【インタビュー】KO KIMURA「DJのプレイに身を委ねてみると最高の時間を過ごせると思う」
KO KIMURAは、2018年でプロDJ歴33年を迎えた言わずと知れたカリスマDJだ。クラブ創成期から、現在までシーンをリードし続けているのはもちろん、特に、国内のハウスミュージックシーンにおいて、現在活躍する多くの若手〜中堅DJたちに多大な影響を与えてきたDJである。そのDJ歴のほとんどを最新の曲を探しディグすることに費やし、唯一無にのグルーヴ感でフロアを魅了しながらも、現在進行形で最新のダンスミュージックやDJスタイルを追求する姿勢は、国内のみならず、海外にもファンが多く、海外公演等も積極的に敢行中だ。
◆KO KIMURA 関連画像
エレクトロニック・ミュージック・シーンにおいて最も大きな影響力を持つアーティストの1人であり、“テクノ科学者”の異名を持つDJ/プロデューサーのリッチー・ホウティンやグラミー・アーティストであるダブファイアーなどから国内随一の信頼を得、また友人関係でもあるKO KIMURAを慕い、世界中の有名DJたちが彼の元を訪れる。その有名DJたちの多くは、現在まで続いたEDMブームの立役者であるスターDJたちがデビューする前から憧れを抱いてきたレジェンドばかり。またDJ活動の傍ら、1940年代のオートバイのレストア方法をハーレー誌に連載したり、世界中の食歩きが記事化されたり、アニメーション関連の活動も積極的に行うなど、過去の布石やカルチャーメイクだけに留まらず活動中だ。
そんなKO KIMURAがDJ HIRO“Hiroyuki Kajino”と共に最近、毎週火曜日の夜に<Underdigic>という、最新のアンダーグランドミュージックをラインナップして一晩中プレイする新開放型クラブイベントを渋谷のナイトクラブ“En-Sof Tokyo”で旗揚げした。現在のナイトクラブシーンに新しいムーヴメントを起こすべく活動中とのことで、現在のEDMブームの終焉やDJブームに対して、またこれからのナイトクラブの楽しみ方について聞いてみることにした。
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■緩急やバランスを保ちながら全体の音楽を奏でていく
■DJはオーケストラの指揮者にも似ています
──KOさんが考える「DJ」とは、どんな存在ですか?
KO KIMURA(以下、KO) 「DJ」は、分かりやすく言えば“キュレーター”であり“ソムリエ”なんです。「DJ」と言うと、ウェイウェイ盛り上げてるとか、「ご機嫌なナンバーは……」なんて喋っている人、レコードをキュッキュッと擦っている人だっていうイメージを持っている人もいるかもしれないですけど、僕のようないわゆる“クラブDJ”と呼ばれる人は、“近所に住む仲のいいお兄さん”、“音楽好きの先輩”が、かっこいい曲や音楽を教えてくれる、そんなニュアンスだと思ってもらえれば。例えば、そういう人って新しいもの、かっこいいものを自分が先に知って、友達や周りの人に広めたり、教えたりするのが好きじゃないですか?
本当にそういう感じなんですよ。料理人のように、新しい食材を集めてきて料理して、焼くのか、煮るのか、ボイルするのか……同じ素材でもいろいろな調理方法や食べ方があるのと同じように、音楽にも聴かせ方がいろいろできるわけです。ただ人の曲をかけているだけがDJだって思われがちなんですけど、その素材(曲)を使って、自分らしく料理して出すというか……同じ素材なのにカレーにもなれば中華にもなるように、人とは違った自分の味を出してそれを届ける、そんなイメージなんです。そして、オーケストラの指揮者にも似ていますね。自分では楽器を持たないけれど、楽器奏者を指揮して緩急やバランスを保ちながら全体の音楽を奏でていくという。とてもニュアンスが近いと思います。それが僕が考えるDJの役割ですね。
──KOさんがDJを始めた35年程前には、既に多くのDJが活躍していたんでしょうか?
KO 僕がDJを始めた頃は、六本木のいわゆるディスコと呼ばれていた場所には、マイクを使って喋りを入れながらDJをする、いわゆるディスクジョッキーというスタイルのDJはいたんですが、“クラブDJ”"という存在は、ほとんどいなかったと思います。現在もファッションデザイナーやミュージシャンなどマルチに活動している藤原ヒロシさんなど限られた人たちが少人数でやっていたような状況ですね。ただ、僕がDJをやりたいと思い始めた頃は、ちょうど“スクラッチ”という、レコードを擦って音を出すという技術が生まれたばかりの頃だったので、それを見て、面白いなって思ったことも大きなきっかけのひとつでした。
あとは、もともと小学生の頃から生粋のレコードコレクターで、映画音楽なんかも集めていて、そこからポストパンクや現代音楽、実験音楽、ホワイト・レゲエ、ファンク、フリー・ ジャズ、パワー・ポップ、電子音楽などのさまざまなジャンルの影響によって成立したロックのジャンルで、70年代後半から80年代初頭にかけて世界的に流行したニューウェーブという音楽にハマっていって、そういった自分の好きな音楽をカセットテープに録音して、課外授業や林間学校に行く途中のバスの中でかけたり、放送委員会に入ったりして、給食時間の放送でかけてご飯をまずくしたり……そんな子供でしたね(笑)。
それである日、自分の持っているCHICの「Good Times」という曲をキュッキュッって擦ってスクラッチして面白い感じでかけている人が海外にいるぞ!というところから、これ(DJ)は面白そうだな!と。ただその当時は雑誌を見てもそのやり方やHow Toまでが書いてあるわけではなかったので、当時はDVDやインターネットがなかった時代だったので、ひたすらMTVのビデオ録画の“巻き戻し・スロー”を繰り返す毎日という……(笑)。機材の種類や使い方も、情報があるわけではなかったので、ミキサーもターンテーブルも何を使ってるかすら分からなかったですね。DJショップなんてもちろんなかった。それでもどうしてもDJがやりたくて、まずはPAの勉強をしたいと思ったんです。それでPAの仕事にアルバイトで入って、その会社の偉い人に「DJがやりたいんです! DJっていうのは、こんな機材を使っていて云々……」って言ってみたら、「じゃあその機材を1台、代わりにオーダーをとってあげるけど、月々のアルバイト代から引いておくから」という感じで言ってもらえて(笑)。次はミキサーを1台買って一生懸命夏休みもずっとアルバイトをして……そんな感じでDJを始める糸口や綱を手繰り寄せていきましたね。どうしてもDJがやりたくて自力で、自宅にDJをするための機材を少しずつ頑張って揃えていきました。
──そんな人生の一部ともいえるDJという職業、生き方に出会ったKOさんが、35年間、プロDJをやってきて最高だ!と感じた瞬間はどんな時でしたか?
KO やっぱりDJの喜びって、音楽が好きな人もそうですけど、みんなが知らない曲を見つけてきて人に教えたり、勧めたりして、それを周りが喜んでくれることが最高の瞬間ですね。最初それが1人だったのが3人になり、10人になり……1000人とか1万人と増えていくわけですから。より多くの人たちの前でプレイしたりすれば、それだけたくさんの音楽好きの人たちに自分が聴かせたい曲を聞いてもらって、その曲の素晴らしさを伝えていくことができるわけです。
あと音楽には人種の壁や国境ががないので、そういう面では海外に行ってプレイして、「よかったよ!」って反応してくれる瞬間が最高に嬉しい瞬間ですね。以前、ロシアでプレイした時は、お客さんの反応がすごく純粋で特に思い出深かったですね。最初に海外でプレイしたのは、24歳くらいの時でニューヨークだったんですけど、緊張はしましたね。淡々といつもやってる感じでこなしました(笑)。当時は、ニューヨーク・ハウス全盛期で、ニューヨーク・ハウスをプレイして、いい反応をもらえたりして嬉しかったですね。
▲(左から)KO KIMURA、Stephan Bodzin、John Digweed、Sasha
◆KO KIMURAI インタビュー(2)
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