4月30日にジョーイのトリビュート・ライヴが行なわれ、グリーン・デイが飛び入りで参加した(ニュース参照)。さらに、ジョーイの50歳の誕生日になるはずだった5月19日にも、その人生を祝福するイベントが計画されている。
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親戚でもないのにメンバー全員ラーモンと名乗る“ニューヨーク・パンクの元祖”の軌跡をここで簡単に振り返ってみよう。
結成は1974年のニューヨーク。結成当初のオリジナル・メンバーはジョーイ・ラモーン(vo)、ジョニー・ラモーン(g)、ディー・ディー・ラモーン(b)に、最初はマネージメント業務を担当していたトミー・ラモーン(ds)。
'76年に『ラーモンズの激情』でアルバム・デビュー。“3つのコード”“1.2.3.4のカウント”“3分足らずの短い曲”といった彼等独自のロックン・ロール・スタイルは既にこのアルバムで完成している。また、ジャケットにもある通りの“長髪”“皮ジャン”“ボーダーのシャツ”“破けたジーンズ”“スニーカー”というファッション・スタイルも彼等のアイコンとなっていく。
このデビュー・アルバムは音楽評論家達の賞賛を受けニューヨーク・パンクシーンの担い手としてラモーンズを世に知らしめることになった。
翌'77年春にリリースされたセカンド・アルバム『RAMONES LEAVE HOME』はUSでの商業的成功を収めることは出来なかったが、UKでチャートの48位まで上がるスマッシュ・ヒットを記録。また、このアルバムからはシングル「SHEENA IS A PUNK ROCKER」がUKでTOP40ヒットとなった。
同年秋には早くもサード・アルバム『ROCKET TO RUSSIA』を発表。途中ドラムのトミー脱退劇があるも、新ドラマーにマーキーを迎え、翌'78年には4枚目『ROAD TO RUIN』を順調にリリースしていく。
この頃から徐々にバンドは新しいサウンドを模索し始め、5枚目のアルバム『END OF THE CENTURY』ではプロデューサーにフィル・スペクターを起用。彼等が'60年代ポップスの良き継承者であることが伺えるこのアルバムには彼等のUKでの唯一のトップ10ヒットとなったロネッツのカヴァー曲「BABY I LOVE YOU」が収録されている。
またこの時期にロジャー・コーマン監督の映画「ロックン・ロール・ハイスクール」にも出演。彼等の楽曲が使用されたサントラも発売された。
しかし、'81年の6枚目のアルバム『PLEASANT DREAMS』、続く82年の7枚目『SUBTERRANEAN JUNGLE』とセールスが不調に終わり、マーキーが脱退し代わってリッチーが加入。人気に陰りの見えたラモーンズは、'84年リリースの『TOO TOUGH TO DIE』でシンプルな初期のサウンド・スタイルに戻すことにより、当時のアメリカのハードコア・パンク・シーンとリンクして再び人気復活。
以降の作品ではある種の開き直りとも言えるワン・パターン路線の作風を推進させ、世界中のラモーンズ・マニアに愛されるラモーンズとして、メンバー交代や一時バンド活動停止時期を挟みながらも22年間レコード・リリースとライヴ活動を行なったのだった。 |
| ビリー・ジョー (グリーン・デイ) ラモーンズは、聴きやすいオルタナティヴ・ロックからハードコア・パンクロックバンドまで、全てのものに影響を与えてきた。彼らの後に登場した全てのバンドに多大な影響を与えた。もしラモーンズが存在しなかったら、僕たちのバンドも存在しなかったと思う。自分たちの音楽制作に対する考え方に、ダイレクトな影響、インパクトを確実に与えてくれたバンドだったと思う。 | ボノ(U2) '77年にダブリンでジョーイが歌っているのを観た時、きっと彼はそれ以外のことはどうでもいいと思ってんじゃないかと思った。その後すぐ、自分も他のことがどうでもよくなった。ラモーンズは、U2やその他のガレージバンドが入って来れるように、音楽の世界を止めていてくれてたんだ。彼らは何かを発明した――自分の限界は自分自身で決めるものだというアイディア――自分の町、近所、衣服、自分のレコードのコレクションは宇宙と同じくらい無限であるということ。 | クリス・フランツ,ティナ・ウェイマス (トーキング・ヘッズ) トーキング・ヘッズの初ライヴはCBGB'sでラモーンズといっしょでした……。ジョーイはワイルドという評判だったけど、いつも紳士的に接してくれた。彼のパフォーマンスは忘れることができないよ! 現在、彼の死をひどく悲しんでいる家族とラモーンズの他のメンバーに心から同情します。彼はとても特別な存在でした。愛をこめて、Chris、Tina | ディッキー・バレット (マイティ・マイティ・ボストーンズ) ジョーイ、ラモーンズ、そして彼らが作ってきた音楽は、ボストーンズにとってインスピレーションであり、計り知れないほど深いものだった。彼は僕たちの人生を変えただけでなく、ロックンロール、そしてその世界も変えてしまった。もしジョーイという存在がなかったら、ラモーンズ、パンク、そしてボストーンズも存在し得なかった。たくさんのことがジョーイ ラモーンのおかげなんだ。楽曲、アルバム、コンサート、彼らの見方……。そして高校の時、ヘッドフォンから僕の頭にガンガン響いたジョーイの声……。偶然バッタリ会ったときも、いつも彼はいい人だった。ラモーンズは、アメリカの最高のロックンロールバンドだね。そしてジョーイの存在は、決して忘れられることはないだろう。 | ジェイムズ・ヘットフィールド (メタリカ) たぶん学生の時の仲間と俺が学校にいたら、みんなラモーンっていう名前にして、学校の教材に書いて、バンドの中の兄弟のひとりになろうとしただろうね。ジョーイは最も素晴らしいアンチヒーローだったよ。 | ジョーン・ジェット (ジョーン・ジェット・アンド・ザ・ブラックハーツ) 公に喪に伏すということはしませんが、彼は最高の人物だったと言わせてもらいたい。彼はすばらしいアーティストで、素敵な友人、そして私の音楽とキャリアに大きな影響を与えた人です。 | ラーズ・フレデリクセン (ランシド) ―数年前にあるギター雑誌で、ラモーンズと対談したときのことに触れて ラモーンズは今までで一番すごいバンドのひとつだ。そして、これからもそうだろう。全部がいいんだ。人生を共にする人と思いがけず出会うのは、人生のハイライトみたいなものだ。そういうのは本当に素晴らしいことだよ。 | ロブ・ゾンビー (ホワイト・ゾンビ) ―'95年のラモーンズのツアーでオープニングを務めた 彼らは見た通りそのままという感じで、それが、なんだか面白かった。“ぶったまげたな、あいつは想像していたのとは違う”とか、そんなことが全くなかったんだ。彼らは見かけ通りだった……。何年もずっと音楽を聴き、雑誌で見てきた人が実際に会ってみると、まったく違う人みたいだったりするだろ。けど、中には思った通りそのままの人もいるんだ。ようするに、クソったれな奴らじゃなくて、行動を通して本物の人格が出て来る人物だよ。 | セバスチャン・バック (元スキッド・ロウ) 「我々は、最も偉大なフロントマンのひとりを失ってしまった。俺は友達をひとり失い、ニューヨークの景観は今までで最も素敵な男のひとりを失ってしまった。'89年にCat Clubへ俺とSkid Rowを観に来た時、初めてジョーイ・ラモーンに会ったんだ。彼はいつもSkid Rowに興味を持っていて、とても感じのいい人だった。いつも俺がニューヨークで出歩いてると、彼に会って一緒にブラブラしてたんだ。彼は'98年と2000年の俺のソロのショウに来てくれたんだ。実際、2000年の初めのニューヨークで俺のソロバンドのショウでオープニングに演奏するために、Independentsっていう彼自身がマネージメントしてたバンドがあったんだ。彼は本当にいい人、いい友達だった。ジョーイ、俺は君を忘れないよ。愛してるぜ。そして、俺が今までに会った人の中で最も素晴らしい人のひとりでいてくれたことに感謝するよ。 | ラモーンズと最初に契約した Sire Recordsのシーモア・ステイン ジョーイ・ラモーンは、私が音楽ビジネスで一緒に仕事をした人たちの中で最もセンシティブで、優しくて、理解のある人だった。最も影響力を持っていた時期、ラモーンズは私のオフィスに出入りするのと同じくらい頻繁に、私の家にも出入りしていた。彼らは私の家族の一部だったし、私の2人の娘も、単に彼らの音楽を聴いて育ってきただけでなく、彼らのコンサートのバックステージにいて育ってきた。2、3週間前に最後にジョーイと話したとき、彼は現在一緒に進めている新しいバンドのデモを送っているところだと、私に話した。'70年代後半から'80年代初期の頃を思い起こすと、その時代は私にとって最も幸せな時代だった。そして、どれだけラモーンズに世話になったか、どれだけジョーイがいないことが寂しいかを実感している。 | 石坂マサヨ (ロリータ18号)―4枚目のアルバムをジョーイがプロデュース。4月22日に行なわれた新宿LOFTのライヴでも、アンコールで“ROCKAWAY BEACH”を披露、ジョーイに捧げた ジョーイ・ラモーンはロリータ18号の4thアルバム「父母(ハート)NY」をプロデュースしてくれました。はじめて見た生ジョーイはとにかく「でっかい!!」のひと言。「Nice to meet you!!」と握手しようとしたエナゾウがそのままジョーイの股の下をくぐり抜けた……という逸話を残したり残さなかったりするぐらいのでっかさと強烈な存在感がありました。しかし、レコーディングをしながら数日間一緒に時を過ごしてみると、「でっかい」のは身長だけでなく「音楽を愛する心」、これがとても「でっかい!」方だということも分かりました。ロリータ18号というやんちゃなジャパニーズ4人組と遊んでくれただけでも相当フトコロがでっかい!! プロデュースだけでなく、そのあとのNYで行なわれたジョーイのイベントにも誘って頂き(ロネッツやブロンディが対バンだった!!)、一緒に“ROCKAWAY BEACH ”(ラモーンズの3rdアルバム『ROCKET TO RUSSIA』に収録)をうたいました。ロリータ18号を通してアタシはジョーイとたくさんの思い出を作ることができましたが、ラモーンズというバンドは思い出なんかになりません。アタシの中では今までと何ら変わらず、常に全開バリバリ夜露死苦メカドック!! という感じで流れ続けているよ。ラモーンズ、大好きです。ジョーイよ、月影先生って言ってゴメン……。 |
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