'80年代初頭、“ニュー・ウェイヴ”というカテゴリーのもとで台頭したエコー&ザ・バニーメン(以下、エコバニ)、ジョイ・デヴィジョン、ニュー・オーダーらが、当時の既存の音楽シーンに衝撃を与えたのは言うまでもない。
その功績は ポップ・ミュージックをサブカルチャー、カウンター・カルチャーまで押し上げ、サイケデリック~パンクの流れを昇華し、あるいは全く無視して独自の世界観を築き上げたことだった。
エコバニは、'70年代後半に、リバプールで、産声をあげた。当時、リバプールの音楽シーンは、かなりの逸材を輩出する。エコバニのイアン・マッカロクやティアドロップ・エクスプローズ(エコバニのメンバーも在籍した)のジュリアン・コープをはじめ、後の“ニュー・ウェイヴ”シーンの核となる重要人物がゴロゴロしていたのだ。
当初、バンドはイアン・マッカロク(Vo)、ウィル・サージェント(G)、レス・パティンスン(B)の3人に、エコー社製のドラムマシン「エコー」の布陣でスタート。
インディーズでの活躍後、'80年にドラマー、ピート・デ・フレイタスを迎え、KOROVAレコードと契約、メジャーデビューを果たす。1stアルバム『クロコダイルズ』は、盛り上がりつつあった“ニュー・ウェイヴ”シーンに一気に火をつけることとなる。
ジョイスやジャック・ケルアックにも通じるような独特な詩の世界と官能的なイアンのヴォーカル・スタイルに、研ぎすまされてはいるがワイルドなウィルのサイケデリック・ギター。そして機械のようにくり出される、重厚なリズム隊。荒々しい演奏ではあるが、"ネオ・サイケデリック"とも称されたサウンドは熱狂的な支持を集め、「ドアーズの再来」と呼ぶものさえいた。また、殊に彼らは、評論家筋の評価も高かった。
その後、'81年2ndアルバム『ヘブン・アップ・ヒヤー』、'83年には3rdアルバム『ポーキュパイン(やまあらし)』を発表し、イギリス本国では人気バンドとしての地位を確立。続いて、個人的に最高傑作と評価するシングル「キリング・ムーン」を収録した4thアルバム『オーシャン・レイン』をリリース。'84年には、来日公演も果たしている。
しかし、本国での高い評価とは裏腹に、アメリカでの人気はもうひとつだったエコバニ。その理由のひとつには、人気プロデューサー、スティーブ・リリーホワイト(XTC、ピーター・ガブリエル)のもとで、'83年に『WAR』をヒットさせたU2の影にかすんでしまったことが挙げられるだろう。
結局、ニュー・オーダーらと行なった全米ツアーは、カレッジチャートを中心とした支持は産んだものの、全米での大ブレイクという結果には至らなかった。イギリスでは人気の頂点にあっても、アメリカでは単なるマイナーバンドということを味わされたのだ。
'85年の暮れにはギル・ノートンのプロデュースのもと、シングル「ブリング・オン・ザ・ダンシング・ホーセース」をリリース。続けて初のベストアルバム『ソングズ・トゥ・ラーン&シング』を発表するが、この頃から、バンドとしての活動は急速に衰えを見せはじめる。
やがて、イアンがソロ活動とともにバンドを脱退。残されたメンバーは活動を続けようとするが、フロントマンを失ったエコバニを支持するファンは少なく、バンドは活動停止を余儀なくされた。また、'89年にはドラマーのピート・デ・フレイタスが事故で亡くなっている。
しかし'94年、イアンはギタリストのウィルとよりを戻し、エレクトラフィクションを結成。'96年には、そこにベースのレスが加わることで、エコバニは再び復活した。その背景には、グランジ・シーン旋風が吹き荒れる中で、ニルバーナがエコバニへのリスペクトを示した(エコバニの曲のカヴァーをしている)こともたぶんに影響を与えている。しかし、復活後の彼らの音楽性は、時代に媚びたものではなく、彼らにしか解り得ない、どこか別のコンテクストから生み出される密教的なサウンドを展開している。
新しいエコバニには、巨大化したマーケット重視のシーンの中でプレイする必然性に抗うことなく、むしろ瞑想の中で体得し、ようやく自分達のヴィジョンにたどり着けたとでも言うような、シンプルで、力強い、清々しい美しさがあふれている。イアンは、ステ-ジで相も変わらず悪態をつきながらも、理想郷を確信し始めた。虚栄は混乱に始まり、無意味で終わる。たぶん、彼らは気付きはじめたのだ。
そして、新生エコバニが久々に我々の前に姿を現わす<FUJI ROCK FESTIVAL '01>。ニュー・ウェイヴという時代を 共に築き上げ、奇しくも同様に復活劇を遂げたニュー・オーダーとたて続けに登場する。
そんなおじさん泣かせのラインナップ。 果たして楽しめるのか? それともがっかりするのだろうか?
TEXT BY LAYOUT 4 PEACE