【コラム】HAPPY BIRTHDAY、解散から6年後にMV再公開の理由「生きづらさを感じている人に」
HAPPY BIRTHDAYの楽曲「しゃかいのごみのうた」のミュージックビデオ(MV)がオフィシャルYouTubeチャンネルにて再公開された。2015年4月の解散以降、非公開となっていたMVは、“早すぎたバンド”と“時代が追いついた映像作家”が描いた若者の物語となるものだ。
◆HAPPY BIRTHDAY 動画 / 画像
■今こそリアルに響く
■うまく生きられないみんなの歌
“わたしは社会のごみかかすだ 何もできることがない”──これは2011年発表の「しゃかいのごみのうた」の一節だ。HAPPY BIRTHDAYは歌とギターのきさ、ドラムのあっこからなる2人組ガールズロックバンド。「しゃかいのごみのうた」はメジャーでの1stアルバム『ファーストキス』(2011年発表)に収録されている。
▲1stアルバム『ファーストキス』
メジャーデビュー直前だったか直後だったか、下北沢の小さなライブハウスでHAPPY BIRTHDAYのライブを観たことがある。サポートメンバーを入れずに2人だけで演奏していた。2人は元気で快活で、“女子たちみんなの友達”的なチアフルな空気を発散していた。笑顔できゃぴきゃぴしていた。でも、風変わりな2人にはどこか居心地の悪そうな“そぐわなさ”も漂っていた。きさが歌う世界は、ライブパフォーマンスからすると楽しそうに思われそうだが、むしろ、もどかしさにこんがらがった女子の物語であり、そんな心の独白だった。あっこのドラムはベーシストがいないことなどかまわず、ドカドカうるさいロックンロールバンドのように暴れ、時には叩きながら椅子から飛び上がっていた。
笑顔の裏にある涙。友人との明るい挨拶の裏にある不安。世の中の不正に対して怒りや反骨という大きな感情で自分を鼓舞するのではなく、世の中に対して自分が薄皮一枚で隔てられているようなもやもやしたよるべのなさ。うまくやっている同世代を見て嫉妬するのは嫌だなと思うけど、大きな不幸に見舞われているわけではないけど、心にチクっと刺さってぬぐえない痛み、苦しみ、悲しみ、孤立感、自信の欠如……。何か、2人の歌に強烈な違和感を抱いたことを覚えている。それはうまく生きることが苦手な女子の物語だった。
個人的に嫌いな言葉だが“リア充/非リア充”というカテゴライズがある。それはHAPPY BIRTHDAYが登場した当時も今も、いろいろなところで用いられている。むしろ生きづらさを増す今の時代では、若者に限らず“非リア充”であることを当たり前と思う人のほうが多いかもしれない。ならばHAPPY BIRTHDAYの歌は今こそ、より多くのうまく生きられない若者に響き、共感が広がっていくことだろう。その歌に込められたメッセージは、冒頭に記した歌詞のように強烈な自虐で心にグサリと飛び込んできながら、それだけでは終わらないからだ。涙、不安、痛み、苦しみ、悲しみのなかで自己嫌悪にまみれても、それでも前に進もうとする思い、周りの仲間とつながって、理解しあって、自分もみんなも愛して愛されたいと願う渇望が、その先にあるからだ。
HAPPY BIRTHDAYの歌は、誰もが心の奥にそっとしまっている素顔を見つめ、“それでも生きようとする力”を奮い立たせる。世界を変えるなんて大げさな話ではないけど、自分は変えられるかもしれない。そんな力を掻き立てる。思い通りにいかないことが多い日々で、そんな歌が力を放っているのは、不思議なことのようで、当たり前のことに思える。つまり、当たり前の“みんなの歌”なんだと思う。HAPPY BIRTHDAYは2015年に短いキャリアに終止符を打った。現在、きさは坂口喜咲として、あっこはあっこゴリラとしてそれぞれアーティスト活動を行っている。HAPPY BIRTHDAYには熱心なファンはいたが、大きなヒット曲に恵まれることはなかった。SNSで簡単に曲を知ることができて、“みんなの歌”を通じて広くつながることができる今ならばもっと……、と思うと残念である。HAPPY BIRTHDAYは早すぎたバンドだったのかもしれない。
▲エリザベス宮地
■HAPPY BIRTHDAYとエリザベス宮地
■10年の時を経てMV再公開の意味
前述したように2021年4月、HAPPY BIRTHDAYの「しゃかいのごみのうた」のMVがソニーミュージックのオフィシャルYouTubeチャンネルで再公開された。MV制作を手がけたのは映像作家のエリザベス宮地。ハンディカメラを片手に、男と女のつながりを濃密に描き出すドキュメント作品で知られる鬼才アダルトビデオ監督・カンパニー松尾の作品を表現のルーツに持ち、今では優里、BiSH、MOROHA、クリープハイプなどのMVをはじめ、BiSHなどのドキュメンタリー映画も手がけている。宮地が主宰するクリエイティブチーム“ドビュッシー”のホームページを見るとMV初制作は2008年。となると、キャリアの初期の2011に“早すぎたバンド”の決定打的なMVを撮っていたのだ。
宮地のMV作品の特徴を挙げると、セルフドキュメンタリー映画のタッチで、私小説のように物語を綴っていく作風のものが多い。そこには音源に合わせてボーカリストが歌い、ほかのメンバーが演奏する“当て振り映像”はない。むしろアーティスト本人が登場しないことも多い。かといって有名、もしくはブレイク手前の俳優やタレントに無言劇を演じてもらい、話題を集めようとするわけでもない。代わりに、そのセルフドキュメンタリー風の映像には、歌われる物語の住人として“私たちに似た誰か”を彷彿させる演者が、リアルな肌触りをもって登場するのだ。
そんな宮地のMV作品に漂うのは、映像制作に関わる機材が今ほど安価でも、便利でもなかった時代に、中古の8ミリフィルムカメラや小さなビデオカメラで作った自主制作映画の匂いだ。自分とみんな、その関係性のなかで胸いっぱいの思いを、未熟ながらも必死に詰め込んだまぶしい映画たちの匂いだ。今では若手の映像クリエイターたちが新世代の感性をもって、同じクリエイター目線で気脈を通じるアーティストの歌を、ドキュメンタリー風の作風で自由に表現することは珍しくなくなった。かつてのMV制作のお約束事から離れて。もちろん宮地とそれらの映像クリエイターの目指すものが同じだとは断言できない。ただ、MVのあり方という視点で考えると、HAPPY BIRTHDAYが“早すぎたバンド”だったこととは逆に、宮地は“時代が追いついた映像作家”だと言える。
■しゃかいのごみでも愛し
■許してくれる人がいる
「しゃかいのごみのうた」のMVは「23才の女子編」と「24才の男子編」の2篇が制作された。宮地はこの2篇のMVを「自分が作るべき映像の方向性を決定づけてくれた作品。「24才の男子編」には写真をインサートするなど、今の自分の作品のテイストが凝縮されている」と語る。「24才の男子編」のMVは、宮地自身の体験に基づく物語が描かれている。登場するのは宮地が21歳から24歳までの3年間、実際に“同棲”していたダッチワイフだ。本稿を書くにあたって宮地に幾つかの質問をし、回答をもらった。ここからは宮地の言葉を中心に、このMVに込めた意図と「しゃかいのごみのうた」のメッセージについて紐解いていきたい。
「この曲の歌詞で歌われている“しゃかい”はあくまで個人的なことだと思いました。そこで、自分が過去に撮ってきた映像で“ごみ”と通じるものを探して、最初に「24才の男子編」を制作したんです」──エリザベス宮地
主人公である24歳の彼は、初めての彼女ができたことをきっかけに、ともに過ごしたダッチワイフを燃やし、別れを告げる。劇中には遊園地や桜の木の下などでのデート、自転車の2人乗り、朝の光が差し込む2人寝のベッド。ダッチワイフとの幸せな回想が映し出される。そしてダッチワイフ越しに初めての彼女と抱き合う姿も……。ラストシーン、雑草が咲かせた花を敷き詰め、海辺に焚かれた炎のなかで、ダッチワイフは一握のごみとなっていく。
「ごみとなってしまったダッチワイフの思いが、歌詞のなかの“わたし”とリンクすることを意識して編集した」──エリザベス宮地
炎に包まれてゆくダッチワイフを前に、主人公は万感の思いに涙する。決着をつけた2人による別れの情景は、まるで鎮魂歌のようだ。そして、もどかしくも愛すべき日々を乗り越えることで得た新たなる日々の始まりを予感させる。一方、宮地の“極私的”な思いから作られた「24才の男子編」に対して、「23才の女子編」は“失恋”という一般的なテーマで「しゃかいのごみ」を描き直している。ダッチワイフというマニアックなテーマによって歌のイメージが偏ってしまうことを避けるために、新たに撮りおろしたのだ。
「23才の女子編」の冒頭、失恋した主人公はワンルームに戻り、質素な食事を済ませ、鏡を覗き込むうちにやりきれない涙を流す。そしてハサミで無作法に髪を切る。お手製のショートカットとなった彼女は2人の友人とカラオケに。吹っ切れた(ふりの)彼女は大騒ぎの笑顔で羽目を外す。見ると、友人も彼女と同じ顔をしている。みんな同じで、なんとかしようと頑張っている。夜が深まり、ひとり家路につく彼女。その車窓から見えるものはいつもと同じ景色なのか。それとも……。
この2篇のMVには、世間に馴染めない若者たちのモヤモヤした感情、孤立感、わびしさとともに、それでも捨てられない胸いっぱいの愛情、状況を突き破ろうとするパワーが感じられる。その力はまぶしくもある。宮地はこの若者たちの物語から何を描こうとしたのか。
「両作品に登場するすべての人物を肯定したいと思いながら制作しました。失恋してやけくそで髪を切った女の子にも、一緒にお酒を飲んでカラオケで歌を歌ってくれる友達がいます。モテなくてダッチワイフとくらしていた男に彼女ができたのは、視点を変えればダッチワイフと暮らした3年間があったからこそです。もし仮に、自分が本当に“ごみ”だとしても、そんな“ごみ”さえも愛してくれる、許してくれる人が周囲にいることを確かめたかったんだと思います」──エリザベス宮地
あらためて宮地は「しゃかいのごみのうた」と2篇のMVをこう振り返る。
「初めて聴いたときと歌の印象は変わりません。普遍性の強い歌で、時代に左右されることなく、生きづらさを感じている人に届く強さを感じます。願わくば、MVを見た人も、ほんの少しでもいいので、自分を肯定するきっかけになればと切に思います」──エリザベス宮地
■愛して、愛されたい。許して、許されたい
■日々にもがき闘う若者の物語
HAPPY BIRTHDAYが聴かせた歌には、普通のみんなが抱える当たり前の悩みがあり痛みがある。当たり前の喜びがある。愛して、愛されたい。許して、許されたい。それはちっぽけな感情なのだが、そんなちっぽけなことで、日々、みんな悪戦苦闘しているのだ。宮地にドキュメンタリー映画の手法で綴る私小説のような作風について、踏み込んで聞いてみた。この作風でアーティストの個性、歌の世界観をどう浮かび上がらせるのか。
「自分は、歌詞を書いた人の流した血や汗を感じるような、自分の人生を削り取って書き上げた楽曲に惹かれることが多いです。そういう楽曲に対して、自分ができることは、同じく自分を削り取ったような映像で応えることだけ。そう思ってセルフドキュメンタリーの手法を用いた映像や、人生を感じる私小説のような映像を作ることが多いんです。そのために、楽曲とは正面から向かって戦う姿勢で向き合っているつもりです。一緒に肩を組んで歩くイメージは、ほとんどありません」──エリザベス宮地
宮地はこのMVを久しぶりに見直して「今後も楽曲や自分自身と戦い続けたい」とあらためて思ったという。「しゃかいのごみのうた」は宮地の映像の力とあいまって、普遍的な若者の物語として響いている。“早すぎたバンド”と“時代が追いついた映像作家”──発表から10年が経ち、生きづらさが増している今、「しゃかいのごみのうた」と2篇のMV作品は、若者たちに寄り添いフックアップする力を増している。今日も“でも、みんな同じなんだ”と心をちょっとほぐしてくれる。今回、再公開された「しゃかいのごみのうた」を聴いてほしい。MVを見てほしい。そこには“私”がいて、“私とよく似た誰か”がいる。ありふれた日々にもがき闘う“私たち”がいる。
取材・文◎山本貴政
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