孤高のレゲエスターが歩んだ道のり
孤高のレゲエスターが歩んだ道のり |
Shaggyはお馴染みのサンプルとユーモラスな歌詞で大きな成功を収めたレゲエとポップのフュージョンでグラミー賞を獲得したほか、どの年においても常に他のダンスホール系アーティスト上位3者の合計より数多くの枚数を売り上げている。 MCA移籍第1弾アルバムとなる『Hotshot』は多様なプロデューサー(Jimmy Jam & Terry Lewisやレゲエのヒットメーカー仲間であるDave & Tonyなど)が支えているものの、立証済みのShaggyの成功の公式からは大きく外れていない。 つまり、楽しく消化しやすく、Michael JacksonからSteve Miller Bandに至るあらゆるアーティストのサンプルをいっぱい使ったサウンドである。言い換えれば、まったくもってShaggyそのものということだ。 「僕はギミック以外の何者でもないよ。そうだろう? そのことをわかってくれよ」 “Mr. Lover Lover”の名でも知られるアーティスト(芸名は漫画Scooby-Dooの相棒から採った)はそう宣言して長い間にわたる自身の創作手法について語った。 「僕はいつもギミックを使うし悪ふざけもしている。音楽をシリアスに考えたことなんてないね。座り込んで気違いみたいなレコードを作るつもりはないんだ」 膠着したキャリアにいらだったShaggyは、海軍に入隊し湾岸戦争にさえ従軍したが、レコーディングは続けていた。そのひとつがインディーズのダンスレーベルSignetRecordsに吹き込んだFolkes Brothersのカヴァー曲「Oh Carolina」である。 「Oh Carolina」はサンプリングの権利をクリアにする法律に関して厳しい教訓を彼に残した(リリース後に大掛かりな訴訟がなされ、彼は一文無しになってしまったのである)。しかし、この曲はイギリスのポップチャートに食い込み、彼にVirgin Recordsとの契約をもたらしたのだから、Shaggyの法的ギャンブルは吉と出たと言えるだろう。 その直後の'95年にShaggyは、セカンドアルバムのタイトル曲「Boombastic」でチャートをクロスオーヴァーする大ヒットを放っている。これで彼は単なるレゲエのスターではなく、真のポップスターになる運命だったと証明したのである。 今やBob Marley以来のレゲエ界最大のサクセスストーリーとなったShaggyは、ジャマイカのキングストンでくつろぐことも多くなり、Manhouseや自身のBig Yard Recordsといった地元のレゲエレーベルにも時折り録音を残している。 彼がジャマイカの市場で信認を得るのにどれほど長い時間がかかったかを考えれば、彼が懐疑的なジャマイカのレゲエファンの間での地位を維持するためだけにこれらのレーベルにレコーディングしているのかどうか不思議に思うことだろう。 Shaggyは素早く反論する。 「もしジャマイカの誰かが僕が本物かどうか疑っているにしても、連中に何も証明してやることなんかないさ。現在のニューヨークのDJを見てみれば、誰がいったい生き残っているって言うんだい? 僕は12年間続けているけど、今でもここでBeenie MansやBounty Killersなんかとつるんでるんだぜ」 しかしながら、Shaggyへのサポートに関して消極的だったのはジャマイカのレゲエファンだけではない。驚いたことに彼はアメリカのアーバン系ラジオ局からも、大きなサポートを受けたことが一度もないのだ。 「一段落したときに全体を見回してみればわかるさ。「Oh Carolina」がリリースされたとき、アーバン局ではオンエアしてもらえず、レゲエ局とポップ局が頼りだった」とShaggyは指摘している。 「それに「That Girl」(Maxi Priestとのデュエット)も「Love Me Love Me」(Janet Jacksonとのデュエット)もアーバン局では一度もプレイされないで、ポップ局ではオンエアされていたんだ。これは僕の選択したことでも、計画したことでもなかった。状況まかせでやっていくしかないのさ」 「僕はハードコアなレゲエと明らかにポップなアルバムの両方を楽しんでレコーディングしているのであって、特定のオーディエンスをターゲットとして獲得しようと計算ずくでやっているわけではない」 どこか防御的に強調しながらShaggyは肩をすくめて結論を語った。 「だからMichael Jacksonのサンプルを(『Hotshot』のトラック)「Danc by Jacquie Juceam |