【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第2回「靴底」
悪夢の話をした。
「駐車場だったから車に轢かれたんじゃないかな、べったりひっついてたんだよ。小学生の頃それを毎朝踏みつける儀式が流行りだして。」
僕がそう言うと、彼女は食べようとしていた焼き鳥を皿に戻した。それからゆっくりと瞬きをして「ちょっとお手洗い」と席を立ったのだ。
嫌だな、ここからが良いところだったのに。それを踏めないでいた僕は友達が三人減ったのだと、彼女は知らないままでもう会うことは無かった。
アスファルトに鼠が一匹、いや匹というより一箇所の方が正しいかもしれない。黒いような、茶色いような。それでいてまだ少しだけ毛並みの面影が残っていた。
儀式というのは残酷であればあるほど神聖だと思い込んでいたあの頃、僕らが従うべきは集団登校で先頭を歩く奴だったし、願いはそこから溢れないことだった。
仲間内に「誰かが一緒なら大丈夫、力のある奴がいればなおさら」なんて安全神話が蔓延したのもこんな年頃だったような。とても自然発生的なものだったからあまり覚えていない。
「鼠の死骸がある」と言ってみんなを案内したのは僕よりも小遣いが五百円多い奴だった。いつもの集合場所である家の前からすぐのところに汚い中華屋があって、その隣に新しく駐車場ができたのだ。
みんなで押し合うように見に行くと、想像していたようなものではなかった。なんというか、「かろうじて三次元」といった感じだ。この染みが鼠と言われればそうなのだろうけど、鳩と言われても子猫と言われても、あながち間違いではないような気がする。けれどそれが何であっても、僕らは同じように変な高揚に包まれるのだろうと思った。
一番初めに鼠を踏んだのはしょっちゅう家族旅行に行く奴だった。自ら踏んだというか、足でつついていた時に背中を押されたのだ。押したのは勿論「先頭」。そして「汚ねー!」とケタケタ笑いながら、今度は自分の意思で踏んだのだった。
隣にいた「先頭」はすかさず二回、「五百円」は一回踏んだ。僕はみんなと一緒に笑った。
みんなが徐々にオリジナリティを加えて踏んでいく中、「家族旅行」が「ゆうちゃんは?」と言った。
三人に見られながら、僕は咄嗟に「靴、新しくしたばっかだからやめとく」と答えたけれど、その答えが正解ではないことは「先頭」の表情を見ればわかる。白ける、ということをこんなにも強く体感したのは初めてだった。
次の日から朝の集合場所が駐車場に変わり、昨日の度胸試しは一夜にして「その日の信頼関係を結ぶ儀式」となった。
「ゆうちゃんは儀式に参加してないからともだちじゃない」
「ゆうちゃんが踏まないからいけないんだよ」
はじめはそんなことを言っていた彼らも、日を追うごとにまるで僕のことが見えていないみたいに何も言わなくなった。何も言わなくなった、というのは責めなくなったということではない。本当に何も言葉を交わしてくれなくなったのだ。
悔しくて悔しくて、それでも毎朝その駐車場に行った。
彼らは「先頭」「家族旅行」「五百円」の順に踏んでいく。そして最後にみんなで手をつないで一緒に踏むというのも、いつの間にか追加されていた。
その日、いつもの様に三人が踏んだ後にすかさず僕も鼠の死骸を踏んだ。
もう限界だったのだ。犬の糞を踏むのと大して変わらない。「靴が新しいから」と言って断ったのだから、今から参加しても不思議じゃないのかもしれない。臆病だからできなかった、とは思われないのではないか?毎日そんなことばかり考えていた。
その一瞬は緊張で目眩がしたけれど、何度も何度も踏みつけた。既にこれが何であったかもわからないような染みを「今までできなかった分!」と笑いながら体重を乗せてズリズリと擦りつける僕をみて、三人もケタケタと笑い「ゆうちゃんすげー、鼠先輩じゃん!」と言った。
僕はやっとみんなに認められて、これまでにないくらい嬉しかった。嬉しかったなんてもんじゃない、やってやったぞ!と興奮して気持ちよくなっていたと思う。
けれど、その興奮は長くは続かなかった。どのくらいかというと、午後には憂鬱で泣き出してしまいそうになるくらい。やっぱり僕は臆病だった。
お気に入りの靴、その靴底には鼠の破片がめり込んでいる。そんなことを考えると悲しくて泣きたくなった。
いや、本当にそれだけかは分からない。もしかしたらそんなことができてしまった自分への苛立ちや後ろめたい気持ちもあったかもしれない。
とにかく、むしゃくしゃしていた僕は帰り道のありとあらゆる汚いもので鼠の上書きをするしか、この気持ちから逃れる方法がないと思ったのだ。
水たまり、干からびたミミズ、泥、残飯、もうなんでこんなことをしているのかさえ分からなかったけれど、ただ、ずっと悲しかった。「自分が何より汚い」なんて綺麗事で救われようとしていることが悔しかった。
「ありゃあ、遅かったね。どうしたの、そんな泥んこ付けて。」
僕は家に帰るとばあちゃんの顔も見れずに「何でもない」といって一目散に風呂場へ向かった。全部無かったことにしたかったのだ。けれどこんなに汚いことをしたのに、鏡に映る身体はいつもと変わらずに綺麗だった。
風呂から上がると、ばあちゃんが僕の靴を洗っていた。ぞっとした。水たまりもミミズも泥も残飯も、鼠の死骸だって踏んだ僕の靴を素手で触って、ごしごしと洗っていたのだ。
「ゆうちゃんのパパも、よくこうやって買ったばっかの靴汚してたんだあ。」
そうクシャっと笑うばあちゃんのことをそれ以上見ていられなかった。
分厚くてシワシワの手が汚れてしまうのを見たくなかった。
「悪夢の話をする夢」をみた。
僕の悪夢はいつも「鼠の死骸を踏む夢」じゃなくて「ばあちゃんが靴を洗っている夢」だったのだと。悪い夢は大抵子供の頃の罪悪感から生まれると誰かに言うことでずっと許されたかった。
今度は「悪夢の話をする夢をみた話をする夢」をみたけれど、「それを踏めないでいた僕は友達が三人減った」と言ったところで「そのあと友達が三人増えたのだと」言えないまま脈絡もなく死んだ。
夢の中の彼女は僕の目をじっと見つめて「あなたは優しい人、だから優ちゃんなのね」と言った。
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