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Rhode Island School Of Designの学生が結成したTalking Headsは、もったいぶったところのないアートロックのバンドとして出発した。ニューヨークシティのバウアリー通りにあるクラブCBGBsを中心に起こった、ニューウェイヴ/パンクロック・ムーヴメントから浮上した彼らは、知的で探究心に富むユニットをつくることを優先して、月並みなロックのポーズを無視し、垢抜けない髪形とプレッピーな服装をしていた。David Byrneのいかにも神経質な挙動と声に導かれ、余計なものを削ぎ落とした『77』と“Psychokiller”“No Compassion”など風変わりな曲を携えての、唐突な出現だった。

2ndアルバム『More Songs About Buildings And Food』では、プロデューサーにBrian Enoを迎える。とたんに構成は厚みを増し、コンセプトははっきりと具体化された。ベースのTina Weymouthと夫でドラマーのChris Frantzによるリズムセクションは妙にぎごちなかったが、それも彼らのサウンドの特徴になり、EnoはJerry HarrisonのキーボードとByrneのポストモダンな思索に重きを置く。『Fear Of Music』でも同じ路線がとられた。

音楽の中にたっぷりとった隙間は、粗悪なバンドにありがちなそれとは明らかに違っていた。『Remain In Light』になると、第三世界のリズムと、長めの気ままなインストゥルメンタル・パッセージが採り入れられる。

ラインナップを大幅に拡充してライヴを行なうようになると、彼らのアルバムは次第に本質から遠ざかる。Byrneが没頭しはじめたワールドミュージックのサウンドは、Talking Heads本来のロックとは相容れないものだった。

Enoは5人目のメンバーとしてバンドにかかわりつづけた。しかしバンド内に張り詰めた雰囲気が漂い、個々のメンバーにとってTalking Headsは二次的なプロジェクトになる。解散を公言したのは''80年代の終わりだったが、彼らがそれを認めようとしなかっただけで、実際にはとっくに空中分解している状態だった。その後Byrneはソロ活動を続け、あとのメンバーはHeadsという名前でアルバムを出したものの、どちらもたいした成果をあげていない。