【ロングインタビュー】今語られる、1980年代埼玉ロックシーンの悲喜交交
■パッセンジャーズは、劇団四季、同級生(笑)で、俺がメタルやってたときに見てたんだよ
──うわ、すごい繋がってきますね! その頃の森永さんの活動はどんな感じだったんですか?
森永:おれはね、山田貢司とやってたバンドを辞めて、ヘレンっていうね…。
──メタルの。
森永:そこへ入ったの。
──ヘレンって、今でもその筋では伝説的な人気があるバンドじゃないですか。アルバム1枚しか出てないですけど。
森永:そうそう。キーボードの高梨(康治)くんは大忙しで、プリキュアとかやってるよ、音楽制作。めっちゃくっちゃ忙しいみたいよ。で、ヘレンっていうのをやって、俺どっちかって言ったらツェッペリン系だったのね。でも、ヘレンはどう見てもレインボーなのよ。
──様式美ですよね。
森永:うん。キーボードがこうで、同じ旋律を弾いてとか、とてもじゃないけど俺、ルックスからしてそういう感じじゃないじゃん。ちょっと違うかなと思って、デモテープ何曲か作ってから悪いけどって辞めて。そのあと、ザッツっていうバンドを作ったのね。それはもうぜんぜん活動もしてなくて、デモテープ作って、ライヴも10本やったかやらないかくらいで。ただね、(雑誌の)ロッキンfでデモテープを聴くっていうコーナーがあって、それに送ったらね、なんか入賞してトロフィー送ってきたよ(笑)それうちにまだある。恥ずかしくて言わないんだけど(笑)。
──そのコーナー、すかんちも出てましたよ。
森永:あ、そうなの? ロッキンfってさ、それこそサブラもそうだけど、ジャパメタばっかりだったよね。俺がやってた音楽はぜんぜん違って、なんかちょっとアメリカンな気取った感じで、絶対ムリだよなんて言ってたんだけど、2位だったの。1位じゃないんだよ、2位だったの(笑)そうこうしてるうちに、ヘレンの関係でいろんなやつと知り合って、いろんなところで手伝って弾いてたの。ある時、横関(敦)くんのBRONXのローディーやってた、後々にパッセンジャーズのドラムになる水梨くんと知り合って、ヴォーカルがいるっていうのね。それが大野(美樹)さんだったの。
──そんなつながりだったんですか!
森永:そう。BRONXはパブリック・イメージって会社(の所属)だったから、水梨くんはそこに出入りしてて。で、どうも社長(月光恵亮。パブリック・イメージ代表。作家名は井上龍仁)が大野を見つけてきたらしくて。詳しくは知らないけど、なんつったっけな、おれより年上で顔黒くてドラム叩く役者。渡辺…。ジャズドラム。こんど調べといて(※註:恐らく、渡辺裕之と思われる)。その人と月光さんが知り合いで。大野は劇団四季にいたから。
──もともとは役者さんですか。
森永:役者“志望”だったんじゃない? 大野はもともとメタルが好きで、俺がヘレンやってた頃にコンサートを見てたんだって。それで、大野が森永さんに頼めばって。水梨くんも知ってるしいいんじゃないって。手伝ってくれっていうから手伝ったの。でもさ、(大野の)歌は“劇団”なの。ギターもさ、カッティングもイマイチで弾けるのか弾けないのかみたいな。でも、社長としてはヴォーカル=ギターで(やりたかった)。で、1年~1年半くらいずっとスタジオでリハして、ベースはその間いっぱい変わったんだよ。山田貢司を誘ったりさ、いろんな人誘ったりしたんだけど、いよいよデモテープ作ったりってときに、最後のベースが辞めちゃって。で、どうするって。松原は水梨くんの同級生で、ライヴ見によく遊びに来てたの。で、水梨が松原くんはここ1年ベース弾いてんですよっていうから、じゃあ、お前でいいよっつって(笑)。
──そんなノリなんですか…。
森永:もうレコーディングが決まってたんだよ。きっかけはね、大宮フリークスでライヴやって、キャニオンのディレクターか誰かが見に来てたんだよ。当然、大野目当てなんだけど。で、事務所に話がいったらしく、大野もバンドでやんなきゃヤダって。そういう感じ。とりあえず、劇団四季、同級生(笑)で、俺がメタルやってたときに見てたんだよ。
──パッセンジャーズは、もともとバンドとして活動してたんじゃないんですね。
森永:違う、違う。イメージだけなんだよ。社長のイメージは、まぁ当時はプリテンダーズとかさ…。
──プリテンダーズ、だめですか(笑)
森永:いや、聴いてるけど、そういう風にできないしなとか。でも、やってるうちに、会社もメーカーもフォークロックとかブルージーとかいう言葉を使い出してさ。
──そういうキャッチが付いてましたね。
森永:こりゃいいやと思って(笑)俺、派手な曲とかできないから、ま、地味っちゃあ地味なんだけど。でもその頃ね、ロックンロールでいいバンドいたんだよ。あ~、名前出てこないな。ギター2人で女の子(のヴォーカル)…なんつったっけな。すっごい上手なロック・ヴォーカルで。(※註:後にレプリカのことと判明。ヴォーカルは浜崎直子。ツインギター編成だったデビュー当時のギターは、田中龍也と元ザ・ブドーカンで後にダイヤモンズを結成する名手、鴨下信吾)。おれはそんなバンドにしたかったんだけど。まぁとにかくね、何もなかったの。デモテープ作って、社長がさ、この曲やらない?って自分の曲持ってきたりしてさ(笑) 結局、最後のアルバムに1曲だけ入れたけど(「イニシャルK」)。デビューの時から、この曲やらない?やらない?って、アルバム作る度に(社長が言う)…。
──もうゴリ推しで。
森永:最後は、ダメだよ、やんなきゃって言われちゃったから(笑)。
──レコーディングした頃はもうパッセンジャーズって名前も付いてたんですか?
森永:名前なかったの。大野美樹&ワンダースリーとか(笑) そういうふうに言ってたけど、したら、これも社長が「Pがつかなきゃダメだよ」って。月光さんはさ、浜田麻里とかヘビメタのHMのばっか付けてた人だから、こだわってて。B-ingなんだよ。浜田麻里、本城美沙子、橋本みゆき、あと誰がいたっけ?(※註:早川めぐみなど)。
──アレンジャーのところの名前がH.M.Projectになってるんですよね。
森永:あ、そうなの?(笑)そういうところは頭まわるんだよね。
──自分でプロデュースもされる方だったんですか?
森永:そうそう。するけどさぁ。とにかく心が広くないと大変なんだよ。突拍子もない発想で。
──あ、メンバーの方が心が広くないと(笑)
森永:そう(笑)で、結局プロデューサーを立てるってことで、佐藤ノブさんっていう(※註:佐藤宣彦)。シェイディー(・ドールズ)、ZIGGY、で、リンドバーグね。この時だったかなぁ、(佐藤が)4曲持ってきたのね。この曲やれよって。
──デビューアルバムの『Gypsy Blue』には2曲入ってますよね。
森永:やらなきゃいけないみたいな雰囲気になってて。ま、いっかぁ、最初だし、(曲も)カッコイイしなぁって思ったから「GYPSY」と「Cat Scratch Fever」を選んだの。で、もう1曲が「今すぐKiss Me」だったの。リンドバーグ行っちゃったの、それが。
──もしそれをやってればっていう(笑)
森永:いや、たぶん俺たちがやっても、ああいう詞は書かないし、まったくダメだったと思う。彼女たちがやってよかったんだよ。ノブさんはそれで大プロデューサーになって、ジギーも売れたし。まぁ、シェイディーはそこそこだけど。
──シェイディーも根強いファンが多いですからね。
森永:そうだね。裏話だけど、(松原と水梨の)2人はね、(『Gypsy Blue』の)レコーディングやってないんだよ。やってんのは「Swan Song」だけかな?間に合わなくて。あとはね、センス・オブ・ワンダーっていうプログレバンドがあって(※註:難波弘之さんのバンド)、そこのドラムの人に叩いてもらったり、ベース弾いてもらったりした。これ1年かけて作ったんだよ。1ヶ月に2曲(のペース)だから飽きちゃってさ、終わった頃。自分としては次のステップ行きたいのに。
──レコーディング前にこのメンバーでライヴはやってないんですか?
森永:レコーディングしながらやった。藤沢BOWとかね、お決まりのようなところ。
──それはもうデビューが決まっててっていう。
森永:そうだね。大野はこのアルバムがいちばん好きだって言ってたな、1枚目が。俺としてはミックスがさ、もっといいテイクがあんだけど、そっちがよかったんだよ。そういう不満があるけどね。
──じゃあ、曲もアルバム作るぞって決まってから書いた曲ばっかりですか?
森永:そう。1ヶ月に2曲ずつレコーディングするから書いてくれって言われて、6~7曲くらい書いて持ってって、2曲ずつレコーディングして。
──2ndの『PASSENGERS』の頃はバンドとしての活動は順調だったんですか?
森永:そうそうそう。それこそさ、SeeSawレーベルの全国ツアーをけっこう頻繁にやったから。GO-BANG'Sとか、YOUのフェアチャイルドとか(一緒に)。フェイアチェイルドは芸能チックだったね。
──まぁしょうがないですよね、それは。
森永:しょうがないよね。知らないからさ、後から聞いたらそうなんだって(YOUはファッションモデル出身で、ポップス歌手としてソロデビューしていた)。
──もともとそういう人ですからね。
森永:そうだよね。なんかちょっと違ってた。GO-BANG'Sはね、北海道のバンドじゃない? 森若(香織)ってやつがさぁ。あと、ドラムの背がでかい姉ちゃん(※註:斉藤光子)。
──183cmでしたっけ?
森永:たしかにさ、きれいなんだよ。モデルさんみたいな。それがさ、水梨を捕まえてさ、上手になったね~とか言ってさ(笑)。
──もともと知り合いだったんですか?
森永:SeeSawでツアーやって、1年に何回も回るからさ。もう上から目線でさ。たしかに年上だから、水梨より。俺、すっげえおかしくてさ、お前、上手くなったんだ~って(笑)あと、亡くなった川村かおりが一緒だった。
──ああ、キャニオンでしたよね。まだ髪が短かった頃。
森永:そうそう。「僕はルカ」ってカヴァー曲を。
──スザンヌ・ヴェガですね。「翼をください」とかもやってましたよね。
森永:そうそうそう。作曲家の高橋研さんとかがバックで弾いててさ。
──高橋研さんもいい時期ですよね。ALFEEがあって、中村あゆみがあって。
森永:このときだよ、(パッセンジャーズで)高橋研さんの曲も録音したんだよ。で、おれは気に入ってたの。
──相性よさそうですよね。
森永:ちゃんとリズムとギターも一生懸命考えて、オケまでできてんのに、ボツにしたんだよ…。ノブさんが。
──まぁ、気持ちはわからんでもないですけど(笑)その音源は残ってないんですか?
森永:おれは持ってない。未発表のやつは何曲か持ってるよ。ちゃんとトラックダウンまでしてあるやつ。
──うわ、それは聴きたいなぁ~。この頃の?
森永:いやいや、オランダ人(※註:解散間際に加入したオランダ人ドラマー、ハーメル・ラモーンのこと)の頃。
──じゃあ、いちばん最後の頃。
森永:けっこうハードロックだから、聴いてもあんまりピンとこないかもしんない。
──最後の方はだんだんハードロックな感じになっていきましたよね。
森永:本当はね、おれハードロックはやりたくなかったんだけど、どうしてもこの人(大野)がね。Jaco-necoとかも出てきたからさぁ。
──Jaco-necoはそんなにハードロックって感じでもなかったじゃないですか。
森永:でも、ロックな雰囲気じゃん。そう見られたかったんじゃない?。
──ああ、相性よさそうですよね。性格的にも(笑)(註:パッセンジャーズ解散後、大野はJaco-necoのデビルと一緒にmanifestoというバンドを結成している)
森永:おれはほんとはね、ちょっとファンキーな感じとか、そういうんで普通にやりたかったんだけどね。
──うわ、すごい繋がってきますね! その頃の森永さんの活動はどんな感じだったんですか?
森永:おれはね、山田貢司とやってたバンドを辞めて、ヘレンっていうね…。
──メタルの。
森永:そこへ入ったの。
──ヘレンって、今でもその筋では伝説的な人気があるバンドじゃないですか。アルバム1枚しか出てないですけど。
森永:そうそう。キーボードの高梨(康治)くんは大忙しで、プリキュアとかやってるよ、音楽制作。めっちゃくっちゃ忙しいみたいよ。で、ヘレンっていうのをやって、俺どっちかって言ったらツェッペリン系だったのね。でも、ヘレンはどう見てもレインボーなのよ。
──様式美ですよね。
森永:うん。キーボードがこうで、同じ旋律を弾いてとか、とてもじゃないけど俺、ルックスからしてそういう感じじゃないじゃん。ちょっと違うかなと思って、デモテープ何曲か作ってから悪いけどって辞めて。そのあと、ザッツっていうバンドを作ったのね。それはもうぜんぜん活動もしてなくて、デモテープ作って、ライヴも10本やったかやらないかくらいで。ただね、(雑誌の)ロッキンfでデモテープを聴くっていうコーナーがあって、それに送ったらね、なんか入賞してトロフィー送ってきたよ(笑)それうちにまだある。恥ずかしくて言わないんだけど(笑)。
──そのコーナー、すかんちも出てましたよ。
森永:あ、そうなの? ロッキンfってさ、それこそサブラもそうだけど、ジャパメタばっかりだったよね。俺がやってた音楽はぜんぜん違って、なんかちょっとアメリカンな気取った感じで、絶対ムリだよなんて言ってたんだけど、2位だったの。1位じゃないんだよ、2位だったの(笑)そうこうしてるうちに、ヘレンの関係でいろんなやつと知り合って、いろんなところで手伝って弾いてたの。ある時、横関(敦)くんのBRONXのローディーやってた、後々にパッセンジャーズのドラムになる水梨くんと知り合って、ヴォーカルがいるっていうのね。それが大野(美樹)さんだったの。
──そんなつながりだったんですか!
森永:そう。BRONXはパブリック・イメージって会社(の所属)だったから、水梨くんはそこに出入りしてて。で、どうも社長(月光恵亮。パブリック・イメージ代表。作家名は井上龍仁)が大野を見つけてきたらしくて。詳しくは知らないけど、なんつったっけな、おれより年上で顔黒くてドラム叩く役者。渡辺…。ジャズドラム。こんど調べといて(※註:恐らく、渡辺裕之と思われる)。その人と月光さんが知り合いで。大野は劇団四季にいたから。
──もともとは役者さんですか。
森永:役者“志望”だったんじゃない? 大野はもともとメタルが好きで、俺がヘレンやってた頃にコンサートを見てたんだって。それで、大野が森永さんに頼めばって。水梨くんも知ってるしいいんじゃないって。手伝ってくれっていうから手伝ったの。でもさ、(大野の)歌は“劇団”なの。ギターもさ、カッティングもイマイチで弾けるのか弾けないのかみたいな。でも、社長としてはヴォーカル=ギターで(やりたかった)。で、1年~1年半くらいずっとスタジオでリハして、ベースはその間いっぱい変わったんだよ。山田貢司を誘ったりさ、いろんな人誘ったりしたんだけど、いよいよデモテープ作ったりってときに、最後のベースが辞めちゃって。で、どうするって。松原は水梨くんの同級生で、ライヴ見によく遊びに来てたの。で、水梨が松原くんはここ1年ベース弾いてんですよっていうから、じゃあ、お前でいいよっつって(笑)。
──そんなノリなんですか…。
森永:もうレコーディングが決まってたんだよ。きっかけはね、大宮フリークスでライヴやって、キャニオンのディレクターか誰かが見に来てたんだよ。当然、大野目当てなんだけど。で、事務所に話がいったらしく、大野もバンドでやんなきゃヤダって。そういう感じ。とりあえず、劇団四季、同級生(笑)で、俺がメタルやってたときに見てたんだよ。
──パッセンジャーズは、もともとバンドとして活動してたんじゃないんですね。
森永:違う、違う。イメージだけなんだよ。社長のイメージは、まぁ当時はプリテンダーズとかさ…。
──プリテンダーズ、だめですか(笑)
森永:いや、聴いてるけど、そういう風にできないしなとか。でも、やってるうちに、会社もメーカーもフォークロックとかブルージーとかいう言葉を使い出してさ。
──そういうキャッチが付いてましたね。
森永:こりゃいいやと思って(笑)俺、派手な曲とかできないから、ま、地味っちゃあ地味なんだけど。でもその頃ね、ロックンロールでいいバンドいたんだよ。あ~、名前出てこないな。ギター2人で女の子(のヴォーカル)…なんつったっけな。すっごい上手なロック・ヴォーカルで。(※註:後にレプリカのことと判明。ヴォーカルは浜崎直子。ツインギター編成だったデビュー当時のギターは、田中龍也と元ザ・ブドーカンで後にダイヤモンズを結成する名手、鴨下信吾)。おれはそんなバンドにしたかったんだけど。まぁとにかくね、何もなかったの。デモテープ作って、社長がさ、この曲やらない?って自分の曲持ってきたりしてさ(笑) 結局、最後のアルバムに1曲だけ入れたけど(「イニシャルK」)。デビューの時から、この曲やらない?やらない?って、アルバム作る度に(社長が言う)…。
──もうゴリ推しで。
森永:最後は、ダメだよ、やんなきゃって言われちゃったから(笑)。
──レコーディングした頃はもうパッセンジャーズって名前も付いてたんですか?
森永:名前なかったの。大野美樹&ワンダースリーとか(笑) そういうふうに言ってたけど、したら、これも社長が「Pがつかなきゃダメだよ」って。月光さんはさ、浜田麻里とかヘビメタのHMのばっか付けてた人だから、こだわってて。B-ingなんだよ。浜田麻里、本城美沙子、橋本みゆき、あと誰がいたっけ?(※註:早川めぐみなど)。
──アレンジャーのところの名前がH.M.Projectになってるんですよね。
森永:あ、そうなの?(笑)そういうところは頭まわるんだよね。
──自分でプロデュースもされる方だったんですか?
森永:そうそう。するけどさぁ。とにかく心が広くないと大変なんだよ。突拍子もない発想で。
──あ、メンバーの方が心が広くないと(笑)
森永:そう(笑)で、結局プロデューサーを立てるってことで、佐藤ノブさんっていう(※註:佐藤宣彦)。シェイディー(・ドールズ)、ZIGGY、で、リンドバーグね。この時だったかなぁ、(佐藤が)4曲持ってきたのね。この曲やれよって。
──デビューアルバムの『Gypsy Blue』には2曲入ってますよね。
森永:やらなきゃいけないみたいな雰囲気になってて。ま、いっかぁ、最初だし、(曲も)カッコイイしなぁって思ったから「GYPSY」と「Cat Scratch Fever」を選んだの。で、もう1曲が「今すぐKiss Me」だったの。リンドバーグ行っちゃったの、それが。
──もしそれをやってればっていう(笑)
森永:いや、たぶん俺たちがやっても、ああいう詞は書かないし、まったくダメだったと思う。彼女たちがやってよかったんだよ。ノブさんはそれで大プロデューサーになって、ジギーも売れたし。まぁ、シェイディーはそこそこだけど。
──シェイディーも根強いファンが多いですからね。
森永:そうだね。裏話だけど、(松原と水梨の)2人はね、(『Gypsy Blue』の)レコーディングやってないんだよ。やってんのは「Swan Song」だけかな?間に合わなくて。あとはね、センス・オブ・ワンダーっていうプログレバンドがあって(※註:難波弘之さんのバンド)、そこのドラムの人に叩いてもらったり、ベース弾いてもらったりした。これ1年かけて作ったんだよ。1ヶ月に2曲(のペース)だから飽きちゃってさ、終わった頃。自分としては次のステップ行きたいのに。
──レコーディング前にこのメンバーでライヴはやってないんですか?
森永:レコーディングしながらやった。藤沢BOWとかね、お決まりのようなところ。
──それはもうデビューが決まっててっていう。
森永:そうだね。大野はこのアルバムがいちばん好きだって言ってたな、1枚目が。俺としてはミックスがさ、もっといいテイクがあんだけど、そっちがよかったんだよ。そういう不満があるけどね。
──じゃあ、曲もアルバム作るぞって決まってから書いた曲ばっかりですか?
森永:そう。1ヶ月に2曲ずつレコーディングするから書いてくれって言われて、6~7曲くらい書いて持ってって、2曲ずつレコーディングして。
──2ndの『PASSENGERS』の頃はバンドとしての活動は順調だったんですか?
森永:そうそうそう。それこそさ、SeeSawレーベルの全国ツアーをけっこう頻繁にやったから。GO-BANG'Sとか、YOUのフェアチャイルドとか(一緒に)。フェイアチェイルドは芸能チックだったね。
──まぁしょうがないですよね、それは。
森永:しょうがないよね。知らないからさ、後から聞いたらそうなんだって(YOUはファッションモデル出身で、ポップス歌手としてソロデビューしていた)。
──もともとそういう人ですからね。
森永:そうだよね。なんかちょっと違ってた。GO-BANG'Sはね、北海道のバンドじゃない? 森若(香織)ってやつがさぁ。あと、ドラムの背がでかい姉ちゃん(※註:斉藤光子)。
──183cmでしたっけ?
森永:たしかにさ、きれいなんだよ。モデルさんみたいな。それがさ、水梨を捕まえてさ、上手になったね~とか言ってさ(笑)。
──もともと知り合いだったんですか?
森永:SeeSawでツアーやって、1年に何回も回るからさ。もう上から目線でさ。たしかに年上だから、水梨より。俺、すっげえおかしくてさ、お前、上手くなったんだ~って(笑)あと、亡くなった川村かおりが一緒だった。
──ああ、キャニオンでしたよね。まだ髪が短かった頃。
森永:そうそう。「僕はルカ」ってカヴァー曲を。
──スザンヌ・ヴェガですね。「翼をください」とかもやってましたよね。
森永:そうそうそう。作曲家の高橋研さんとかがバックで弾いててさ。
──高橋研さんもいい時期ですよね。ALFEEがあって、中村あゆみがあって。
森永:このときだよ、(パッセンジャーズで)高橋研さんの曲も録音したんだよ。で、おれは気に入ってたの。
──相性よさそうですよね。
森永:ちゃんとリズムとギターも一生懸命考えて、オケまでできてんのに、ボツにしたんだよ…。ノブさんが。
──まぁ、気持ちはわからんでもないですけど(笑)その音源は残ってないんですか?
森永:おれは持ってない。未発表のやつは何曲か持ってるよ。ちゃんとトラックダウンまでしてあるやつ。
──うわ、それは聴きたいなぁ~。この頃の?
森永:いやいや、オランダ人(※註:解散間際に加入したオランダ人ドラマー、ハーメル・ラモーンのこと)の頃。
──じゃあ、いちばん最後の頃。
森永:けっこうハードロックだから、聴いてもあんまりピンとこないかもしんない。
──最後の方はだんだんハードロックな感じになっていきましたよね。
森永:本当はね、おれハードロックはやりたくなかったんだけど、どうしてもこの人(大野)がね。Jaco-necoとかも出てきたからさぁ。
──Jaco-necoはそんなにハードロックって感じでもなかったじゃないですか。
森永:でも、ロックな雰囲気じゃん。そう見られたかったんじゃない?。
──ああ、相性よさそうですよね。性格的にも(笑)(註:パッセンジャーズ解散後、大野はJaco-necoのデビルと一緒にmanifestoというバンドを結成している)
森永:おれはほんとはね、ちょっとファンキーな感じとか、そういうんで普通にやりたかったんだけどね。