【対談】伊藤政則 vs BARKS編集長 烏丸哲也「伊藤政則の作り方」Vol.2/4

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2013年と2014年にわたって出版された音楽評論家・伊藤政則の書き下ろし単行本「目撃証言 ヘヴィメタルの肖像」「目撃証言2 ヘヴィメタル:魂の旅路」の2冊が大きな反響を呼びロングセラーを続けている。40年に及ぶ音楽評論生活の中で出会った、ビッグネームのハードロック/ヘヴィメタルのバンドたちを取り上げた生々しい証言集であるこの本の面白さは、アーティストとのレアな交流エピソードはもちろん、著者の持つ鋼鉄のロック魂と真の音楽ファンとして決してブレない視点の確かさにあることは、一読すればすぐにわかるだろう。

この本が書かれた背景をさらに深く探り、「伊藤政則とは一体誰か?」を解き明かすべく、BARKSではこのタフでエネルギッシュな音楽評論家を招き、BARKS編集長・烏丸哲也との対談を敢行した。

前回の第1回に続き、4回にわたってお届けする「伊藤政則の作り方」、老いも若きもロックファンもそうでない方も、人生をロックに賭けた男の確信に満ちたスピード感あふれる言葉の心地よさを存分に感じ取ってもらいたい。

第2回 伊藤政則のできるまで~NWOBHMの勃発、そして少年期の音楽の記憶

──1979年のアイアン・メイデンとの出会いは、偶然だったんですか?

伊藤政則:偶然です。サウンズ誌をめくっていて、カレンダーのところにミュージックマシンという…今はココという名前の店ですけど、そこに「ヘヴィメタルナイト」とあって、DJはニール・ケイ、ヘッドライナーはサクソン、ほかにアイアン・メイデン、ウィッチファインドと3つのバンドが書いてあった。たまたまその日、ヴァージンレコードが新人を送り出すプレス用のライブをあるクラブでやっていて、真夏のクリスマスパーティーという名前で3~4つのバンドが出ていて、それを観に行ったんだけど、これが全然つまんない。こりゃ駄目だと思って外に出たら、一緒に行ったロンドン在住の方が「ヘヴィメタルナイトが見たいなら、今からそこまで連れてってやる」と言われて、ノーザンラインのずっと北のほうだから、どうしようかなと思ったけど、せっかくだから行こうよと言われて行ったんです。そしたらウィッチファインドが出ていて、転換の間にDJのニールがブルー・オイスター・カルト、ライオット、レーナード・スキナードとか、1970年代のロックをかけていたから、そこへ行って、僕もラジオDJをやっていたんだけど、ライブの合間にDJをやるのはいいねなんていう話をしていたんだよね。そしたらニールが「そういう音楽が好きなら、次に出てくるアイアン・メイデンはすごいぞ。ショックを受けると思うからよく見たほうがいい」と言われて、そこで初めて観た。ポール・ディアノ、デイヴ・マーレイ、スティーヴ・ハリスがいて、サイドギターとドラムは全然違う人。それを見て、これはすごい!ということになって、すぐに楽屋に遊びに行ったら、まだアマチュアなんで、「日本から来たのか?入れよ」という感じで歓迎されて。しばらく話してから、今でもマネージャーをやっているロッド・スモールウッドと一緒にバーにビールを飲みに行って、スティーヴ・ハリスも来て、「いいバンドだね」「でもまだメジャーと契約してないんだ」とか、いろんな話をしました。「2週間後にここに帰ってくるけど、それまで俺たちと一緒にツアーしないか?」って誘われたんだけど、その時は断って、2週間後に会った時には、もう雰囲気が変わってたね。どんどん大きくなっていった。そこでお互いの住所や電話番号を交換して、これから年末にかけてレコーディングの予定があるから、シングル盤を送るねと言って、日本に帰ってから、シングル盤を送ってきた。自主制作の。それを持ってNHKの渋谷さんの番組でかけてもらったりして、そういう感じで一気に仲良くなったんで。アイアン・メイデンが日本に進出する上で、デビュー前に僕がグラウンド整備をしていたので、そのあとどんどん大きくなったあとも、そのことを感謝してくれましたね。

──アイアン・メイデンにとって、政則さんが初めて話をした日本人だったかもしれないですね。

伊藤政則:間違いないですよ。詳しくは憶えてないけど、「日本でどんなバンドが人気あるんだい?」「ジューダス・プリーストのライブ・イン・ジャパンを録った時に僕はその場にいたんだ」「へえ、そうなんだ」とか、そんな話をしたかな。1979年の12月にデモを録って、それをレコード化するんですけど、デモの段階でマスターからダビングした何本かのカセットテープの1本を僕のところに送ってきたんで、日本人でそれを持ってるのは僕だけだと思いますよ。

──ロックシーンへの失望を抱えた伊藤政則というジャーナリストと、全く新しいものを創造していたアイアン・メイデンの間には、共鳴するものがあったんでしょうね。

伊藤政則:それもあったでしょうね。彼らは下積み生活が長くて、いきなり出てきたバンドではないので、3~4年かけてやっと芽が出てきたところだった。イギリスではファンがぼちぼち増え始めた時代だったと思うけど、新しいハードロック、ヘヴィメタルのムーブメントに日本人がこんなに関心を持っているということも、彼らにとっては驚きだったんじゃないかな。

──しかも、イギリスの人がみんな知っているムーブメントなわけでもない。

伊藤政則:まだそこまで行ってなかった。だから「どうも」とか言って唐突にドレッシングルームに入れたんじゃないですか。イギリスでNWOBHMというムーブメントが起こっていることを、日本人は知らなかったですからね。僕が「こういうことが起きている」と報告した途端、「なに?」ということになった人が日本には相当いたけれど、1979年や1980年にはまだイギリスに行くということは難しかったから。

──ポンドも高い時代ですよね。

伊藤政則:今は1ポンドが170円ぐらいですけど、僕が1974年にロンドンに行った当時は強い大英帝国の名残があって、1ポンド800円ぐらいしたんですよ。そこからどんどんイギリス経済は落ちていくわけだけど、当時イギリスに行くのは非常に難しい時代だった。かなりレアだったと思いましたよ。

──ロンドンに行ったのは音楽に対する興味、それのみで?

伊藤政則:それしかないです。おかげでイギリス発のムーブメントは本当によくわかりました。ハードロック・ヘヴィメタルのみならずね。当時のイギリスはムーブメントの発信地として大きな力があった、それが1980年代になってくると、日本の若い世代もどんどんイギリスに行けるようになるんですよ。1983、1984年くらいになるとけっこう多い。でも1981~1982年の頭くらいまでは、なかなか大変だった。そんな時代でしたね。

──NWOBHMを日本に持ち込んだ政則さんの功績はよく知られたところですが、元々はどういう音楽を聴いて育ったんですか?

伊藤政則:レコードを買い始めたのは、僕が中学生になった1966年ぐらいじゃないですかね。洋楽で最初に買ったのは何だったかよく憶えてないけど、たぶんモンキーズのデビューシングル「恋の終列車」とかあのへんじゃないですか。あとは歌謡曲みたいなものも買っていたし、グループサウンズも買ってました。中学3年ぐらいになって深夜放送のブームが来て、ラジオを通じていろんな楽曲と出会うわけです。それによって間口が広がってくるんですね。1969年に高校に入るんだけども、中学でブラバンをやっていたことが影響しているのか、ブラス系のものはしょっちゅう買ってました。シカゴ、BS&T、全米No.1になったシングル「ビークル」で知られるアイズ・オブ・マーチとか、そのへんは一気に買ってます。お小遣いが上がったこともあって、高校1年、2年くらいは無茶苦茶買ってましたよ。1970年になると、EL&P、ピンク・フロイド、グランドファンク・レイルロード。当時の中高生が興味のあるものはけっこう買ってました。

──でも学校のクラスの中ではそこまで音楽に興味のある人は…。

伊藤政則:いないいない。本当にいないんだ。

──情報交換はどうしていたんですか?

伊藤政則:ラジオと、ミュージックライフ、ニューミュージックマガジンとか、雑誌ですね。ところが雑誌は一方通行なんだね。誰かと話し合うわけじゃないので、読んで感じることはなかなかできない。雑誌はあんまり役に立たなかった気がする。記事を読んでもどんなバンドだか全然わかんないんですよ、こっちに知識がないから。でもツェッペリンはカッコいい、グランドファンクはカッコいい、ピンク・フロイドもEL&Pもいい、シカゴのブラスもすごい、そういうロックの全体的なイメージにものすごくあこがれて、今ほど細分化されていないので、「ロックを聴く」というとものすごく新しいことをやってるようだったんですよ。一方でラジオヒットでは、洋楽と言われる7インチシングルを買っていると。そういう音楽全体が持っている新しさみたいなものに、ずいぶんあこがれていたんだと思うんですね。むしろミュージックライフよりは、ラジオのディスクジョッキーの人が言う、これがニューシングルで何枚目だとか、ディープ・パープルの「ブラック・ナイト」は実はアルバムに入ってないとか、そういったことにいちいち「あ、そうなんだ」と思って、ラジオで聴いたことはズバズバと身体に入ってくる感じだった。ラジオで学んだことが大きかったんじゃないかな。

──でも学校の友達たちのほとんどは、日本のヒット曲…歌謡曲を聴いているんですよね。

伊藤政則:でも僕も、歌謡曲がちょっとモダンになったものというか、加山雄三さんとか黛ジュンさんとか、ポップスに切り替わっていくようなものは買ってましたね。明星も買ってましたよ、GSが好きだから。GSはロックと歌謡曲を混ぜたような感じだったし、わかりやすかったので、そのへんが今のルーツになってるんじゃないかと思いますけどね。

──先ほどブラスバンドをやっていたとお聞きしましたが。

伊藤政則:トロンボーンです。でも高校に入った時に、ロックを聴かなきゃいけないし、ブラバンは練習がきついし、やるのもロックじゃないしね(笑)、こりゃ駄目だなと思ってすぐやめて、帰宅部になっちゃった。映画を見たり、本屋さんとレコードショップが一緒になったお店でレコードを見たりとか、当時は試聴させてもくれたんで、そうやって過ごしたり、ラジオを聴いたりレコードを聴いたりしてたほうが全然良かった。

──ギターとかドラムとかロックを演ろうと、プレイヤー側には行かなかったですか?

伊藤政則:行かなかったですね。理由はね、楽器が高いから。もし安くてすぐ手に入るものだったら演っていたと思いますよ。当時みんな持ってたのはエレキじゃなくてガットギターですよ。

──そうか。それで「禁じられた遊び」を弾くという。

伊藤政則:そんな感じ。ギターはみんなガットギター。僕の中学の同級生のお兄さんがいて、たまたま遊びに行ってお兄さんがいない時に部屋に入ったら、壁にエレキギターがかけてあって、それをさわったのが初めてじゃないですかね。エレキギターなんて持ってる人いなかったですよ、高いから。高校3年生ぐらいになると、友人の兄貴が持ってたのを借りて弾くということはありましたけどね。僕も学園祭でバンドはやったけれども、ギターは持ってなかったからボーカルをやりました。グランドファンクの「ハートブレイカー」をコピーしましたね。ほかにCCR「雨を見たかい」と、タイガースの曲を何かやったのかな。4曲ぐらいしかできなかったけど。

──どれがウケてどれがウケなかったか覚えてますか?

伊藤政則:いや、それがね、僕の高校の2年下の子が、のちにBMGに入社するんですよ。けっこう有名なアーティストを担当するディレクターなんだけど、のちに後輩だったことがわかって。彼女が言うには、グランドファンク・レイルロードの「ハートブレイカー」を初めて聴いたのは俺のバンドだって(笑)。それがハードロックを聴いた一番最初ですって。だからウケるもウケないも、バンド自体やってる人がいなかった。僕のところは県立高校でしたけど、私立の高校でバンドをやってる奴がいるっていうんで偵察に行ったんですけど、機材は兄貴のを借りたりしてるからものすごく良かったりするわけ。俺らはマイクも持ってないから、中学校の体育祭で使うマイクを借りてきて、アンプは軽音部から借りてきて。だけど私立の子たちはめちゃくちゃ機材はいいけれど、やってるのはエンゲルベルト・フンパーディンクの「太陽は燃えている」とかあんな感じの、僕らから言えばダサダサですよ。楽器は駄目だけど俺らはロックを演ってるんだと思ってた。そんなレベルでしたね。東京は違ったんだろうけど、僕は岩手県なので、岩手県花巻市の中ではエレキを持ってる同級生はいなかったと思います。

──まだエレキギターの市場も未熟だったんですね。

伊藤政則:そうです。そこから10年20年たってくると、経済的な余裕も若干出てくるので、ギターメーカーもいろんな種類のものを安く作るようになって、若者にギターを手に取ってもらいたいという気持ちで廉価なシリーズを出して行くわけです。僕がやり始めた頃は、グレコのギターに成毛(滋)さんの教則カセットがついてくるとか、そんなレベルだからね。そんなの聴いたって何だかわかんないよ(笑)。ツェッペリンをやろうなんて奴は、岩手あたりじゃいなかったですね。

──僕はもうちょっとあとの世代ですが、高校の頃に安いエレキギターが世の中に出てきましたね。

伊藤政則:そこが転換期で、高校生の子たちがアルバイトしながらでも買えるぐらいのギターが出てきて、日本のギター文化は花開くわけだからね。でも僕らの頃はまだまだ。この間、業界の大先輩の方々とお話してた時にね、ザ・ビートルズが1964年に日本でブームだったというけども、実はクラスの中で女の子が「ビートルズが好き」とか、あとは何人かの男が言っていただけで、あとの音楽好きな奴はみんなベンチャーズだったと言っていた。だけど、エレキが買えない。当時の大学生でエレキを持っていたのは、医者の息子とか、いいとこのボンだと。いいとこのボンがエレキを買ってもらってバンドをやるんだけど、中には金があるだけでろくでもない奴がいっぱいいて、街の人たちから見ると「○○さんちのぼっちゃんはバンドをやっていて」という評判がどんどん広がって、エレキ=不良につながるんだと言っていました。

──その時代の方々なんですね。エレキ=不良という図式を作ったのは(笑)。

伊藤政則:そういうこと。エレキギターを持つと不良になるから、PTAがエレキを禁止する。根っこにあったのは、お金持ちのワルのボンボンたちがバンドをやって、悪い評判がどんどん広がってそうなったと。当時エレキブームでエレキをやっていた人たちの多くは、やっぱりお金持ちなんだよ。フェンダーの本物なんか、買える人は限りがあるでしょ。お金持ちで余裕のある人しかエレキバンドはできなかった。特に中高生には無理でしょう。そういう時代がまだ僕の頃にもあって、1971年頃にはギターもない、楽器もない、ドラムも音楽室から借りてきたものを組み合わせてやるしかないみたいな、そんな感じだったですよ。

──貴重な体験談ですね。

伊藤政則:これはね、とても重要なことだと思うよ。僕は今大阪のFM COCOLOというラジオステーションで、日曜日の8時からパイレーツロックという番組をやっていて、僕は監修をやってるんだけど、毎週DJが違うんですね。それは誰かというと、日本のレコード会社及び雑誌の編集者だった人。退職した人を中心に、当時聴いていた音楽や担当していた音楽を語るということをやっている。それこそ業界の重鎮たちが話すんだけど、その人たちの話を聞いているとよくわかる。すごいよ。見てきたような嘘を言い…なんて言葉があるけど、ウィキペディアで調べればみんな同じような知識なんだよ。でもその時代を生きて音楽業界で働いてきた人の意見はすごく生々しくて、そこが日本の音楽文化を語る上で意外に抜けてることが多いんだよね。本当にザ・ビートルズが日本でデビューした1964年あたりのことは、きっちり語られているのか?と。資料としては残っているけど、当時青春を過ごした方々の実際の言葉で聞くと全然違うじゃんみたいな、そういうことがけっこうわかって、自分が音楽を語る上でのベーシックなものとしてインプットされていくので、非常に面白い。僕が1969年、1970年、1971年の高校時代を語るのと同じように、僕よりもはるかに年上の人たちがその時代を語るんで、すっごいリアルなの。

──政則さんが多感な時期に聞いた大切な音楽って、そのあたりなんですか?

伊藤政則:ピンク・フロイドは必ず入る。でもね、僕は高校生の時に『原子心母』を買ったけど、何がすごいのかよくわからなかったね。でも1971年、高校3年生の時に、親には東京の予備校の夏期講座を受けに行きますという嘘をついて、1か月間池袋の予備校に通うことになったんだけど、でも僕が東京に来た本当の目的は、箱根のピンク・フロイドを観に行くため。チケットはもう買って取り寄せていたから。それで観に行くわけですよ。1971年の8月頭だったけど、それが僕が初めて見た外国人のコンサートだった。

──初めてのライブがピンク・フロイドだなんて…。

伊藤政則:しかもそれが箱根という。ロケーションも素晴らしかったし、ドキドキ感ワクワク感がね。今思えば中野サンプラザだろうが日本武道館だろうが良かったんだろうけど、シチュエーションとして箱根の山奥であったということ、そしていろんなバンドが出る中で最後にピンク・フロイドが出てきたということ。前日が大雨でぬかるんでいたこととか、いろんな要素がひとつのコンサートの中に盛り込まれていて、そしてピンク・フロイドが登場して、自分の一番聴きたかった『原子心母』をやったと。あとは知らない曲ばっかり。「エコーズ」とかもやっちゃうんだけど、まだレコードが出てないよというのは、大人になってからわかるわけだけど、そういう感じのコンサートで、あれが自分が中学生高校生の時から求めていたロックというもの、ロックというのは全体がすごくエネルギーがあって、ファッションも、ヘアスタイルも、言ってることも、音楽スタイルもカッコよくて、いろんなものがある。ロックというのは自分の人生でなくてはならないものだと漠然と思っていたものが、ピンク・フロイドの登場ですごく具体的になって、「これはすごい!」と。それを説明しろと言われても説明できない、大きなパワーのカタマリとなったものと言うのかな。そういうものが目の前にあって、非常に感動しただけではなく、「これだ!」と。自分がそれを将来仕事にしていくと考えたかどうかはわからないけど、少なくともロックで食っていくんだと、ロックがあればこっちのもんだぐらいの気持ちになったんだよね。

──僕も『原子心母』はフェイバリットアルバムの1枚だけど、初めて買った高校の時は、正直何がいいのか分からなかった(笑)。

伊藤政則:あのジャケットの牛も、聴いた感じも、何が凄いのか少年にはなかなかわかりにくいんですよ。むしろシカゴやグランドファンクを聴いてるほうがわかりやすい。でも逆に言うと、わからないことがすごいんだと。そうこうしているうちにピンク・フロイドが日本に来るという報道がなされて、これはもう絶対行かなきゃ駄目だなと。高校生で、音楽への興味や親への反抗心、学校へ行きたくないとか、少年のエネルギーが沸々と湧き上がってくる時期に出会ったのがロックであり、抑えきれない衝動が湧き上がってきたのがちょうど『原子心母』が出たあたりだったんじゃないですかね。

続く

取材:BARKS編集長 烏丸哲也
文:宮本英夫
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