【インタビュー】コロンえりか、タフでポジティブな希望のスピリットを持つソプラノシンガー
在日ベネズエラ大使夫人、4人の子供の母親、音楽を使った社会活動家、そしてクラシックやオペラを歌う優れたソプラノシンガー。──いくつもの多忙な顔の内側にあるのは、人生の逆境、絶望にも決して屈しない「エリカイズム」とも言われるタフでポジティブな希望のスピリットだ。コロンえりかのデビューアルバム『BRIDGE』は、深遠なメッセージと美しい旋律を持つクラシックの歌曲に加え、日本人作曲家の作品や、陽気なベネズエラ民謡など、シンガーとしての技術と説得力を余すところなく収めた心洗われる1枚。コロナ危機の中だからこそさらに胸に響く、えりか語録をどうぞご覧あれ。
■自分のものを残したいというよりは
■人に伝えたいという気持ちのほうが強かった
──4人の子育て、家庭のお仕事、大使館のお仕事、社会活動、そして音楽。コロンえりかさんはいったい何人いるのか?と…。
コロンえりか:外から見たらたぶんカオスだと思いますけど(笑)。私の頭の中にはやりたいことが繋がっています。今のマネージャーに出会って「全部が繋がるよ」と言ってもらったのが、私にとってはすごく大きな転機になりました。
マネージャーO氏:歌の活動もそうですし、「エル・システマ」(ベネズエラ発祥の音楽教育プログラム)の活動や、障がいのある子どもたちに教えてらっしゃったり、講演もしながら歌も歌いながら、いろんなことをやられていたんですが、点と点を繋ぐ人がいなかったので、「歌のメッセージでそれが全部繋がるんじゃないかな?」と思ったんです。それで今回キングレコードの方にお願いして、同じように思ってくださって、アルバムができたということです。
──点と点、縁と縁が繋がった。
えりか:そうですね。本当に。
──これが初めての全国流通CD。これまで自分の作品を出したいという気持ちはなかったんですか。
えりか:自分のものを残したいというよりは、「これが素晴らしいからこれを人に伝えたい」という気持ちのほうが強かったかなと思います。これは私自身のストーリーですけど…子供を4人出産して、妊娠出産によって毎回声の状態も変わるし、技術もどんどん新しくしていかなきゃいけない中で、体がものすごく疲れてしまって、2019年に声帯を壊したんですね。それで手術をする時に「もう歌えなくなるリスクがある」と言われたので、歌を歌えていた時の声を子供たちに残しておこうと思って、4人目を妊娠していた時に自費出版でレコーディングをしました。そのあとに手術をしたのですが…なんか、すごい歌いやすくなったんですよ(笑)。「なんだ、もっと早くすればよかった」というぐらい良くなって、育児をしながらも今までチャレンジできていなかったことに向き合うきっかけになりました。そして昨年ありがたいことに、東京国際声楽コンクールで史上初二部門においてグランプリをいただきました。そこで、人生は一回しか無いし、自分にもらった楽器(声)としっかり向き合って、今生きているこの時の気持ちをちゃんと残していきたい気持ちが芽生えた時期に、キングレコードのプロデューサーの方とも良いタイミングでご縁があったので、今回こういうふうに音楽作品として残せたということは、私にとってとてもうれしいことでした。
──少し時間をさかのぼると。エリカさんはお父様が高名な音楽家で、自身は学生時代にずっと教育学部で学んでいましたよね。もともと音楽の道に進む気持ちというのは?
えりか:本当のことを言うと、6歳の時から舞台にずっと立っていた人生だったんです。アマチュアのコーラスグループや、その中のソリストとして。ただ、プロの道は私の両親が大反対していたんですね。「絶対に駄目だ」と。
──おやおや。それはなぜ?
えりか:うちの家には定収入が入る人が必要だから、「会社員か学校の先生になってくれ」と懇願されたんです(笑)。私も教育にはとても興味があったので、大学、大学院と教育学を勉強して、卒業後も学校でお仕事をしていました。その間にも、日本とベネズエラのサッカーの親善試合があった時に、前の国立競技場でベネズエラ国歌を歌わせていただいたり、お仕事として歌を頼まれたことが何度かあったんですね。学校のお仕事と両立しながらやっていたんですけれども、だんだん歌のお仕事で声をかけていただくことが多くなってきた時に、「これだとロングランは無理だな」と。今だけ歌えても、基礎のトレーニングができていないと思って、両親に何も言わずにイギリスの王立音楽院のオーディションを受けたら、まぐれで入れていただいて(笑)。ただ学費も払えない状態だったので、友達がチャリティーコンサートをしてくれたり、「えりかジャム」とか「えりかTシャツ」とかをいろいろ作ってくれたり(笑)。足りない学費を集めるためにサポートしてくださって、それでイギリスに行ったのが、プロの歌い手として活動する方向転換するきっかけですね。年齢的にはとても遅かったんです。
──イギリスでは、2年間勉強されました。
えりか:何と言うか、自分自身になれた環境だったかなと思います。いろんな人種の、いろんなバックグラウンドの人がいるのですが、アーティストになるということは誰かの真似をすることではなくて、「自分が自分でいる」ということを、鏡を見て向き合わなきゃいけないんです。「それでいいんだ」という勇気をもらって、背中を押してもらえた2年間でした。今でも王立音楽院の先生方とは連絡を取っています。コロナになってからは、毎週3人には電話すると自分で決めて、一人暮らしの友達や、昔お世話になった方に連絡を取っているんですが、イギリスで歌を習った先生に連絡をした時に、「オンラインでも聞きたいことは聞けるし、習いたいことも習える」ということに気づいたんです。今までもできたのに、できないと思い込んでいただけの壁を全部取ってくれたので、これからもっともっと、世界中の人たちと簡単に音楽をしたりすることもできるなと思っています。自分の研鑽を続けるという意味では、コロナのおかげでいろんなことに気づかせてもらえたと思っています。障がいのある子どもたちと一緒にやっているホワイトハンドコーラスNIPPONもオンラインでコーラス活動を続けています。会えなくてもどかしいこともありますが、チャレンジしないと何も生まれないと思います。
──世界中に先生と友達がいるんですね。うらやましい。
えりか:いつでも紹介しますよ(笑)。音楽の世界は、音楽家同士の結びつきは深いし、小さいし、網の目のようになっているので。同級生だった人がいろんな国にいるし、音楽家のネットワークは楽しいコミュニティだと思いますね。
──そんなコロンえりかさんのデビューアルバム『BRIDGE』が、今ここにあります。クラシックの歌曲を中心に、日本人作曲家の作品も入っていますけど、選曲は以前から親しんでいた曲を中心に?
えりか:いえ、まったく初めて歌ってレコーディングした曲もあります。むしろ、以前から歌っていた曲はそんなにないかも。
──バッハ/グノー「アヴェ・マリア」を筆頭に、ヘンデル、フォーレの作品、アイルランド民謡の「ダニー・ボーイ」など、歌曲に詳しくない自分にもわかる曲がいくつもあって。親しみやすいなと。
えりか:私はけっこう、ほかの人が歌っていないレパートリーや埋もれていた曲を探すのが好きなタイプなので、「みんなが知らない曲を紹介したい」というものが多くなりがちだったのを、「みなさんが知ってる曲も入れてください」と言われて入れたものもあります。でもみんな好きな曲ばかりです。
──ということは選曲はスタッフと一緒に?
えりか:そうです。いっぱいあった中から選ばれし曲たちです。たとえば上田真樹さんの「よるのみち」という曲は、「国際アンデルセン大賞」を受賞された詩人のまど・みちおさんの作品で、美智子上皇后さまが英訳された詩を元に書かれています。もともとピアノ曲だったものを今回のために弦楽四重奏で書いていただきました。大島ミチルさんの「マイ・ホームタウン」も今回のために書いてもらったアレンジですし、アザラシヴィリの「無言歌」もそうですね。バッハ/グノー「アヴェ・マリア」も、ピアノと歌だけでなく、今回はチェロを入れたバージョンでやっています。
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