【対談】44MAGNUMのJIMMY × 大石“jack”征裕が語る、<JACK IN THE BOX>と全ての原点「40周年のケジメです」
<DANGER CRUE 40th Anniversary「JACK IN THE BOX 2021」supported by MAVERICK DC GROUP>が、12月27日に東京・日本武道館で開催される。年末の武道館を賑わせ続けてきた音楽事務所MAVERICK DC GROUP恒例行事の2021年のテーマは、“原点回帰をノスタルジックに。そして次世代へのエールを!”だ。1981年の会社設立から40年。その節目を祝うイベントでもある。
◆JIMMY (44MAGNUM) × 大石“jack”征裕 画像
DANGER CRUE (現MAVERICK DC GROUP)立ち上げのキーパーソンは、もちろん大石"jack"征裕と44MAGNUMだ。ジャパニーズメタル全盛期の一角を築き上げた同レーベル/事務所は、その後もREACTION、D'ERLANGER、DIE IN CRIES、L'Arc-en-Ciel、MUCC、シド、DEZERTなどを輩出し、音楽シーンを牽引し続けている。
先ごろ公開した千秋(DEZERT) × 暁(アルルカン) × 来夢(キズ)鼎談では、MAVERICK DC GROUP所属若手アーティストDEZERTの千秋を中心に現在シーンの実情や<JACK IN THE BOX>について語ってもらったが、今回は40年前の同GROUP創立時代に遡り、原点はもとより所属アーティストと共に確立してきた歴史を大石"jack"征裕と44MAGNUMのJIMMYに明らかにしてもらった。なお、この対談はInterFM特別番組『40 Metal Years〜ジャパニーズメタル40年のキセキ』直後に実施したもので、同放送で語られたジャパメタシーンの隆盛について併せて聴いていただくと、より理解も深まるはず。そして、大石"jack"征裕自身が44MAGNUMのベーシストとして参加する<JACK IN THE BOX 2021>の出演者についても言及したテキストは、来る12月27日への期待度をますます高めるものとなった。
◆ ◆ ◆
■組織として、バンドのファミリーとして
■俺達だけの事務所を立ち上げるんだって
──InterFM特別番組『40 Metal Years〜ジャパニーズメタル40年のキセキ』の生放送、お疲れ様でした。
JIMMY&大石(jack):ありがとうございました。
──先ほど終わった放送では、おもしろい話がたくさん聞けました。
JIMMY:ふたりとも、当時のことに詳しくて、まるでバンギャみたいでしたね(笑)。
──バンギャと呼ばれたからには、このBARKS対談でもグイグイと話を切り込んでいきますよ(笑)。生放送でも、大石さんと44MAGNUMの出会いの話が出ていましたが、ここではもう少し詳しく教えてください。
大石:44MAGNUMの曲を最初に聴いたのは……どうやって聴いたんだったのかな。
JIMMY:大石が最初に聴いたのは、リハのときに録ったカセットテープじゃなかったかな。たしかPAUL(Vo)が持ってた。
大石:そのあたりは覚えていないんですが、その後、44MAGNUMのデモを録ろうということになり、大阪バハマ(ライヴハウス)のオトン(マスター)に「昼間、タダで貸してくれ」と頼んで。
──レコーディングスタジオ代わりに?
大石:そう。4トラックのレコーダーとマイクとミキサーを持って行って、オケを一発録りして。ギターソロとヴォーカルは別に録ったと思う。音楽的にもサウンド的にもその頃にないものが録れたんですよ。それが評判になって、音楽評論家の大野祥之さんとか、いろんな人が44MAGNUMに興味を持ってくれたんです。
──そのデモ音源にはどんな曲が入っていたんですか?
大石:10曲ぐらい録ったかな。
JIMMY:それが44MAGNUMとして初めてのデモテープ。「SATISFACTION」も「I'M LONELY MAN」も入っていた。当時のライヴでやっていたほぼ全ての曲を録ったかな。
▲JIMMY (44MAGNUM)
──その後、大石さんはすぐに44MAGNUMのマネージャーに立候補したんですか?
大石:そうではなくて。当時、どちらかと言うと陸サーファーっぽい生活をしていて(笑)。
JIMMY:風貌はサーファーだけど、全然海に出ないシティサーファーでしたから(笑)。
大石:キャラバン(ワンボックスカー)を持っていたんで、「機材を運んでくれ」というのが44MAGNUMからの最初の依頼ですよ。だからバンドに便利に使われていたんですよ、俺は(笑)。
JIMMY:そう言うなよ! さっきの生放送でも話したけど、音に対するエンジニアとしてのスキルと、あとキャラバンへの機材の積み方がすごいんですよ(笑)。
大石:俺にしか積めない(笑)。しっかり計算して隙間なく積み込むから。
JIMMY:他の人にはできない。デビューしてからもそうなんだけど、例えばリハで電気系統のトラブルが起こるとするじゃない? 周りにはプロのテックたちがいるんだけど、彼らにも解決できないこともあって。そんなときに大石がふっと現場に来て、「これをこうすればいいんじゃないの」みたいな。そうすると、すぐにトラブルも解決したり。
──魔術師のごとく?
JIMMY:俺はこういう男にそれまで出会ったことがなかったんだよね。
大石:バンド運営に必要なエンジニア周り……もっと具体的に言えば、ハンダごて仕事だったり、マーシャルスピーカーの結線とか、真空管を変えましょうとか、ドラムをチューニングしましょうとか。そういうことを18歳ぐらいから本格的にやり始めていて、PAエンジニアもやっていたし。まぁ、レコーディングに関しては、まだ宅録レベルでしたけどね。
──どこかで勉強したんですか?
大石:いえいえ、独学です。
JIMMY:とにかくそういう面で長けていた。その後に大石を含めて、「事務所を立ち上げよう」となったんだけど、「俺達の事務所ができるのか!」って最も喜んだのはPAULだった。組織として、バンドのファミリーとして、俺達だけの事務所を立ち上げるんだってことに。
▲大石"jack"征裕
──それがちょうど40年前(1981年)のことになるわけです。
大石:“やってみましょうか”って感じでしたけどね。言い方を変えると、適当なんです(笑)。レコーディングやPAエンジニアリングが自分の趣味だったんで、最初の頃、僕はエンジニアリングという関わり方をしてたんです。44MAGNUMに出会ったときも、絶対に一緒にやればカッコいい音を録れると思って、デモを録ったわけですから。そういうふうに関わるようになっていったら、PAULから「スケジュールもお金も管理してや」と言われて。理由を聞いたら「大石がやったほうがええ」と。
──そして立ち上げたのが、DANGER CRUEですか?
大石:その名前になるのは、だいぶ後のことです。最初は“44MAGNUM OFFICE”のような感じで。インディーズの初期に作ったソノシートも、44MAGNUM RECORDとかってレーベル名を書いていたはず。
JIMMY:ソノシートって、どのシート? あのシート?みたいな(笑)。
──そういうギャグも原稿に入れますからね(笑)。
JIMMY:ははは。そんなのも入れといてください(笑)。
大石:MÖTLEY CRÜEが1981年にインディーズ盤『Too Fast For Love』を出したんだけど、1983年に大野祥之さんの家で、メンバー全員でそれを聴いて盛り上がったんですよ。そっちがMÖTLEY CRÜEなら、「こっちは危ないヤツらだから、DANGER CRUEでどう?」って(笑)。スタッフという意味なら“CREW”が正しいスペルだけど、MÖTLEY CRÜEにならって“CRUE”なんです。そうやって決まったのが、DANGER CRUEという事務所の名前。1983年のことですね。それまでは、あやふやな名前でした。大阪の高槻市城北町にあった松竹荘の頃は。
JIMMY:そういうアパートがあってね。俺も髪の毛が派手だったから、親もうるさく言うんで、よく泊まりに行ってましたよ(笑)。
大石:でも、そのアパートは事務所じゃなくて、俺のひとつ後輩の清水の四畳半のアパートで。
──事務所代わりに間借りしていたんですか?
大石:間借りじゃなくて占領(笑)。
──さすがDANGER CRUE=危ないヤツら(笑)!
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