【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第17回「彗星」

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長いトンネルを抜けると、小さな寝息がきこえてきた。
私は一瞬だけ左を向き、マツダが寝ていることを確認した。
起こさないように細心の注意を払って車を走らせる。
時刻は午前三時をまわっていた。


うまく眠れない人間の気配は奇妙だ。まるで夢にも現実にもはじき出された幽霊みたい。
マツダもその一人だった。
身体の大きさに見合わない小さすぎる寝息と、微動だにしない顔。
はじめてそれを見たとき、子供の頃に行った湖を思い出して少し怖くなった。
大きさに反してどこまでも穏やかで、不自然なくらい優しく打ち寄せる水。そこに足を浸けると、ひんやりとして、死んだ海に撫でられているようで気味が悪かった。

私はマツダが眠りはじめるといつも、身体から体温が逃げないように、そのままどこかへ行ってしまわないように、重い布団でくるんでやりたくなった。



マツダがうまく眠れなくなったのは二月のことだ。
「耳の中に変な虫が棲みついてさ。そいつの駆除剤。」
そう言いながら見たことのないシロップを飲み干し、馬鹿みたいにまずそうな顔をした。

「俺が喋るとその虫も喋るんだよ。ほら、今も。同じタイミングで喋り出す。けど音痴なのか、へたくそなハモリみたいで鬱陶しくて。」
ドリンクバーから一口だけ持ってきたオレンジジュースでぐちゅぐちゅと口内を洗い、そのまま飲み込んだ。
「なにそれ、ちょっと私が歌うから再現してよ。」


あー、あー。はーい、せーの。
四畳半を拡げたくて~閃いてからは速かった~
(…ろげたくて~閃いてからは速かった~)


確かに絶妙な不協和音だった。
けれど正直、いつもふざけてハモってくるのとあまり変わらなかった。
「マツダじゃねえか。」
「わざとやってんだよ。」
こんなにくだらないことで笑い合っている間にも、元々あったクマがどんどん濃くなっているような気がした。
急にモーニングを食べに行こうなんて言い出すからてっきり調子がいいのかと思っていたけれど、多分寝ていない。昨日どころか、もしかしたらずいぶん長いこと寝られてないのかもしれない。
「ほんと鬱陶しいわ。あー、もう、ほら。」
耳の中に指を入れて、ぼりぼりと掻いた。
耳の虫か、こんなに小さい穴に入るんだからきっと毛虫みたいなやつなんだろうと思った。



初めて深夜にドライブしたのはそれからすぐのことだった。

「やっぱり車っていーなーー。」
隣で冷たすぎる風を顔面に受けながら言った。
「いい加減免許取りなよ。そうしたらいつでも好きな時にできるでしょ。」
「わかってないね。ドライブっていうのは話したい人がいるから成り立つんだよ。」
「乗ってるだけなのによく言う。そもそも、運転してもらう側がこんな時間から誘うとか普通あり得ないからね。」
私の小言に、マツダは愛想笑いをした。

あれ、なんだろう。
なんか。
違和感を覚えてすぐ、最近愛想笑いが増えていることに気が付いた。
その時はじめて、もしかしたらちゃんと聞こえていないのかもしれないと思った。


走り出して三十分も経たないうちに、マツダは眠りについた。
とてもささやかな眠りだった。
思えば、前はいつでもどこでも寝てしまうような人だった。特に車内では起きているところを見る方が稀なくらい、小学校の遠足も中学の修学旅行も、バスで最初に寝るのはいつもマツダだった。
小さな身体がはち切れそうなほど、胸が膨らんだりしぼんだり。
私はそれを見ながら、眠っているくせに態度のでかい奴だなと思っていた。

呼吸はあの頃よりもうんと浅く、すぐ隣に居るのに、居ないような感じがした。
一度そんなことを考えてしまうと、左を見るのが怖くなった。本当は最初から居なくて、ずっと一人でドライブしてたりして。
まさかと思って確認すると、マツダの身体は確かに隣にあった。
けれどそれは、シートベルトに挟まれているだけの空洞で、少しでもブレーキをかければカラカラと崩れてしまいそうだった。


「うわごめん、寝てた。こっちから誘ったのに。」
「いいよ別に。」
「なんか気持ちいいんだよね、揺れとか、音とか、全部。」
変わらないよね、なんて言いながら少しだけあの頃の話をした。

「そういえば最近耳の虫はどうなの。」
「ああ、あいつは相変わらず元気でやってるよ。」
耳を引っ張ってぐるぐると回す。

しばらくすると、壊れた蛇口みたいに、訥々と話し出した。
「なんか、耳鳴りがさ、羽の音みたいに、ブーンとか、ヒーンとか。うまく寝付けなくて。」
マツダのぼんやりとした声を聴いていると、私の輪郭までぼやけてしまいそうになる。
「マイブラでも流す?耳鳴りとか紛れるかもよ。」
うーん、という曖昧な返事になんとなくsometimesをかけた。
ドライブはとうに破綻している。
マツダは「久しぶりに聴いた。」と言うと、またすぐ眠りについた。

明け方の青い街に浮かぶ街灯を横目に、私はマツダの身体(空洞)を安全に運ぶ宇宙船を操縦しているような気分になった。
どこに運びたいのかはわからない。けれど、ここではなく、もっと安全なところに運ぶ必要があった。そしてそれは、車では行けないくらい、とても遠いところにあるような気がしたのだ。
スピーカーからは何度目かのsometimesが流れている。


その日から時々、深夜にドライブをするようになった。
「どうせニートみたいなもんだからさ。」
私がそう言うと、確かに、と笑った。
なんとなく、いまは近くにいることを惜しんではいけないような気がする。

ドライブは特に日曜、次の日から仕事がはじまるというときに朝まで車を走らせることが多かった。
マツダは車に乗っている時だけうまく眠れた。
耳の虫は相変わらず元気だった。
駆除剤のおかげかへたくそなハモリは減ったものの、夜になると羽を鳴らし、マツダを苛つかせた。


その日はいつもより長く起きていたと思う。
二週間に一度の病院の帰りだった。
「今度CTとりに行くんだ。」
「そっか、何もないといいね。」
「大丈夫、多分何もないよ。」
私はだんだんと怖くなっていた。
なんというか、マツダの周りに溝ができて、それが日ごとに広がっていくような感じ。
時々そこに堕ちてしにそうになった。

「理不尽だとか思ったりする?」
「何が?」
「何も悪いことしてないのに、なんでこんなことになるんだ、とか。」
「いや、その逆かも。世界って案外思った通りになるんだなって。
本当はさ、もう何も聞きたくないって思っちゃったんだよ。」

一瞬、頭を殴られたみたいにくらっとした。
まだ父親が生きていた頃、一度だけマツダの耳を塞いだことがある。
カビ臭い毛布の中で、嫌な音を何も聞かせないように力いっぱい耳を塞いだ。虫に喰われた穴からさす光がプラネタリウムみたいに綺麗だった世界で、私も「もう何も聞かないでほしい」と思った。


「綺麗な言葉で傷つける奴っていうのがいてさ。お前のためだって言いながら、自分が悪者にならないように言葉を尽くすんだよ。
そうすると、例えばこの先幸せな場所に居られるようになったとしても、そういうところには綺麗な言葉がたくさんあって。なんていうか、そういう言葉からは一生逃げられないんだなって。そう思ったらもう何も聞きたくないって、毎日毎日、毎日思い続けたらこうなった。」

私はマツダの言っていることを全て理解することはできなかった。ただ、あまりにも淡々と言うから、どうしようもなく泣きたくなった。
どうせ傷つけられるならこの先一生触れることのない、大切な人の口から間違っても出ないような醜い言葉で傷つけられたほうが。そんな風に思ったが、絶対に間違っているので言うのをやめた。


「このまま何も聞こえなくなったりするのかな」
独り言とも寝言ともとれるような熱の無い声が漏れる。
その言葉から漂うのが恐怖なのか諦めなのかはわからないが、何にしろ嫌な臭いが充満してしまわないうちに窓を開けた。
風の音と車の音、それとスピーカーから流れる音楽。
それらにかき消されるほどの声で「私はそいつを絶対に許さない」と言った。
マツダはまた、愛想笑いをした。



時刻は午前五時をまわっていた。
トンネルに入ると騒音がマツダを起こした。
「まだ寝てていいよ。朝になったら起こすから。」
すると小さく頷いて、もう一度眠った。
このままどこかに逃げてしまおうか、次に起きたらそう言おう。

トンネルを抜けると空は完全に白くなっていた。
私はマツダを起こさなかった。
街灯の消えた街の中、夜を引きずったまま走る。
長い尾を引く彗星のように、私たちは少しずつ溶けて光っていた。


リーガルリリー 海

ロックバンド、リーガルリリーのベーシスト。国内のみならず、カナダ、アメリカ、香港、中国といった、海外でのグローバルなライブ活動も行い、独創的な歌詞とバンドアレンジ、衝動的なライブパフォーマンスが特徴。現在放送中のTVアニメ「ダンジョン飯」第2シーズンED主題歌「キラキラの灰」をリリース、今年はバンド結成10周年を記念した全国ツアーを7月から開催する。

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