【連載】Vol.056「Mike's Boogie Station=音楽にいつも感謝!=」

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R&B/ソウル・ミュージックの歴史 ジ・インプレッションズが初来日。そして今回のワールド・ツアーは引退公演だった!



ジ・インプレッションズといえばあのカーティス・メイフィールドが在籍していたグループとして有名。一方ソウル・マニアにとってはジェリー・バトラーがリード・ヴォーカルを取り1958年にその後R&Bスタンダードとなる「For Your Precious Love」を大ヒットさせたことでお馴染みだ。今回その二人は姿を見せなかったけどサム・グッデンとフレッド・キャッシュのステージを味わえたことは63~4年から彼らのナンバーを口ずさんでいた一人として感涙を抑えきれなかった。2011年9月13日Billboard Live TOKYOで僕はジ・インプレッションズの素晴らしいステージを堪能した。そのファースト・ステージ前に短い時間だったけどグループの主軸サム・グッデン&フレッド・キャッシュにインタビューさせて貰った。B.B.キングやアイク&ティナ・ターナー、プラターズ、エディ・フロイド、サム・ムーア、ブッカー・T.ジョーンズ…らに話を聞いた時同様、今回のザ・インタビューでも頑強なマイ心臓がちょっぴり“キドキド”。サムは1934年生まれの84歳。フレッドは72歳。人生の大先輩でもある。


▲サム・グッデン

Mike:ジ・インプレッションズは、テネシー州チャタヌーガで1956年に結成されたザ・ルースターズから始まったんですよね? アーサー&リチャード・ブルックスの兄弟とサムが結成したグループとして…。
Sam:フレッドと僕は同じ町に住んでいて、ブルックス兄弟も同じだった。そうご近所さん。4人でグループをスタートさせストリートで歌うようになった。僕らはなんとか有名になりたかった。音楽の世界で活動したかった、歌いたかった。でもまだグループ名がなかったんだ。その時いろいろ調べてみるとスパニエルズ、デルズ,フラミンゴス…。それならと僕らはザ・ルースターズと命名したんだ。チャタヌーガではそんなに頻繁にライヴは出来なかった。時々しか仕事がないんだ。それならと大都会、ウィンディ・シティのシカゴを目指した。

M:58年?
S:いや、57年。この年にブルックス兄弟と僕の3人でシカゴに引っ越した。人前でライヴをやる前に少なくとも2カ月ほどリハーサルをやった。でもリハやっているうちにもう二人シンガーが必要なことが分かったんだ。その時住んでいた道路の反対側にYMCAがあって、そこで料理人をしている奴がいつも歌っていた。それがとっても上手いんだよ。出かけていっていろいろ話してみるとグループのリード・シンガーを引き受けてもいいって言ってくれた。それがジェリー・バトラーだった!


M:偶然でしたね。
S:全くネ…。ジェリーも我々も夜の仕事をしていたんで、夜中の12時から午前3時までがリハーサル。ある時ジェリーが、「バックの音楽がないと盛り上がらない」と言い出し、知り合いのギターが弾ける若者を連れて来た。それがカーティス・メイフィールドだった。カーティスは当時若い連中のグループのリーダーとして活動していたんだけど、「僕ら大人と一緒に組んでしっかり成長していこう!」みたいな口説き文句で彼をグループに参加させてしまったんだ。この時5人組になったグループはジェリー・バトラー&ジ・インプレッションズとなった。

S:その頃住んでいた地区で活動していた若いグループや歌手が近所の高校に集まって、オーディションというかコンテストがあった。物凄い人数(組)が参加したけど、何と僕らが優勝したんだよ。そこでエディ・トーマスに出会った。彼がジ・インプレッションズをマネージメントしてくれることになったんだ。そのちょっと後くらいだったと記憶しているけど、「For Your Precious Love」が出来上がったんのだよ。

M:58年にその「For Your Precious Love」が大ヒットするわけですが、その経緯を教えてください。
S:エディは、ジ・インプレッションズのレコードをリリースしようと最初はチェス・レコードのドアを叩いた。窓越しに女性スタッフが僕らを見ていた。きっと気に入らなかったんだろうな、チェスのドアは閉ざされたままだった。ならと、道路の反対側に位置するもうひとつのレコード会社に行ったんだ。それがヴィー・ジェイ・レコードだった。俺たちは持ち歌を全部歌い、最後に「For Your Precious Love」を披露。この「For Your…」は凄く気に入られた。2週間後にはレコーディングさ!
M:そして大ヒット。R&Bシーンだけでなく。Billboard誌HOT100でも11位を記録しました!
S:もう吃驚!(笑)


▲フレッド・キャッシュ

M:フレッド、貴方はその頃まだチャタヌーガに居たんですよね?
Fred:そう、テネシー州チャタヌーガにね。ジェリー・バトラーがジ・インプレッションズに在籍していたのはたった6カ月だった。ジェリーが最後にグループと歌ったのは1959年。その直後にサムやカーティス他グループのメンバー4人がチャタヌーガにやって来たんだ。僕をシカゴに連れて行くという。ジェリーの後釜としてジ・インプレッションズに迎えられたんだ。以来ずっとグループのメンバーさ。とても良い経験をしている。特に僕が加入したばかりの60年前後はグループにとってとても大変な時期だった。この世界は浮き沈みがある。でも皆で頑張ってきた。カーティスも段々と良い楽曲を書くようになった。当時のマネージャーのエディはABC-パラマウントのプロモーションマンもしていて、ジ・インプレッションズはそこへ所属するようになった。エディはヒット曲誕生のプロセスをよく知っていた。彼はよく「5曲連続ヒット」って言ってたけど、僕らは実際は6曲連続ヒットさせたよ。


▲ソロとして大成したジェリーは64年にベティ・エベレットとのデュオでも話題を呼んだ。日本盤シングル「二人は恋人」 from Mike's Collection(中2でこんなシングル買っていた、本人も吃驚)

M:ブルックス兄弟は?
S:彼らは他にいろいろやりたいこともあってグループから去っていった。ブルックス兄弟二人 vs サム/フレッド/カーティスで音楽上の意見の食い違いもあったしね。

M:61年の大ヒット「Gypsy Woman」の時はもう3人だったんですか?
S:そうだよ。3人でやっていこうということで、何をしたかというと、カーティスがダブルで歌ってバックで3人でハモっているようにした。カーティスにはリード・シンガーもやってたからね。だからリハーサルにはすごく時間がかかったよ。特にフル・ハーモニーをやるのにね。4人で歌ってるように聴こえるようにしたり、時には5人で歌ってるようにしてね。でも、実際は3人だけだったんだ。上手くいったよ。3人でそんなことやってもう60年目だ。


▲CD『THE IMPRESSIONS』(「Gypsy Woman」収録)from Mike's Collection

M:1960年代後半、アメリカ社会、黒人の世界が大きく変革していきました。そんな中でその後カーティスがジ・インプレッションズを去っていきます…。

S:カーティス・メイフィールドが「This Is My Country」を書いた60年代後半は黒人にとって多難の時代だった。ツアー中、黒人が入店できるレストランは限られているし、まともなホテルには泊まれない。黒人オンリーの木賃宿みたいな宿泊施設ばかり。バスルームが廊下の先に一つしかなく、宿泊客全員がそれを使うんだ。大変な時代だった。ガソリンを入れようとしても、当時はフルサービスだったから、店の人に気に入られなくてガソリンを売ってもらえないこともあった。黒人が嫌われていた、肌の色だけで。

F:あの頃カーティスは夜になるとメッセージ性のある作品を数多く書き下ろすようになった。夜中の1時だろうが2時だろうが、曲が出来ると僕たちの家にやって来ては「おい、この曲どう思う?」芝生に座ってギターを演奏しながら「これどうだい?」って。「俺たちの次のヒット曲だな」っていう感じで。そのミーティングにサムも加わって全体を検討して煮詰めていった。カーティスはメッセージ・ソングを書き始めた先駆者のひとりで、ジ・インプレッションズはグループとして初めてそういうメッセージ・ソングをレコーディングするようになった。カーティスは若かったけど、年取った俺たちと一緒にいたから、彼の楽曲のプログレッシヴなところとか素晴らしさは年配のファンにはなかなか理解されなかった。でも時間と共に段々と分ってもらえるようになりマーチン・ルーサー・キング牧師支持者はじめ多くのブラザーズ&シスターズが集会などで「Amen」「Keep On Pushing」「People Get Ready」を歌ってくれた。「Amen」はシドニー・ポワチエ主演の映画『野のユリ』で有名になったんだ。



S:カーティス・メイフィールドの作品は素晴らしい。僕らはキング牧師とともに行進は出来なかったけど、彼の叫びにはしっかり耳を傾け、音楽活動に“KEEP ON PUSHING!”だった。


▲サムと筆者


▲フレッドと筆者

M:1970年についにカーティスはソロになります。
F:カーティスはグループを去り会社を興したかったようだ。落ち着いてビジネスに勤しみたかったんだ。サムと僕はまだ一緒に音楽を続けたかった。カーティスはいったん一人でスタジオに入って「(Don't Worry)If There's A Hell Below We're Are Going To Go」をレコーディング。
M:Billboard誌Best Selling Soul Singles3位。
F:そう、大ヒットしちゃって!その余波でソロ・ツアーにも出なければならなかった。これがグルーブ脱退のひとつの理由だネ。こうしているうちに彼は自分のレーベルから次々にソヒットを発表していくことになる。
S:その後何人かのリード・ヴォーカリストをフィーチャーしてフレッドともにジ・インプレッションズとして活動をつづけたんだ。世界中のファンに愛聴してもらい感謝している。本当に60年間ありがとう!

*協力:河合 千春

若きリード・シンガー、ジャーメイン・プリフォリーは時間の関係でじっくり話しを聞くことが出来なかったのでプロフィールを紹介しておく。1984年11月9日テネシー州のクリーブランド生まれ。現在はテネシー州チャタヌーガに住んでいる。最初はアカペラ・グループで活動。8年前にTV“アメリカン・アイドル”に出演。その後はドラマや有名アーティストのバックなども務めた。ジ・インプレッションズには2年前に抜てきされた。


▲ジ・インプレッションズと筆者

☆☆☆☆☆

ジ・インプレッションズの引退公演Billboard Live TOKYOのステージ。



いかにもソウル・ショーらしくドラム・ロールでスタート。日本語&英語MCに促されるようにサム、フレッド&ジャーメインの3人がグループの65&70年ヒット・ナンバー「Amen」のインスト・ヴァージョンにのって観客の前にその姿を現した。そして1963年の大ヒット「It's All Right」を歌い始める。早くも会場全体が手拍子、立ち上がるファンも…。中学生の頃FENで聴きまくっていたことを思い出す。ミディアム・アップのリズミックなまさに60年代中期のR&Bなのだ。63年、Billboard誌R&Bシングル・チャート1位を記録(HOT100でも4位)、彼らにとって初のナンバー・ワン・ソング。



続いては68年にBillboard誌R&Bアルバム・チャート4位を記録した『We're a Winner』から「Nothing Can Stop Me」。


▲CD『We're a Winner』バック・カバー from Mike's Collection

そして4曲目が「I'm So Proud」、これもよく聴いた、64年の大ヒット。Billboard誌R&Bシングル・チャートお休みの時期でHOT100では14位が最高位。イントロでまずサムから僕ら観客への御礼メッセージ、続いてバンド&ジャーメインの紹介。次にジャーメインが尊敬をこめてフレッドを紹介。そしてフレッドがサムをフレンドリーにコールするのだ。ここでサムはカーティスの想い出を語りながら、ジャーメインへリードを託す。ソウル・バラードの名作。東京五輪時(‘64)のマイ・ヘヴィー・ローテーション…。メタロフォンが加わり楽曲全体を大きく盛り上げていく。







曲は65年スマッシュ・ヒット「I Need You」、68年同「I Loved And I Lost」と続く。特に後者ではサム&フレッドのコーラスがよりフィーチャーされ60年代後半のシカゴ・ソウルに酔いしれた。

7曲目はベスト・セラー「Gypsy Woman」、61年R&Bシングル・チャート2位。サムから始まり、そしてジャーメインが引っ張る。その後にフレッドのリードが続く!ここにオールド・ファンは涙なのだ。そしてアップテンポ「Stay Close To Me」が続く。68~69年に話題をよんだアルバム『This Is My Country』収録楽曲。

65年シングル「People Get Ready」B面ながらR&Bシングル・チャート35位を記録したのが「I've Been Trying」、このナンバーも観客を沸かせた。サムのリードが味わえるナンバーなのだ。80代とは思えないほど若々しいヴォーカルに聴き惚れる。



再び60年代後半のナンバーから「Mighty Mighty(Spade & Whitey)」。バックのサウンドがぐっとファンキーな“あの時代”を彷彿させるのだ。ブラック・ミュージックが大きく変革した時代を実に的確に表現している。69年シングル「Choice Of Color」のフィリップ・サイド・ナンバー。続いての11曲目がメッセージ・ソングとして注目され同年R&Bシングル・チャート1位を記録した「Choice Of Color」。3人がリードを担当する構成。ドラマティックな作品だ。



そしてバンドがカーティス作品の演奏に入ると3人がいったんステージから引っ込む。

再びステージに上がりアンコール3曲が披露される。「Finally Got Myself Together(I'm Changed Man)」。74年R&Bシングル・チャート1位を記録した代表作のひとつ。フレッドのリードがここでも楽しめた。



そして「People Get Ready」。65年にR&Bシングル・チャート3位を記録。HOT100でも14位!イントロ・インストが始まった途端に観客は大きな拍手。これぞジ・インプレッションズ、R&B/ソウル・ミュージックの歴史を感じさせる最高のスタンダード作品である。近年、映画『Glory Road』にも使用された。ロッド・スチュワート&ジェフ・ベックほか多くのアーティストがカバーしている。この日はジャーメインのために大胆にアレンジして、斬新なタッチで楽しませてくれたのだ。サムが若きジャーメインを称えていたのが印象的だった。



ファイナルは「He's A friend」。ななんとエディ・ケンドリックス76年のヒット作からのカバー。ダンサブルなディスコ・チューン。ソフィストケイトされたコーラスが得意なジ・インプレッションズにフィーリー・ソウルもマッチするのだ。手拍子&ダンスで盛り上がった。

LIVEショット=提供:Billboard Live TOKYO  Pic.by Masanori Naruse


【MBS Presents Mike's Garage VOL.5】



9月25日ROCK CAFE LOFTでの第5回目は「日本のG.マーティン 川原伸司が語るポール来日 ヤァ!ヤァ!ヤァ!」。雨天にも関わらず多くの音楽フリークの皆さんがご来場。



ポール・マッカートニーの来日公演を称え新作『EGYPT STATION』を楽しみながら川原さんと語りあう。客席にはビートルズ研究第一人者、藤本国彦さんや今回のフレッシュン・アップ・ツアー初日を観てきたお客さんもいらっしゃっていた。


▲コンサート・プログラム「PAUL McCARTNEY FRESHEN UP」フロント・カバー from Mike's Collection(カナダ土産)


▲同バック・カバー

川原さんといえば井上陽水の「少年時代」共作者としてクレジットされている(平井夏美・名義)。ということで「少年時代」をビートルズ「Let It Be」「Penny Lane」「For No One」、ウィングス「Let ‘Em In」のこのポイントという個所を聴きながら作者自ら解剖し説明して頂いた。でも勉強会、講座という雰囲気ではなく、勿論アルコールとともに楽しく音楽を肴にしてのトーク・バトル。“現場での秘話”もどんどん飛び出し、会場は唸り、納得&大爆笑!

“現場での秘話”といえば東芝EMI でビートルズやローリング・ストーンズのA&Rとして活躍した森俊一郎さんが後半にジョイン。



わが国におけるB4のアルバム売上高から、以前のポール日本公演でのエピソードなどをこれまたリアルにトーク・トーク・トーク。中央大学附属高校同級生の川原&Mikeも吃驚×3。90年代のポールのプロモCDから「Hope Of Deliverance」ほかPM&B4楽曲を楽しみながらの森さんのジェントルなお話しをもっともっと聞きたくなった。ちなみに僕が彼と初めて会ったのは80年代初頭、北陸放送のスタジオだった、ディスコ・ジャングル!


▲1993年11月のポール・マッカートニー来日時に開演前の東京ドームバック・ステージで行われた売り上げ枚数10万を超えていた当時の最新アルバム『Off the Ground』のゴールド・ディスク授与式の記念ショット。前列左から西村恵、ヘイミッシュ・スチュアート、ポール・マッカートニー。後列左から菊地洋一郎、 森俊一郎、ポール“ウィックス”ウィッケンズ、ロビー・マッキントッシュ、ブレア・カニンガム、リンダ・マッカートニー、乙骨剛、ピーター・バックリー/EMI Resident Director、斉藤正明、角間裕之、石坂敬一(日本人は株式会社東芝EMI所属=当時)。提供:森俊一郎さん

イベント・ショット = Pick.by K.Sato

【近藤房之助と久しぶりにいろんな話をした&黒田卓也のファンキー・ステージにも拍手 OTEMACHI PLACE OPENING STAGE!】

東京・大手町というと日本のビジネスの中心街というイメージが強い。数年前までは読売新聞とサンケイスポーツと懇意にしていたので時々大手町で呑んでいた(そういえば両新聞の当時のご担当者は大のストーンズ・フリーク)。でも最近は地下鉄の乗換駅として利用するくらいだった。大昔、僕が二十歳前後の頃(1960年代から70年代にかけて)大手町下車してサンケイホール(現存するらしい)にしょっちゅう通っていた。様々なコンサートをここで楽しんだ。ホリーズ、サム&デイヴ、B.B.キング、フリー…枚挙にいとまがない。


▲1969年来日公演告知チラシ 下のLP広告ではサム&デイヴなのにメインの公演インフォの方ではアーティスト名が“サムとデイブ”になっている from Mike's Collection

そんな大手町で久しぶりに遊んできた。9月26日、オープニング2日目の“大手町プレイス”に足を運んだ。次世代都市モデルというこのエリアには多くのおしゃれなレストランも営業するらしい。飲食が趣味のMikeとしてはいろいろ気になるお店が…、なかでもOP1Fの“Lady Blue”に注目した。ここはあのお馴染みBlue Note TOKYOが手掛けるカフェ/バー/レストランなのだ。そんなインフォをチェックしていると、“Lady Blue”の階下にあるステージ・スペースでの“OTEMACHI PLACE OPENING STAGE!”に友人でもある近藤房之助が出演すること発見。大雨だったけど、房之助LIVE&Lady Blueをマークした!

少し早目に着いたので房之助にセイ・ハロー。Lady Blueのバーで待っていてくれた。彼とは4月に妹尾隆一郎さんのお別れの会で会ったけど、ゆっくり話すのは久しぶり。KOTEZとのコラボも素晴らしいこの日の共演者YANCYを交えブルースやストーンズの話題で盛り上がった。そういえば房之助は僕がプロデュース&MCした10数年前のレイ・チャールズのイベントに鈴木聖美、鮎川誠らと出演してくれたのだ。房之助、ビールごちTHX!



“OTEMACHI PLACE OPENING STAGE!”2日目、まず黒田卓也のファンキーなトランペットを楽しんだ。ニューヨークを中心にして元気に頑張っている黒田は、先ごろBlue Note TOKYOにも出演、僕は9月20日LIVEにも参戦させて貰った。26日はいつもより短時間だったけど、お馴染みの「Rising Sun」はじめ予定されているニュー・アルバム用楽曲などをお馴染みのユルキャラ・トークを交えながら披露。ビッグ・アップルで幅広い音楽と遊んでいるようでジャズジャズした雰囲気に拘らずファンクなテイストさえ感じさせるプログレッシヴな演奏ぶり。これからがすっごく楽しみなアーティストだ。何といってもあのヘアー・スタイルがワンダフル、ケーノー人はうっとり見惚れてしまう。



そして近藤房之助。キーボード奏者YANCYを従えて登場。アコギでしっとりとブルース(ブルーズ)を歌い上げる。何よりもあの“歌声”が僕は大好きなのだ。1曲目はブルース・スタンダード「Call It Stormy Monday(But Tuesday Is Just As Bad)」、T=ボーン・ウォーカーでお馴染みだ。48年にR&Bシングル・チャート5位を記録。Have Mercy!
「Honey Hush(Talking Woman Blues)」はローウェル・フルソン作品で、アルバート・コリンズで知られる。房之助は個性溢れる雰囲気を創り上げている。YANCYのキーボードも良い味を出している。アルバム『1968 vol.2~DOWN HOME~』収録。
3曲目の「Love Me Darlin'」もアルバム『1968 vol.2~DOWN HOME~』から。ハウリン・ウルフで知られる。ミディアム・アップの展開の中でYANCYのローリング・ピアノをフィーチャーしてグルーヴ感溢れるブルースを楽しませる。
そして「Slave To Love」、10年近くになるけど菊田俊介のライヴに房之助がゲスト出演した際の演奏を思い出した。
5曲目の「Take A Look Behind」はオーティス・ラッシュのナンバー。アルバム『1968 vol.3~NOVEMBER~』に収録されている。
ラスト・チューンはYANCYとのセッションという感じで「Yancy's Boogie」。ローリング・アップしたエキサイティングなブギー、タイトル通りYANCYの演奏ぶりがここでもフィーチャーされる、♪Everyday I Have The Blues♪!!
そしてアンコールには黒田選手もジョインしてのトリオでワン・モア「Y's Boogie Again」。ブルース&ジャズのコラボがとてもフィーリン・グッド。ライド・オン!!!



ライヴ終了後はすぐ“Lady Blue”へ。食事はフレンチ・べースで気取らないメニュー、ワイン好きにはたまらない。テーブルに着くとオープニング記念で菊水一合を升で頂く。そして赤ワイン、この流れも粋だ。“窯上げしらすとタラマのアヒージョ”“香辛料たっぷりのもち豚ロースのグリル タスマニア産BIOマスタード”ほかをガンガン食しながら飲む呑む。また大手町に遊びに来よう…。
http://ladyblue.jp/

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