【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話017「おそらく職業病」

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皆さんは、ライブで涙を流したことはありますか?

多感な中高生時代は音楽が大好きだったけれども、田舎暮らしゆえにライブを観るという選択肢はなかった。ああいうのは大都会で行われているもので、自分とは無縁の世界と思っていた。実際無縁だった。大学に行くモチベーションのひとつに、「東京でライブを観たい」という動機もあった。

大学入学初日にロック系サークルに入り、ほどなくしてバンドを始めた。いつしか聴く側から演奏側に変わっていき、機会を得てステージに立つことも経験した。ただ音楽が好きで聴くだけじゃなく、表現手段として音楽を身にまとうという幼稚な自尊心とハリボテのアイデンティティを武装して、ステージに立った。自信と劣等感がコロコロと色変わりするのを感じながら、貧素な選民意識を一生懸命育んで心のバランスを保っていった。

音楽が好きという気持ちに変わりはなかったし、ギターが大好きということも変わらなかったけど、思うところあって、プロギタリストを辞めた。御縁あって音楽雑誌の編集に身をおいたので、さらに「音楽」は仕事における「最重要アイテム」になった。

気付けば、好きな音楽を好きなだけ聴くという純粋なリスナーとしての自分は、中高校生以来、遠い昔に置き去りになった。いつも音楽は、聴くべき曲を明確な目的をもって聴き込むという対象物になった。何も考えないでただただ音楽を聴くという暇はなく、音楽の向こうに何があるのかを探るように前のめりで食い入るように音楽に対峙するようになった。これは明らかに職業病で、音楽メディア編集者のしがなき性というやつだ。

この性癖によって、音楽から感動をもらってもその思いに身を委ねるのは一瞬で、すぐさま作者への畏敬の念や興味、リスペクトに変換させることが自分にとっての道理となった。感動をピュアに楽しむ余裕などなく、なぜこんなに感動するのかを自分なりに分析しそれを作者へぶつけることが情理であり、突き詰めつめるほどに音楽を純粋に楽しむことは困難となっていった。

ライブも全く同様だ。「あの動きはどういう意味なのか」「あそこでちらっと笑ったのはなぜ?」「この曲はアイコンタクトが多いな」…と、一貫してディテールに注意を注ぐ見方をしているので、ライブを楽しむモードにはない。むしろ心を動かされるようでは冷静な分析ができない。職業病とも言えるこの副作用によって、自分はライブを純粋に楽しむことはできなくなっていた。

そんな環境に身をおいて数十年の年月をもってすっかり免疫過多の不感症となった自分…なのに、ライブで涙が止まらなくなったことが2回だけあった。次回はそんなお話を。



文◎BARKS 烏丸哲也

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