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1998年2月6日、ビーチ・ボーイズのカール・ウィルソンが癌のために亡くなった。事実上これでビーチ・ボーイズの歴史は幕を閉じたと言ってしまっていいだろう。ブライアン・ウィルソンのソロ活動がやっと起動に乗り始めた今、カールこそがバンドの最後の象徴であり良心であったからだ。名曲「ゴッド・オンリー・ノウズ」のあの感動的な歌唱はもう聴けない。しかしこの誤解と伝説にまみれた世界最古のロック・バンドは、やっと本来の価値を問われる段階に来たのかも知れない。

カール&ザ・パッションズ、ザ・ペンドルトーンズを経て、ザ・ビーチ・ボーイズとして地元のマイナー・レーベルからデビューしたのが1961年。メンバーはウィルソン三兄弟に従兄弟のマイク・ラブ、ハイスクール時代の友人アル・ジャーディンの5人である。次男デニスの提案により、西海岸で流行っていたスポーツをテーマにしたオリジナル曲「サーフィン」が作られ、全米75位のヒットになる。翌'62年にはキャピトルから「サーフィン・サファリ」で再デビューをはかり、'63年には「サーフィンUSA」が全米3位と大ヒットを記録しブレイクする。

その後順調にヒットを飛ばし、'64年の対ビートルズ戦でもリーダー、ブライアンの音楽的な目覚めによって勝ち組に残る。が、その後ブライアンはツアーを辞め、スタジオ・ワークに専念することになった。そして作られたのが名盤『ペット・サウンズ』である。しかしあまりにも内向的で、限り無くスピリチュアルなこのアルバムは、一般のファンとキャピトルの上層部には失敗作とみなされ、その後のバンドの停滞を示す最初の兆候となった。

'66年のシングル「グッド・ヴァイブレーション」で全米No.1をとった後、バンドはヒップな時代に突入したロックの需要からは見放され、ヒット・チャートから縁遠い存在となっていく。彼らは活路をイギリスを中心としたヨーロッパに見出し、ライブ・バンドとして評価を高めていった。

ブライアンがドラッグに溺れバンドと関わりを持たなくなった時代に活躍したのは、代わりに加入したブルース・ジョンストンやデニス、カールである。'67年から'69年にかけてのアルバムでは地味ながらリラックスした雰囲気の中、彼らメンバーの音楽的成長が着実に進んで行く。'70年ブラザー・レコードに移籍し発表されたアルバム『サンフラワー』は久々に豊潤な音楽センス溢れる眩しい作品となった。しかし当時人気はどん底で、内容に反し151位止まりという悲惨な成績だった。

その後、黒人ミュージシャンを迎え入れてバンド名を変えてみたり、オランダに長期滞在してレコーディングを試みたり様々な試行錯誤を続けるが、'74年突如リバイバル・ブームが起こり初期ベスト・アルバムが全米1位を記録する。すかさず精神状態が最悪のブライアンをレコーディングに引っ張り出し、過剰な復帰キャンペーンのもと『15ビッグ・ワンズ』を発表。その結果久々のヒット作となるが、次作'77年の『ラブ・ユー』をプロデュースしたのち、ブライアンは再び沈黙に入った。 以降バンドはアメリカ屈指のライブ・バンドとして手堅く「偉大なるワン・パターン」を演じる道をとるしかなかった。カリブー移籍後のアルバム群も初期の栄光を背景にしたカリフォルニア・イメージを積極的に取り入れ、メンバーもその役割を楽しんでいるように見える。

'83年のデニスの死を乗り越えたバンドは、'88年、映画『カクテル』の挿入歌「ココモ」が、「グッド・ヴァイブレーション」以来何と22年ぶりの全米No.1を記録。その年ブライアンも初ソロ・アルバムを発表するなど、ファンにとっては嬉しい年となった。 しかし'98年、前述のカールの病死によってバンドは空中分解をする。現在ビーチ・ボーイズの名を語っているのはマイク・ラブとブルース・ジョンストンの2人。アル・ジャーディンはバンドとは袂をわかち、自分の息子やブライアンの2人の娘たちと「ビーチ・ボーイズ・ファミリー・アンド・フレンズ」を結成した。

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