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まさに驚くべき夢のようなジョイントツアーだ。
このユニークな期間限定ツアーを行なっているのは、一見不釣合いなバンド2組だが、最高に息の合ったステージを展開した。King CrimsonとToolである。
プログレッシヴ・ロックというジャンルの歴史と、そのコンセプトの時代性の、新旧両端を担うバンドだ。かつてBill Grahamがよくこういう企画をしていたものだ。一緒に出演するなどまず考えられないバンドだが、実現してみれば完璧!なのだ。プログレッシヴ・ロックは、ロックンロールから派生した音楽の中では批評家から最も酷評されてきた(当然ではある)ジャンルだが、2組のバンドはこのロックの継子の美点を堂々と披露してくれる。
時をさかのぼって1969年、King Crimsonは『In The Court Of The Crimson King: An Observation By King Crimson』(編集部註:邦題『クリムゾン・キングの宮殿』。当時大ヒット中であったビートルズのアビーロードを一撃し、ビルボード初登場1位となったことは有名なエピソード。これがデビュー作なのである)で一躍有名になった。5曲の長く複雑で意味深長かつ極めてドラマチックな歌を含むこのアルバムは、音楽的にも様々なジャンルを融合し、ミュージシャンの才能とテクニックも高度なものだった。
彼らの登場を受けて、数多くの模倣バンドが、似非ジャズや似非クラシックを取り入れたまがい物でプログレッシヴ・ロックを汚した。さながら泡のストーンヘンジに群がる小人のごとく、無数の模倣バンドを生み出す結果となったのである。やっとフォグマシーンの霧が晴れたのち、雄々しく立っていたのはCrimsonであり、ほぼ10年ごとに時代を見極めつつ、今も現役で刷新を加え挑戦を続けている――そう今もってプログレッシヴ(斬新)なのだ。
時代を早送りして’90年代。グランジ、長髪メタル、オルタナティヴロック全盛の時代に、LAから出てきたのがTool。Crimsonがそうだったように、トレンドも期待も無視し、自分たち独自の妥協しない音楽を貫いた。Toolをコピーしようとするニューメタル・バンドは数え切れないほど出てきたが、Toolのテクニックと作曲力、さらに問答無用という態度は他の追随を許さない。
King Crimsonは、昨年リリースしたばかりの『ConstruKction Of Light』に続くツアーで、すでにLAにも来ている。
今回の会場はWiltern 。多才なデュアル・ギターとして、ヴォーカル兼ギターのAdrian Belew(バンド在籍20年目)と監督役のRobert Frippをフィーチャーしている。この2人に機敏なリズムセクションがそろえば、幅広いCrimsonのレパートリーから縦横無尽にプレイできるはずだが、それにしては少々がっかりだった。
彼らは珍しい曲を持ち出して観客をあっと驚かせる代わりに、単に昨年のセットの短縮版をプレイしただけに終わったのだ。「A Sailor’s Tale」や「Nightwatch」など意外な曲をやってくれたなら、昔からのファンも狂乱したに違いない。
結果的に、このコンサートはTool が主役となってしまった。Crimsonの真剣なインストゥルメンタルの途中で短い静寂が訪れたとき、誰かが「Maynardを出せ!」と叫び、続いて同様の声があがった。
Crimsonもやっと’81年に時計を戻し、「Thela Hun Ginjeet」をBelewが歌ったが、ほとんどは最新レコードからの曲で、延々と続く「Larks’ Tongue In Aspic, Part IV」などをプレイし続け、ぞっとするような冷酷な雰囲気をかもしだした。セットは少なくとも4分の3がインストゥルメンタルで、暗いパープルの照明を使っている。フィナーレになってようやくのってきて、第一期Crimsonの終わりを代表する’70 年代究極のメタルジャム「Red」を熱演。
ドラマーのPat Mastelottoは相変わらず素晴らしい腕前だが、そのまったく揺るぎのないアプローチは、いつもマシーンのような感じをぬぐえない。Crimsonにとっては完璧なのかもしれないが、洗練されたドラマーだったBill BrufordやMichael Gilesのジャジーなスウィングに比べると、やはりぎこちない。しかし「Red」は、ToolのドラマーDanny Careyが加わったおかげで、全体に硬さが取れ、へヴィになった。
彼はToolにおいても同様の役割を果たす。たとえて言うならKeith MoonとJohn Bonhamの特質を併せ持つドラマーなのだ。ちょっと信じられない組み合わせだが、Danny Careyはまさにそういうドラマーであり、一目置かれるのも当然である。
Crimsonの深いパープルの照明とイマジネーションをかきたてるインストゥルメンタルとは対照的に、Toolは観客にビジュアルな夢想はさせない。なにしろToolのセットは、ギタリストAdam Jonesが創作したビデオのサウンドトラックなのだ。
パワフルで感情豊かなギタリストだが、彼はテクニックよりコード・モンタージュやディレイを目いっぱい使ったサウンドスケープを好むらしい。Jonesの本当の才能は、バンドのビデオやコンサートやDVD用に、短い映像を創ることにあると言ってもいい。ステージでは実際、こんなおかしな瞬間もあった。Careyがドラムで人間業とは思えないプレイを披露しているというのに、観客の目はすべてビデオスクリーンに釘付けで、誰も気づかなかったのである。スクリーンは見る間に万華鏡模様からぴくぴく動く粘土人形に変わり、会場の歓声を誘った。
要はすべて、このビデオ映像を盛り上げるためなのだ。バンドの後方を覆い尽くして巨大なスクリーンが1つ。その下、そしてヴォーカリストMaynard Keenanが立つ台の後ろには、巨大スクリーンの映像を反転させた小さいスクリーンが1つ。
Keenanはショウの間中ほとんど動かない。何枚も重ね着した服を1枚1枚脱ぎ去り、ギターを1、2度手にしただけ。それ以外の動きといえば、隣のCareyの台に向かって歌うくらいだ。今にも跳びかかりそうなシルエットが、小さなスクリーンに映し出されている。JonesとベーシストのJustin Chancellorは、その2つの台の前で、頭を深くたれてじっと動かずに立っている。
Jonesの映像が描いているのは、David LynchとClive Barkerが住んでいそうな『Hellraiserhead』(※Barkerの『Hellraiser』とLynchの『Eraserhead』をミックスした造語と思われる)のような世界の生き物や夢想だ。苦悩とメタモルフォシス、ことにメタモルフォシスの苦悩が、彼の秀作ビデオで繰り返されるテーマだった。
このように常に刺激的なヴィジュアルにさらされていたため、ファンは長いインストゥルメンタルを聴きながら自分自身でイマジネーションをふくらませる楽しみはなかった。とはいえ今回のオーディオ・ビジュアルな経験にも、聴き手の解釈に任された部分はかなりあった。
Toolは、いかようにも解釈できる不吉な予感を執拗にかきたてることにかけては天才的だが、同じようなテンポで長い曲ばかり聴かされると、どれがどれだか分からなくなってしまう。2分間こっきりの「Immigrant Song」のような曲ではだめなのだろうか。
バンドがプレイした多くの曲は、最新アルバム『Lateralus』からで、オープニング曲 「The Grudge」でセットは始まった。続いて「Stinkfist」「Undertow」「Prison Sex」と初期の曲、それからラジオでかかっている最新曲「Schism」。ロック一般の現状、ことにラジオの現状からすると、Toolが今でもラジオでかかり、人気があるとは、驚くべきことである。
Maynardは観客にこう言ってのけた。
「どいつもこいつも二流のやつらばかりさ。いいか、このフィーリングを忘れるんじゃないぜ」。
そして、自分にしかできないことをやれと呼びかける。
数年前、Trent ReznorとDavid Bowieが行なった競演のように、FrippがToolに加わって、「Reflection」を聴かせた。“デジタル・フリップトロニクス”を駆使し、長く幻想的なサウンドスケープを繰り広げる。Toolがステージを降りてFrippだけになると、映像は妖しい赤い雰囲気に取って代わった。それからメンバーが1人ずつ再び登場し「Reflection」を終え、初期のヒット曲「Sober」に突入。
今夜は妥協を一切廃したプログレッシヴの最前線を行くコンサートであった。こういう挑戦的なコンサートに若い連中がこれほどやって来るというのは、音楽界の現状を考えると頼もしい限りである。
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