【対談インタビュー】暁(アルルカン)× 逹瑯(MUCC)、「一番強い右ストレートを出すしかない」

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■ステージでは対等な立場としてぶつからせてもらう、という気持ちも込めました

──そうした中、2月に開催される<10th Anniversary 2man「餓者髑髏」>ではアルルカンとMUCCが良い意味で互いに容赦のないぶつかりあいを繰り広げてくれるのではないかと期待しているのですが、ここに<餓者髑髏>というタイトルが冠されているところも重要なポイントなのではありませんか。

暁:僕がアルルカンを始めてから初めてMUCCのライヴを観た時に、ステージのバックドロップのデザインがとにかく厳つかったんですよ。

逹瑯:あぁ、まさに餓者髑髏の絵柄を使ってた時のことか。

暁:そうなんです。あれを観て「凄いな…!」って思ったのがまずはひとつ。そして、アルバムで言うと僕が最初に聴いたのは『極彩』(2006年発表)だったんですけど、心の闇を音や歌詞から痛いくらい感じさせてくれるこのバンド、このイメージを視覚化するだったら、もうこれ以上ないじゃんってなって、僕の中ではもう髑髏で決まっちゃって。

逹瑯:へぇー、そうだったんだ。

暁:だけど、MUCCの世界が闇だけかというとそういうわけではなくて、たとえば『極彩』も闇と光を行き来してるような作品だったじゃないですか。しかも、ライヴはもっと強い。ほんとにデカくて強くて得体のしれない妖怪みたいな、暴れ回る餓者髑髏というのが僕の中でのMUCCという存在だったんですよ。そういう偉大な先輩に対するリスペクトの意味で今回の2マンには「餓者髑髏」というタイトルをつけさせてもらいました。裏テーマとしては髑髏は服を着ない、つまり互いに裸のまんま。ステージでは対等な立場としてぶつからせてもらう、という気持ちもここに込めました。

──なるほど。ちなみに、MUCCは餓者髑髏デザインのバックドロップをかなり長年使っていたように記憶しておりますが、もともとはどのような切っ掛けで餓者髑髏に着目することとなったのですか?

逹瑯:あれはね、洋服屋さんやってるSKULLSHITの大滝(哲也)さんと仲良くって、せっかくだから「骸骨を使ったカッコいいロゴを作ってもらおう!」という話になり、そのままポンって投げてお任せで出来上がってきたものだったんですよ。別にこっちから細かくモチーフの指定をしたとかではなく、MUCCに対する印象をデザイン化してもらったらああなったっていうことでした。インパクトあるし、ライヴの後半であのバックドロップがバーン!って下から揚がってきたら絶対カッコいいよねっていうことで、しばらく使ってましたね。

──ワンマンはもちろんなのですが、対バンの時にあの餓者髑髏から発せられる威圧感は異様なほどに強かった印象があります。その餓者髑髏の言葉を今ここでライヴのタイトルに冠してくれたアルルカンの真摯な姿勢からは、深い愛と闘志を感じますね。

暁:そこがわかってもらえると嬉しいですね。さっき、年末の<V系って知ってる?>でやったセッションの時に世代間の継承があったっていう話が出てたじゃないですか。そういう“流れ”の中に自分たちが居るっていうのが、なんか自分ではあんまり自覚出来ていないというか、ヴィジュアル系はとても好きなんだけど、その中に自分が組み込まれてる感覚がどうもちょっと薄いところがあるんですよ。

逹瑯:それはどういう意味で? 疎外感があるってこと?

暁:なんなんですかね? ライヴハウスに行って、フロアでアタマ振って、物販買って、みたいなことをした経験がないからかもしれません。MUCCを観たのもアルルカンを始めてからだったし、ライヴに通ってたキッズとしての原体験がないんですよ。音源ばっかり聴いてたというか、それも別にディグりまくってたわけでもないんで、なんとなく自分は馴染めてない感があるんですよね。

逹瑯:俺もそうだったよ。

暁:えっ! そうなんですか?!

逹瑯:俺もライヴって自分がバンドを始める前に観に行ったのなんて、SOPHIAだけだったもん。それも学園祭。ライヴハウスなんて行ったことなかったよ。そのあと、高校2年の時の文化祭で初めてコピーバンドやって、バンド楽しい!ってなったのはそこからだったからね。たまたまその時のメンバーにSATOちがいて、そこらへん界隈にちょこちょこ顔を出すようになって、そのうち「イベントやるからバンド組んで出る?」みたいな流れから、何回かコピーバンドやったっていう感じだったのね。だから、好きなバンドを観に地元のライヴハウスに通ってとか、茨城に誰々が来るから観に行こうぜ!なんていうのは全然したことなかった。ライヴハウスに出入りするようになったのは、俺も仲間内とバンドを始めて演者側になってからだったよ。おそらく、そこは暁と同じような感じだったんじゃないかな。


──両者にそのような共通点があったとは、やや意外です。

暁:ただ、MUCCは始まるのがわりと早かった方でしたよね? 俺、バンドを始めたのが20代に入ってからだったんですよ。そこも自分的にはちょっとズレてるよなぁ……という気持ちがあって。あと、MUCCについても『極彩』の時に出会ってはいたけど、その頃のMUCCが自分に大きい影響を与えてくれました、というよりは今まさに現在進行形なかたちでリスペクトしていると言った方が正しくて。ライヴをしている今の姿とか、アドバイスを直接いただいたりとか、MUCCの活動をリアルタイムに見て受ける刺激だったりとか、過去よりも現在の活動に強い刺激を受けているところが凄く大きいんです。

逹瑯:まぁ、そのへんの経緯とかはそれぞれみんな違くてみんなイイんじゃない?

──逹瑯さんの場合、コピバンからスタートしてやがてムックとして動き出すようになった中で、ご自身の中のバンドというものに対する本気スイッチがオンになったのはいかなる瞬間だったのでしょうか。今さらですがうかがってみたいです。

逹瑯:これで自分は生きていくんだ、って明確に意識したの高校卒業くらいのタイミングだったんじゃないですかね。高3の最初からムックが始まって、1年やって、みんな卒業前に進路どうするんだ?ってなるじゃないですか。東京に行くんだっていうヤツもいれば、バンドやってても解散するっていうヤツもいっぱいいたし、バンド続けるっていうヤツもいたけど、ムックはミヤが東京に出る、SATOちも東京出る、俺は専門学校があったから東京は行かないけど、楽しかったら「ムックは続ける」ことにしましたからね。その時点で、将来の選択をひとつしたっていうことだったんだと思いますよ。

──暁くんの場合は、昨年発表されたシングル表題曲「PICTURES」の中でもポエトリーリーディングを通して表明していたように、まずはギタリスト・奈緒さんとの出会いが音楽を始めるうえではとても大きかったわけですよね?

暁:そうですね。奈緒と出会った時はそれぞれ大阪と名古屋だったんで、どうしようか?みたいなことにはなりましたけど、結局そこから東京に出てきてっていうのが僕としては大きかったです。自分が大阪から出てくとは全く予想してなかったんで。

逹瑯:そんなに好きなん?大阪が。

暁:いて困ることなかったですからね。

逹瑯:でっかい街だもんなぁ。

暁:おそらく、今思うとあの頃の自分はあんまりいろんなものに対する興味がなかったんでしょうね。なんにも困ってなかった。息苦しいけど理由もわかんない。だけど、そこからいろいろ加点されていって、興味も拡がって、大阪を出て行くことになって。あれはほんとに大きな出来事やったなとあらためて感じます。

逹瑯:今は何に興味があんの?

暁:今ですか? 逹瑯さんに対しての興味がけっこう大きいかな(笑)。なんか、僕からすると逹瑯さんって飄々としたイメージがあるんですね。あと、黒魔術師みたいなイメージもあるんだけど、このあいだガラさんと話してた時に「昔の逹瑯はとにかく想いを叫んでた。今もそういうところはあるけど、途中から歌を歌う人にシフトしたと思う」っていう話をしてて、ガラさんのその話に凄く興味を持ちました。多分、ガラさんの言う“とにかく想いを叫んでた”時代って俺が逹瑯さんのことを知る前のことですよね?

逹瑯:だろうね。結局、自分の歌がヘタクソなのは凄く自覚してたし理解してたから、技術面とか歌の上手さで勝負出来ないんだったらエモーショナルに叩きつけるっていう方向に特化しよう、っていう意識がある時期までは強かったわけ。そこだけは誰にも負けられない、ってソッチに全振りしてたの。だけど、その一本勝負だけではだんだんどうにもならなくなって来て、いろんな感情を表現したり、いろんな場面を歌うには絶対的な歌唱力やたくさんの引き出しが自分の中に必要だ、っていうことに気付いてさ。ひとつずつ課題をクリアしていって、その時々で必要な表現方法を少しずつ身に着けていくうちに、気が付いたら「ちゃんと歌うって凄く大事なことなんだな。やっぱりそこって目を背けちゃいけないよね」って考えるようになってた自分がいたんだよ。

──インディーズ時代の楽曲や、それこそ昨年終盤に開催されていた<MUCC 25th Anniversary TOUR 「Timeless」~是空・朽木の灯~>で久しぶりに演奏されていた『是空』および『朽木の灯』の楽曲たちは、まだギリギリ“想いを叫んでいた”頃の範疇に入っていたように思います。

逹瑯:うん、アルバムでいうと『朽木の灯』を出した当時もまだ「俺より歌が上手い人は山ほどいるかもしんないけど、俺は“刺さる”歌を歌える人になりたい。そこだけは誰にも負けない!」って思ってたし、逆に言えばそこで勝負して負けたら自分には何もなくなっちゃうくらいの危機感は持ってましたよ。

──だとすると、逹瑯さんが「“刺さる”歌の一本勝負だけではどうにもならない」と感じた最初の節目はいかなるタイミングだったのです?

逹瑯:デカかったのはメジャーレーベルとの仕事でしょうね。歌だけじゃなく、歌詞にしても、そこで視点が変わったところは多々あります。


──その際に葛藤を感じるようなことはありませんでした?

逹瑯:あるにはあったけど、そこはMUCCというバンドの性質を考えるとそうすべきだろうなってなることが多かったと思いますよ。MUCCの場合、何よりもピラミッドの頂上にあるのは曲ですからね。この曲はこういう風に演奏していって、こういう雰囲気でやった方がカッコよくなると思うから、それを出来るようにしてね!っていうのが基本としてあるんですよ。だから、それを曲作りごとに重ねていくたびにちょこちょこ引き出しが増えていくわけです。そして、レコーディングまでになんとかカタチにはするんだけど、そこからツアーでやっていった時にはさらに曲に対しての理解が深まって「そういうことだったのか」って自分の中でシンクロしていって馴染んだり、みたいなことも出てくるわけで。だったら歌をもっとこうしよう、ってなるんですよ。要はずっとその繰り返しでした。今もそれが続いてるとも言えるしね。

──個人的には、メジャーレーベルにおいてMUCCが最も劇的に変化したのは2004年のアルバム『朽木の灯』から2005年のアルバム『鵬翼』にかけての時期だったようにも思いますけれど。

逹瑯:『鵬翼』に関しては、俺もあの当時「すげぇ柔らかい歌モノのアルバムが出来たな」って感じてましたよ。ところが、今になって聴くと全然あれも暗いしね。

暁:あははは(笑)。

──その後、2006年4月に出た日欧同時発売特別アルバム『6』と、同年末に出た暁さんにとっての出会いのアルバム『極彩』あたりからは、完全に今のMUCCに直結する流れが生まれていたように感じられますよ。あのあたりで曲調の幅がより拡がりましたよね。

逹瑯:おかげであの頃もほんと大変だった(笑)。

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