【インタビュー】石原詢子、古内東子書き下ろし曲で突破するポップスと演歌の境界線「“今だから見えるもの”と“ありがとう”を」
「みれん酒」「ふたり傘」の大ヒットで『NHK紅白歌合戦』に2回出場を果している石原詢子が5月19日、“演歌歌手”というイメージを一新する通算44枚目のシングル「ただそばにいてくれて」をリリースした。彼女のために楽曲を書き下ろしたのは“恋愛の神様”と呼ばれ、切ないラブソングが女性たちを中心に支持されてきたシンガーソングライターの古内東子だ。石原自身が古内の曲のファンであったことから、今回のコラボレーションが実現することになったという。
◆石原詢子 動画 / 画像
着物姿からカジュアルなショートヘアーへとヴィジュアルも一新。ボーカルスタイルも含め、全ての意味でチャレンジしたという石原詢子。コロナ禍で直接、歌を届けることが難しい状況の中で感じたことや支えられた存在が、今、いちばん伝えたいメッセージソングへと繋がり、歌手としての未来のビジョンを浮かび上がらせた。古内東子との楽曲制作について「新しく生まれ変わる気持ちだった」と語る石原詢子の根底にある想いについて話を聞いた。なお、インタビューのラストには古内東子自身から到着したコメントもお届けしたい。
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■今の状況の中で伝えたい
■メッセージソングにしてくださいって
──演歌歌手として大成功を収め、多くの方に支持されている石原さんですが、シングル「ただそばにいてくれて」はシンガーソングライターの古内東子さんが書き下ろした普遍的かつ今の時代にフォーカスされた心に沁みてくるJ-POPです。石原さんご自身、どんな想いの中、演歌ではないジャンルを歌いたいと思ったのでしょうか?
石原:デビュー25周年(2013年)を超えたあたりで、演歌という枠にとらわれずに、もっといろんなことにチャレンジしたいという気持ちはあったんです。でも、“着物を着ている演歌歌手の石原詢子”として成立しているので、全く違うジャンルの音楽を歌うのは冒険しすぎなんじゃないか?っていう周りの意見も多かったんですね。それ以降もコツコツと「そろそろやろうよ」「違ったところに行ってみたい」と伝えていたことに加えて、コロナ禍によってコンサートで歌えないという想像を絶する環境になってしまったことで、“新しいことにトライしたい”という私の気持ちを汲んでいただける環境になったんじゃないかなと思うんです。辛い状況の中、私の場合は猫ちゃんを2匹飼うことによって“このコたちがいてくれたからこそ”って思えたのとファンの方々の存在に救われたんです。すごく心配してくださって「大丈夫?」っていうメッセージやお便りをたくさんいただいて、“独りじゃないんだな” “たくさんの方に支えられているんだな”って思えたんですね。
──ええ。
石原:コロナ禍の日々は、“今まで当たり前だったことがこんなにも大切なことだったんだな”と改めて感じた機会でもあったと思うんです。自分が感じたそういう想いをメッセージとして歌うんだったら、演歌ではなくポップス。しかも古内東子さんにお願いして、新境地を開拓したいと思ったのがいきさつです。
▲石原詢子 |
石原:そうです(笑)。去年の夏に同級生が飼っている猫ちゃんに赤ちゃんが生まれたので、メールでやりとりしていてたんですが、“かわいい!”という気持ちがだんだん“飼いたい”という気持ちに変わっていったんです。だいずときなこの存在は私の支えになってくれていますね。並行して、プロデューサーやディレクターに「ポップスを歌ってみたい」という話をしたのが、去年春ぐらいからだったと思います。
──昨年春というと新型コロナウイルスが日本でも問題となり始めた頃ですよね。
石原:まさにコロナが日本で広がり始めた頃、「次の新曲はどうする?」っていう話題が出て「できれば今回はジャンルにとらわれずチャレンジしたい。またここからスタートをして、5年後や10年後に振り返った時に“チャレンジして本当に楽しかった”と思えるような活動をしていきたい」とスタッフに伝えたことがキッカケで、「じゃあ、やってみましょうか」という話になったんです。
──石原さんは2011年4月に「逢いたい、今すぐあなたに…。」というシングルをリリースされていますが、この曲も演歌とはまた違うアプローチの正統派バラードです。石原さんにとってターニングポイントのひとつでしたか?
石原:今に繋がる大事なターニングポイントだったと思います。当時も“違うことをやりたい”という気持ちが高まっていたので「逢いたい、今すぐあなたに…。」という楽曲を作っていただいたんですね。これが挑戦の始まりで、内容は好きな人が亡くなった設定の歌詞だったんです。でも、東北大震災があった時期と重なり、当時は残念ながら表舞台で披露することがなかったという。その後、コンサートで歌ったりして、今は隠れた名曲として支持されているんですけどね。あの曲があったからこそ、スタッフの方たちが今回、「石原さんだったら」って賛同してくださったのではないかと思います。
──積み重ねがあっての今回のシングルなんですね。そして、コロナ禍ではご自身のオフィシャルYouTubeチャンネルで松田聖子さんの大ヒット曲「赤いスイートピー」をベイビー・ブーさんとコラボという形で歌われていますね。ルーツとなる詩吟や演歌以外に10代や20代の頃に影響を受けた音楽にはポップスもありますか?
石原:私は一台のTVを家族全員で見ていた時代に育ったので、いろいろなジャンルの音楽を聴いていたんです。10代の頃は松山千春さんが好きな兄の影響でフォークソングだったりビートルズだったり、洋楽も聴いていました。高校生の頃は浜田省吾さんが好きでしたね。もちろん演歌は演歌で好きだったので、フェイバリットソングとして歌っていましたし。
──ルーツは演歌だけではなく幅広いんですね。
石原:そうですね。松田聖子さんもそうですが、まさにアイドル全盛期に育っているので、振りをつけて今も歌えます(笑)。
──ちなみに古内東子さんを聴かれていたのはいつ頃でしょうか?
石原:私のデビューが1988年で、古内さんがデビューされたのが1993年なんですけど、当時から聴いてます。デビュー当初から失恋ソングを歌われていて、声や歌い方も独特で。同世代として曲を聴いて、“わかる!わかる!”って。
──当時の思い出と重なる古内さんの曲というと?
石原:たくさんありますが、古内さんを知ったキッカケになった「誰より好きなのに」(1996年発表7thシングル)は大きかったですね。ライブにも行かせていただきましたし。どの曲にも女性が共感するような気持ちを描かれていて、失恋や片思いの歌が圧倒的に多いので、泣きたくなる時によく聴いていました。
──切ない時に感情移入できるような?
石原:ええ。好きな人ができて“切ないな” “会いたいな”っていう気持ちになった時によく聴いていました。
▲石原詢子 × 古内東子 |
石原:“同世代で同じ目線で描いてくれる方がいい”と思ってお願いしたんですが、このコロナ禍の中で、“あなたがいてくれたから、この状況を乗り越えられて今の私がある”という想いだったり、“宝物”をテーマにしたいことをお伝えしました。ただ、古内さんに自由に書いていただきたかったので、多くのことを投げかけるのではなく、「今の状況の中で伝えたいメッセージソングにしてください」とお話したら、私が想像していた以上の歌詞と曲が上がってきて、本当にありがたかったですね。
──初めて聴かれた時、どんなふうに感じられましたか?
石原:伝えすぎることで古内さんの楽曲が縛られてしまうのは避けたかったので、キーワードみたいなものもあまり多くは言わなかったんですが、最初に歌詞を拝見した時、“ありがとう”という言葉が入っていたのがとても嬉しかったんです。実は“ありがとう”を入れて欲しかったし、感謝の気持ちが想像以上に伝わってくる楽曲が出来上がってきて……。
──石原さん自身、お聴きになってテンションがかなり上がったというか。
石原:上がりましたし、ちょっと涙ぐんでしまいましたね。
──おっしゃっていただいたことと重なるかもしれませんが、“今だから見えるもの”、“今しか出来ないこと”など、“今”という言葉もひとつのキーワードだと感じました。
石原:そうですね。振り返った時に“あの時期があったから、今があるんだよね”と思えたりとか。こういう状況になっていなかったら気づかなかったことってたくさんあると思うんです。“今だから見えるものを 幸せと呼ぶのでしょう”という歌詞もグサッと胸にきました。今までなら「そんなの普通じゃない?」って言ってしまいそうなことが、ものすごく大事だったんだなと気づかされる曲ですよね。
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