【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第44回「小倉城/おぐらじょう(埼玉県)卓偉が行ったことある回数 2回」

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我が故郷は福岡県の古賀であるが、福岡県の北九州にも埼玉県小倉城と同じ漢字のお城、小倉城がある。が、そちらは読み方が「こくら」である。九州は濁点が付かないことが多い。私の親父は東京出身なので中島「なかじま」であるが基本的に福岡では「なかしま」と呼ばれる。が、親父に必ず「なかじま」だと言い直せと言われていた。が、先生に出席名簿で呼ばれても、病院で呼ばれても、「なかしま」としか言われたことがなかった。卒業証書でも必ず校長先生に「なかしまたくい」と呼ばれる始末。途中で面倒くさくなったのは言うまでもない。だが「たくい」の発音は木村拓哉さんと同じ発音で「卓偉」読んでくれたまえ。これもういい加減腹立つレベルだ。東京に出てから都会の人がそう呼ぶようになり全国区になってしまった。違うのだ、私の親戚は親父方の中島も母方の山本もみ~~~~んなそっちの発音で卓偉である。都会に限って発音が間違ってるわけではないのだ。現代人の発音に問題があるのだ。親戚にいつも言われるのである、「おまえが出るラジオ聴いてもDJの人がいつもあげな発音になるやろ?あれいい加減やめさせい、おまえが売れん理由のひとつ、それは「たくい」の呼び方、発音やぞ」ということで2016年から徹底してすべての人のたくい発音を直させていこうと思っている。

さて、今回紹介する名城は「おぐらじょう」である。きたきゅーの小倉城は(福岡人は北九州のことをこう呼ぶ)「こくらじょう」である。間違えてはいかん、まあ。きたきゅーの小倉城は天守が復興天守、そんなプラスティックな話があるか、そんなのいらんのだ。立派な石垣と立派な堀が残っているではないか。それでいいではないか!愛を込めて言わせてもらう。


話を戻すが埼玉県小倉城である。これ最高。凄いっす。城主は定かではないが、北条氏重臣だった遠山氏、もしくは上田氏とされる。築城は1500年代半ばであろうか。先に言っておくと、ここ最近で有名になった兵庫県の竹田城の土塁版と言いますか、総石垣ではないが(後ほど実は総石垣だった説について松岡修造くらい熱く語りたい)竹田城の作りと非常に良く似ているのだ。歴史は全然こっちの小倉城の方が古い。

前々回の杉山城、前回の東松山城、そして今回の小倉城、これが私の中で埼玉のこの辺の地区のトライアングル3大名城と言いたい。この3つはセットと考える。杉山城が高見沢さん、東松山城が坂崎さん、小倉城が桜井さんで、ジ・アルフィーである。ポリスだと杉山城スティング、東松山城アンディ・サマーズ、小倉城スチュアート・コープランド、である。いや、杉山城がモッくん、東松山城がフッくん、小倉城がヤッくんかもしれない。何の話ってシブガキ隊の話である。もしくは杉山城が「メリーアン」、東松山城が「Promised Love」、小倉城が「星空のディスタンス」かもしれない、何の話ってもう一度ジ・アルフィーに戻ってみたのである。

関東の城に石垣の城はほとんどないが(いやもはやそんなことはないんじゃないだろうか)このヤッくん、いや小倉城、牛蒡積みの石垣がところどころに残っている。これがまた素晴らしいのである。

山自体が岩山で出来ているので、これを削って石を組んだことがわかる。日本全国こういうやり方で石垣を積み上げた城は実に多い。山の麓でどんなにいい石が用意出来てもそれを山の上まで持って行くのは大変に決まっている。小倉城は標高136mの山に建てられているので非常に利にかなったやり方なのである。


牛蒡積みとは平べったく削った瓦のような石をただシンプルに積み上げて組んだ石垣のことである。これがまた非常に味があるのだ。今にも壊れそうな感じがたまらない。まだ石垣自体に歴史がない頃の積み上げ方だ。石垣は主に野面積み、そこから打ち込みハギ、そして最後は切り込みハギという手法を使うまでに発展していった。中には算木積みという菱形的な石というかアーガイルな石を上手く積み上げた石垣も存在する。この牛蒡積みこそが日本の石垣の原点と言えると私は思うのだ。そう、最初はただ積み上げるだけ、だからこそ崩れやすい、崩れやすいからこそ石垣も工夫がなされ発展して行ったのである。言わば石垣のルーツを感じられる城なのである。R&Rのルーツで言うと1955年。PUNKで言うと1977年。卓偉で言うとデビューの1999年というのと同じだ。これもトライアングル現象、もしくはこの3つさえもむしろジ・アルフィーと読んでくれても構わない。

そんな崩れやすかった牛蒡積みの石垣だが、こうして今日まで残っているのだからもしかしたら頑丈なんではないか?とさえ思えてくる。

城の至る所で石垣を発見出来るが、近年土塁の崩れもあり、若干石垣が土に埋もれて見えなくなってきている。発掘調査が何度か行われているがとにかく至る所から牛蒡積みの石垣が発見されている。私思うに、小倉城はそもそも総石垣の城だったんではないかと思うのである。立派な土塁も存在するので総石垣と言ってしまうのは無理があるかもしれないが、この土塁をちゃんと掘って覗いてソフトタッチで触れるか触れないかくらいの、その方が意外と感じる的な調査したら牛蒡積みの石垣がもっと出てくるんじゃないかと推測するわけである。小倉城、ここぞという場所には必ず石垣が組まれている。

竹田城と同じく、両サイドに羽を広げた山のてっぺんに築城されている小倉城、城の裏は槻川を天然の堀にして防御されている。ひとつはっきりしないのは大手が何処かということである。城の中にはわかるだけで5つの上り口がある。どの道が大手口だったかがわからないのである。


現在は山の麓にある大福寺の手前にある駐車場から横に入って登っていく道が1つ、もしくは大福寺を正面に左手に周り、郭4と言われる曲輪から入っていく道が1つ。大堀切の下から登る道もあるし、本郭の裏に降りて行く道も考えられるがこの道はどう考えても搦手だと言える。よって郭4と呼ばれている上り口が大手ということかもしれない。

小倉城の魅力をいくつか上げていこう。まずはこの郭4に入り、進んで行くと大堀切に出くわす。現在は土砂が埋もれてきているがここのスケールは素晴らしい。今でこそ土橋で渡るようになっているが当時は絶対に橋が架けられていたとされる。山城の排水溝としての役目も果たしている。ここを渡ると左手の土塁の上が郭2となる。この下にも行ける道があり、たくさんの曲輪が存在する。ここが大手だったと考えても間違いではない。

そして左に道が曲がるがここも堀切となっていて、郭2と本郭の間を堀切として、通り道として、両方の役目を果たすようになっている。敵が攻めて来たらこの土塁の上から全方向へ攻撃が出来るシステムになっている。これは本当に素晴らしい。本郭に入るにあたってここで桝形になり門の跡が表れる。この周辺も今でこそ土に埋もれているが発掘調査では両サイド石垣、足元も石畳だったことがわかっている。

そして本郭へ。ここもこの平べったい面積を考えると屋敷的なものが存在したことをイマジンしたい。本格の真ん中に小倉城の石碑と説明が書かれたボードがあり、ここより上がまたちょっとだけ高くなっているので、ここが本当の本郭だったと言えるのではないだろうか?まだ天守などは存在しなかった時代、一番位の高い人達がここで暮らしていたことが伺える。この先にも搦手へ繋がる門跡があり、そこを下ると右にもう1つ曲輪が、そして左にはまた桝形の門跡がある。この下は完全に崖なので防御も固い。この先にも曲輪はいくつも存在する。どんな城も搦手はシンプルな作りが多いが小倉城はとても頑丈な搦手にデザインされている。

そして小倉城のもっとも最高な魅力、鉄板な場所、それは本郭の真ん中の門跡から下に降りる場所にある郭3だ。ここにまず岩と石垣を両方利用した痺れる程の堀切が存在する。周りは全部牛蒡積みの石垣で固められているのだ。ここの下にも道が存在するがここの防御がもっとも固い。なんなら本郭以上である。下から上って来るとちょうどこの郭3の周りを歩いて桝形の入り口になる。そして一番の見所の岩の堀切の上を当時は橋が架かっていたはずなので、その橋を渡り、また小さな曲輪になり、その先の門を潜れば本郭に入れるという仕組みになっている。この郭3はもはや戦の為、攻めて来た敵を仕留める為だけに作られた曲輪だと言える。素晴らしい。感動する。


全部で3つの羽を広げたような作りになっている小倉城。何故どんな城の本にもこの城が載らないのか、意味がわからない。何故ちゃんと取材して紹介しないのか、意味がわからない。しっかりと評価すべきだ、評価されるべきだ。卓偉も……。

二度目に訪れた時は真冬ということもあり雪が残っていて、本郭、郭2などは雪に覆われていた、木に降り積もった雪が風に揺らされ、太陽の光に溶かされ、やわらかくやわらかく城内に降って来たことがとても幻想的だった。風に晒される度に雪が花びらのように舞い、決して寒くない吹雪の中を歩いてるようだった。山城は秋から冬にかけて来城することをお勧めしたい。だが春は熊が出るとの看板があったので気を付けよう。熊と言ってもギタリストの生熊耕治くんではない。当たり前だ。

ここであえて、満を持して、きたきゅーの小倉城に話を戻してみたい。

私が福岡に住んでいる頃、親父が再婚するにあたって義母の実家は北九州市にあり、それこそ小倉城も近かったと思うのだが、何度か相手方の親に会う為に小倉に訪れたことがあった。今思えば親父も結婚の許しをもらう為に何度も通ったということなのだが、ある日近くのコンビニの駐車場で親父に「とりあえずここでおとなしく待っとけ」と言われ普段ほとんど買ってくれないアイスクリームを買ってもらい、兄貴と二人、親父の乗っていたマツダのハッチバックのファミリアと一緒に待たされた時があった。こういう場合最初は託児所だったがその頃はもう自分も小学校に上がっていたので時間もつぶせると親父は思ったのだろう。だが1980年代中頃、当時のきたきゅーは治安が半端なく悪かった。ヤクザ、チンピラ、流れ者、ヤンキー、そういった人達のセレブレーションな時代だったのである。

その駐車場は昼間にも関わらずシャコタンブギに出て来そうな改造車や、湘南爆走族よろしく、絵に書いたような暴走族の単車が同じように時間を潰す為に入って来た。まだそういうヤンキーを見ても怖いという感情や感覚を持つ前の我々兄弟。

「しかしよう唾ば吐きようねえ、なんであげなうんこばするような座り方で座っとうとかいな?」と兄貴と私は思った。
しかも爆音でチェッカーズの「俺たちのロカビリーナイト」がかかっている。で、私はふと思ったことを兄貴に聞いてみた。

私「兄ちゃん、しかしなんでこげなプラモデル作る時の臭いばすると?」
兄「プラモデルの臭いやなくて、セメダインやろ?」
私「セメダインってなんね?」
兄「プラモデルをくっ付ける為に塗る透明なネバネバしたやつたい、うちにもあるやろうが」
私「ああ、あれね、でも何であれと同じ臭いがするっちゃろうねえ?」
兄「よう見てみ、あっこにおる兄ちゃん達、全員缶ばくわえとろうが?あれにセメダインが入っとっちゃない?」
私「ええ?セメダインば飲むと?嘘やろ?」
兄「でもあっこにおる兄ちゃん達みんなヘラヘラ笑いようやん、美味しいってことやろ」
私「……。」

一体何時間待たされただろうか。いろんなヤンキーがこの駐車場を行き来する中、店の入り口の張り紙に私はもうひとつ気になったことを発見した。そこにはこう書いてあったことをはっきり覚えている。

「ここでシンナーを吸うのはやめてください、直ちに警察に通報します」

それをまた兄貴に聞いてみたのである。

私「兄ちゃん、店の入り口に書いてあるシンナーって何?」
兄「何やろ?吸うって書いてあるけん煙草の種類のことやない?」
私「でも煙草やったら父ちゃんもバリ吸うけん、ここで父ちゃんが煙草吸うたら警察に行かないかんちゅうことやん!?」
兄「あっ!?ほんとやね!」

そこへようやく親父が登場。ヘビースモーカーだった親父は常に歩き煙草だった。

親父「おお待ったか、乗れ、帰るぞ」

焦った兄貴は言った。

兄「父ちゃん!ここで煙草吸いよったら警察に捕まるらしいったい!」
親父「あ?何言ってんだ、捕まるわけないだろ!」(親父は東京の人間なので標準語であった)
私「……。」

そのまま3号線に乗り、住んでいた古賀へ帰る道すがら親父に聞いてみたのだ。

私「父ちゃん、シンナーって美味いの?」
親父「おまえそれどこで知ったんだ!?怒」
兄「さっき待っとった駐車場の入り口にここでシンナーは吸わないでくださいって書いてあっとよ」
親父「そんなことは知らなくていい!怒」

車内でもハイライトを吸いまくる親父に私は意を決して聞いてみた。

私「父ちゃんが今吸いよう煙草はシンナー?」
親父「おまえら待ってる間にシンナー吸ったのか!!!!!??????怒」

もうめちゃくちゃであった。

今日紹介したのは埼玉県の小倉城であり、どこまで行っても北九州の小倉城ではない。

ああ小倉城(おぐらじょう)また訪れたい……。

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