ポール・マッカートニーはThe Beatlesから次の段階へスムーズに移行した、と思っていない人物が全世界にただ1人いる。ポール本人によると、それは全然違うらしい。
たしかに、The Beatlesの“かわいい”メンバーだった彼は、ソロ活動のスタート地点でフライングをしている。彼の1stアルバム『McCartney』がリリースされたのは、The Beatlesのラストアルバム『Let It Be』と同時期だった。『McCartney』は、ただちにチャートのトップに上昇。その1年後、新バンドWingsが飛び立った。
けど、見かけに騙されちゃいけない、とポールは言う。
現在、彼は、Wingsを回顧するアルバムとTVドキュメンタリーを仕上げたばかりである。タイトルは、ともに『Wingspan』(アルバム邦題は『夢の翼 ~ヒッツ&ヒストリー~』、2001年5月9日発売。ポールの義理の息子にあたるAlistair Donaldが監督したドキュメンタリーは、5月11日に放映される)。
当時を振り返り「The Beatlesが解散した時点で、ぼくはボロボロだった。なんとかしようとずっと努力してたんだけど、どうにもならなかった。だから、解散のあとは少し落ち込んだよ。ふだんぼくは楽観主義者なんだけど、あのときは世界一好きな仕事を失ったんだ。というより、ぼくは、それ以外の仕事をしたことがなかった。あとは、子供のとき新聞配達のトラックの助手をやったくらいだよ。本当にショックだった」
彼を不安の日々から救い出してくれたのは、後’99年4月に乳癌で亡くなった妻Lindaだった、とポールは言う。
「彼女は、しっかりしろとぼくを励ましてくれて『これからどうするつもりなの』て言った」と彼は振り返る。「『うーん、やっぱり音楽を続けなきゃなあ。いまからぼくができることなんて、ほかになんにもないし』てぼくは言ったんだけど、本当はそのころ、核物理学者になろうかなとも思ってた。でも『たぶんムリだ』と思って『OK、じゃあ一緒にバンドをやろうか』て気になったんだ」
ポールの2ndソロアルバム『Ram』のリリース後、’71年11月8日に始動したWingsは、ポールの音楽生活における輝かしい第2章となった。彼が以前在籍したバンドの名声がつねにWingsに影を落としていたことは事実だが、それでもWingsは、ひとつの現象になるほど大成功を収めた。’77年の「Mull Of Kintyre」が売上250万枚というイギリス記録を作るなど、9年近い活動でWingsのシングルは総計1700万枚が売れた。米国では、5枚のアルバムが1位になった。
Wingsはまた、論争と騒動のつきまとうバンドでもあった。’72年前半、なんの告知もなくノーザンイングリッシュ大学へバスで出かけたのが、彼らの初めてのツアーだった。彼らは、プロモーターもホテルも決めず、33セントほどの入場料で学生たちにポールの新曲と(おねがい、The Beatlesの曲はやらないで)、ロックンロールのオールディーズを披露した。初期のシングル「Give Ireland Back To The Irish」は、歌詞が一方的すぎるとしてBBCで放送禁止となった(2001年になってテロリストの爆弾で20名が亡くなる事件がロンドンで起きたため、この曲はアルバム『Wingspan』からも外されている)。また「Hi Hi Hi」も、放送局の感性では性描写および薬物への言及が不適切と判断されたため、放送禁止になっている。
Wingsは、5代にわたるメンバーチェンジに苦労したバンドだった。なかでも’73年8月、ギタリストHenry McCulloughとドラマーDenny Seiwellが脱退したのは、彼らがレコーディングでナイジェリアの首都ラゴスへ出発しようとしていた直前だった。
そのとき録音されたアルバムが、名作『Band On The Run』である。Wingsに最初から最後まで在籍したのは元Moody BluesのDenny Laineだけだが、Laineが「女性記者のお色気作戦にはまって、本当に個人的なことをタブロイド紙に話した」ため、ポールは彼とも別れてしまう。
「恨んでるわけじゃないけど、そういうことをする人間と仲良くしてる必要はないでしょ」
Wingsが実質的に幕を下ろしたのは、’80年1月6日、日本ツアーのため訪れた東京でポールがマリファナ所持で逮捕されたときだった。
コンサートは中止になり、彼は留置場に9日間拘留された。それは、彼がLindaと別々に寝た唯一の日々だった、と彼は言う。そして、マリファナを日本へ持って行こうと思ったのは「どうかしていた」とポールは言う。しかし、それはWingsを解散するための故意の行為だったという説を、彼は否定する。
だが、彼は認めている。
「たしかにぼくは、Wingsをやめようと思ってたんだろうね。けど、本当にぼくは、バンドを脱退するためだけに、逮捕されて9日間も留置所に入ろうと思ったんだろうか。そんなの、自分では信じられないよ。契約不履行でプロモーターに100万ポンドも払ってさ。バンドを脱退するなら、もっと簡単な方法がいくらでもある。たしかに、なにか深い心理学的なものがあったのかもしれないけどね。あのころは、ぼくにとってキツい時期だったから」
Wingsには、もうひとつ大きなドラマがあった。Paul ポールが妻Lindaをバンドに加えたとき、彼女が批判の矢面に立たされたのだ。その状態は、’84年と’89-90年のポールのソロツアーでも続いていた。
「あれはひどかったよ」とポールは振り返る。
「ぼくの問題でぼくが責められるんならしかたないけど、ぼくがひとつの原因になって妻が傷ついてるなんて、まともな神経じゃ耐えられない。幸いLindaは強い人間で、そうした批判に打ち勝つことができたけど」
『Wingspan』はLindaの名誉を完全に回復している、と彼は感じている。
「もし彼女がこの番組を見たら、誇りに思うだろう」とポールは言う。
TV番組『Wingspan』のアイディアを彼が思いついたきっかけは、ある年の2人の結婚記念日にLindaと義理の息子Donaldが編集して彼にプレゼントした1本のホームムーヴィーだったという。
「これを見たらだれだって『なるほど、なんでLindaがこのバンドにいるのかやっと分かったよ』って言わざるをえないと思う。だって、あらゆる面でバンドを引っ張ってるのは彼女なんだから。この番組を初めて見たとき、ぼくの心でなにかが動いて言ったんだ、“Wingsってぼくのバンドだと思ってたけど、違ってた。これは彼女のバンドだったんだ”って」
『Wingspan』は、Lindaが亡くなって以来ポールが着手した大量の創作活動の一部にすぎない。’99年秋には、古いロックと新曲3曲を収録した『Run Devil Run』をリリース。このアルバムは、高い評価を受けた。2000年には、絵を公開する一方、詩集を出版して朗読会を開催。彼が動物愛護に熱心なのは以前からよく知られているが、最近では地雷除去運動にも積極的にかかわっている。
そしていまポールは、Heather Millsという新しいガールフレンドとともにロサンジェルスで新曲のアルバムを作っている。プロデューサーはDavid Kahne、リリースは2001年9月になる見込みだ。
「バンドが曲を演奏してるような音だよ。それ以上は、なんて言うのかなぁ」とポールは考える。
「それは、ロックーンロールでポップで……そんな定義が、ぼくは嫌いなんだ。あえて言うなら、いつものぼくのスタジオアルバムだよ。今回は、なにか特別のものを感じてる」
「じつは、ぼくには、やりたいことがたくさんあるんだ。お気づきかもしれませんが」と彼は続けて言う。
「ちょっと時間が空いたとき、なにか思いついたとき、じゃあやってみようっていう気持ちになる。それに、ぼくはたいていヒマだからね。ホントだよ。それと、ぼくは好きなことをやってるだけだ。ぼくは絵を描くのが好きだ。詩を書くのが好きだ。曲を作るのが好きだ。だから、ハードワークだとは思ってない。なにかをしたい気持ちが高まってきたら、それをしているだけだよ」
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