【インタビュー】KISAKI、30年の音楽人生──『Eternally』、そして『破戒』

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◾️挫折というより、音楽生活初の絶望

──大晦日の「Re_REQUIEM」の配信楽しみにしています。そして、30周年のアニバーサリーイヤーもあとわずか。ここからは改めて、KISAKIさん30年の音楽活動を振り返って、お話を伺いたいと思います。まず、音楽に興味を持ったきっかけは?

KISAKI:子どもの頃から音楽に興味があったわけでも、音楽家庭だったわけでもないんです。きっかけはX JAPAN。YOSHIKIさんの作る旋律が、僕にすごく刺さったんです。それからしばらくは聴いているだけだったんですけど、自分でもやりたくなって、地元の友達とバンドを組もうとなりました。

──その頃からパートはベースですか?

KISAKI:そうです。友達がドラムを叩けたので、じゃあリズム隊でとりあえず練習しようということになり。僕がベースになりました。

──バンド活動30周年の拠点の年となる1993年に加入したバンドが、Levia(リヴィア)ですね。

KISAKI:1993年以前も、遊びでベースを弾いてはいましたけれど、このバンドで初めてオリジナル曲を作って、ライブハウスをブッキングして活動しました。

──実際バンド活動を始めてみていかがでしたか?

KISAKI:まず、楽しかった。地元の和歌山のライブハウスの店長さんがすごく後押ししてくれて、最初からけっこう人気があったんです。演奏はひどかったと思うんですが、当時、和歌山にヴィジュアル系バンドがいなかったからなのか、動員はそれなりにあったんです。

──和歌山初のインディーズ・ヴィジュアル系バンド?

KISAKI:初かどうかはわかりませんが、ほとんどいなかったんではないでしょうか。当時はバンドブームでBOØWYのようなビート系のバンドは多かったんですが、ヴィジュアル系のバンドはいなかったですね。そんなこともあってか、最初からある程度集客できたのかも知れないですね。その頃は絶対この世界で生きていこうというような気負いもなくて、“こんなに早くバンドって軌道にのっていくものなんだ”ぐらいに感じていました。

──大阪でも活動していたんですか?

KISAKI:いや、和歌山県内だけの活動でした。主に和歌山に来るツアーバンドのオープニングアクトをやっていました。メジャーバンドのオープニングアウトもしていたので、ライブハウスだけじゃなくて、和歌山市民会館のようなホールでもライブをしました。地元テレビ局のニュースでは「奇跡の高校生バンド現る!」みたいに報道されたり(笑)。


──まさに順風満帆ですね。

KISAKI:地元では反応がよかったんですが、僕はもっと練習して、たくさん曲を作って大阪で活動したいと思い始めていて。その時がちょうど高校卒業のタイミングだったんです。ここは僕の人生の分岐点の一つですね。他のメンバーは進学したり就職したりと、それぞれ進路が違って、解散するしかないということで、卒業式の日にワンマンライブをやって、それが解散ライブとなりました。

──いい思い出ですね。

KISAKI:そして、単身大阪に出てきたのですが、なんのあてもなく、右も左も分からなかったんですね。最初は楽器屋や雑誌のメンバー募集を見て、連絡して実際会うことを繰り返して。そんななかでLAYBIAL(レイビアル)というバンドに加入することになりました。そのLAYBIALも、そのあとに加入したSHËY≠DË (シェイド)も、自分のやりたいことをやるというよりは、ただ自分がステージに立てる場所があればいいという感じでやっていたので結果も出ずに、長くは続かなかったんです。和歌山で活動していたときはちょっとしたスターみたいに扱われていたのに、大阪に来てからは全然駄目だなと……。いつも1人ワンルームの部屋に帰っては、ああでもない、こうでもないとMTRで曲作って、毎日そういうのを繰り返して。貯金もこのままだと尽きるし、現実の厳しさをめっちゃ知らされました。ただ、いくつかバンドに加入、脱退している中で、GARDEN(ガーデン)というバンドに加入したんですね。そのバンドが大阪で100人ぐらい動員できるようになってきたんです。そのバンドで初めて東京にもライブで来ました。

──GARDENでは音源はリリースしましたか?

KISAKI:当時のインディーズシーンのリリースはCDではなく、デモテープのリリースがメインでした。それで、デモテープリリース発売記念で初めて東京でのライブが決定したんです。せっかく東京に行くのであればと、関係者の方が都内のライブを数本ブッキングしてくて。ただ、GARDENは3ピースバンドで、ドラムは打ち込みだったんですね。僕がやりたかった音楽はこれじゃないという気持ちがあったところに、Stella Maria(ステラマリア)からの誘いがあったんです。

──それは1994年ですね。Stella Mariaは当時東京でも、話題になっていました。

KISAKI:僕は加入だったのでリーダーではなかったのですが、他のメンバーがなにもやらないので、途中から僕がリーダーっぽくはなりました。バンドの宣伝担当みたいなことも僕がやっていましたね。雑誌に載りたいと思って、音楽雑誌を発行している出版社に電話したり。「僕たち表紙になりたいんですけど、いくらで売ってもらえますか」って(笑)。そうしたら、出版社の営業の方に「表紙は売ってません!」とキレ気味に言われて。当時は業界のことをなにも知らなかったんで、随分失礼な電話をしましたね(苦笑)。

──怖いもの知らず、ですね(笑)。

KISAKI:バンドの人気が出れば雑誌側が勝手に載せてくれると思っていたんですけど、とりあえず音楽雑誌の表紙は買えないということはわかって(笑)、なにはともあれ、東京行って直接出版社の人と話をしようと思いました。それで上京して、実際に出版社の人に会って話をしたら、意外にも優しく話を聞いてくれて。それがきっかけで初めて音楽雑誌のインタビューを受けて、記事が2ページ掲載されました。それから一気にライブ動員が増えましたよ。


──とにかく行動するというのがKISAKIさんらしいエピソードだなと思います。ただ、カリスマ性のあるリーダーというのは、言い方は悪いですけれど、自分のアイデアをもとに、周りの人を動かしていくようなイメージがあるんですね。KISAKIさんは自らが積極的に行動しますよね。

KISAKI:バンド活動も、レーベル運営も、人に任せっぱなしにしたくないんです。それは、自分の神経質な気質が関係しているのかもしれませんが、自分でプロデュースして、現場も含めて自分も行動したい。それは30年間音楽をやってきて、今も昔も変わらないところではあります。そんな自分の気質からか、さっき話したように媒体へのプロモーションや、ライブのブッキングまで僕が担当していました。ただ、ライブのやり方もまったく分からなかったので、当時の自分たちとしては大箱である600人キャパの梅田アムホールに直接電話して「ここでライブやりたいんですが、どうしたらやらせてもらえますか」と聞いたら、「お金を払ってもらえれば貸すよ」「じゃあ、お金を払うのでやります」って感じで進めました。それで、結果アムホールが埋まったんですよ。そのときに大阪に来て、初めて結果が出たと実感できましたね。

──なるほど。

KISAKI:そんなとき、京(現DIR EN GREY)がやっていたバンドと対バンになったんです。京を見たときに衝撃を受けて「このボーカルとバンドをやりたい」と直感的に思って。それで楽屋で話しをしたら、好きなバンドも、バンドに対する姿勢や考え方も彼と共感できたんです。それで、「一緒にやろう」と京を口説き落としたんです。

──その京さんと組んだのが、La:Sadie's(ラサディーズ)ですね。

KISAKI:そうです。ボーカルは京で決まったので、最強にビジュアルが良くて、最高にカッコイイバンドを作ろうと、たくさんライブを観て、その中からこれはと思うメンバーを引き抜いてLa:Sadie'sを結成しました。

──La:Sadie'sは1996年に結成。すぐに反応があった感じでしたよね?

KISAKI:初ライブが京都だったんですが、初ライブから即完売。その後も、動員がどんどん増えていきました。初めて行った全国ツアーも各地評判がよくて、いよいよCDをリリースしたいと思ったんです。だだ、当時CDを制作するのには、すごくお金がかかったので、自主でリリースするのはハードルが高かったんです。それで大阪の色々なレーベルにCDを作ってくださいとコンタクトをとったんですが、ことごとく断られて。「絶対に売れるのになんで断るの!?」って。

──当時の勢いであれば、売れるのは必至であったはず。なぜだったんでしょう。

KISAKI:どうやら、僕と仕事をすると面倒なことになると思われていたようで(苦笑)。

──周りからそういうふうに思われていた自覚はありましたか?

KISAKI:ありました(笑)。ライブをやるにしても、出演順から出演時間、ギャラなど細かいことを全部事前に確認して、細かい要望をだしていましたからね。それもメチャクチャ強気で。対バンが先輩バンドだろうが、「俺たちがトリじゃないと出演しない」といった感じでしたから。一歩間違えると輩ですね(笑)。それで、ライブハウスやレーベルからも「もう、お前ら他でやれ」って言われたこともあったり……。そんななかでも当時勢いのあった名古屋MUSIC FARMのレーベルからCDのリリースが決まりましたが、解散することになりました。


──どういった経緯だったのですか?

KISAKI:自分が良かれと思ってバンドのために行っていたことが、他のメンバーにしたら一方的に見えたんだと思います。リーダー失格だったんです。次第に他の4人との距離を感じるようになって……。僕の知らないところで動きがあったようで、ある日、メンバー4人からバンドを抜けると伝えられました。

──KISAKIさんにとっては、挫折ですかね。

KISAKI:挫折というより、音楽生活初の絶望ですね。でも辞めるって言われたものを僕はどうすることもできない。そのときはもう終わったと思い、めちゃくちゃ落ち込んで引きこもってました。もうこれ以上のメンバーには出会えないと思ったので。ただ、そんな絶望のなか、これまで対バンしてきたバンドから気になっていたメンバーを思い浮かべるうちに「もう一回やろう」と決意して、MIRAGE(ミラージュ)を結成することができました。

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