【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第81回「上楯城(宮城県)卓偉が行ったことある回数 1回」

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前回の前川本城を堪能したならば、この上楯城は絶対に来城しなくてはならない。この二つの城はセットである。距離も近いしセットでお楽しみいただきたい。あるのだ、まだまだすげえ城が。そして世間では全く評価されてなく、残念ながらネームバリューの低い名城がまだまだあるのだ。


この城は伊達政宗に仕えていた支倉常長の城である。彼の祖父にあたる支倉常正が1545年に築城。詳しい情報がなく、いつ廃城になったかがわからない。支倉常長は政宗公にヨーロッパに視察を命じられ、約6年間スペインを始め世界を船で渡り、その行動がいろんな国の数々の歴史に刻まれている。残念ながら帰国後には幕府がクリスチャンの禁止令を出していたこともあり、培ってきたことが何も役に立たず52歳で死去。その6年間だけを考えても物凄い人生である。そんな支倉常長が生まれ育った上楯城。現在は城の大手側の墓地に支倉常長のお墓がある。これを目当てに来られる歴史好きな観光客も多い。城もかなり整備されていて、車での来城の場合は裏の山から道路を登ると専用駐車場が作られている。これはありがたい。ここももしかしたら何かしらの曲輪、もしくは出丸だったのではと推測。だが、大手は常長さんのお墓側なのでこっちからを見学のコースにしてしまうとちょっと微妙だ。なのでどこから見学するにせよ、さほど大きい城じゃないので全部を回って見学してほしいと思う。


城の作りとしては、大手側にまず三の丸。大手側は結構な急斜面だが、ここに二重堀が作られている。時間の経過と共に土が崩れてきており、三の丸に上がる虎口らしきところは階段もなく、ちょっと登りづらい。前日が雨なら更にきついかもしれない。大手道は道幅もあり、しかも真っ直ぐに伸びている。これは安土城的でとても格好良い。三の丸に上がると、目の前の一段高い場所が本丸、本丸を正面に見て左側に歩いて行けば二の丸である。上楯城の特徴として、空堀が常に二重堀であることが言える。これは凄い。しかも深さも幅も山城とは思えないクオリティだ。だからこそ掘った分だけ土塁も高い。外側の最初の空堀からは二つ目の空堀が見えない仕組みになっていて、それを超えたら更にもう一つの空堀があるなどまずイマジン出来ない。完全に敵のやる気を無くさせるように出来ている。それほど外側の守りは頑丈だ。



三の丸から本丸を正面に見て右側へ行くと谷になっており、井戸跡も残る、細長い曲輪、現在は木が生い茂っておりわかりづらいかもしれないが、割となだらかなスペースが当時は馬場だったとされる。ここの窪みはよく見ると全て竪堀になっていることがわかる。しかもマジで長い。二本の竪堀が長く伸びているので、これも所謂二重堀なのである。堀と堀の間にスペースを作ったことで単なる曲輪かと思いきや、城全体を二重堀で囲むことに徹底していることがわかる。脱帽だ。もちろん空堀の中を家来が導線として使うことはあったにせよ、戦闘態勢となったら全ての空堀は崖に変わるということだ。凄まじい。

本丸へは三箇所の出入り口が残っており、全てが虎口になっている。本丸も山城とは思えないくらいの大きなスペースを確保。これも凄い。どういうふうに使われていたかはわからないが、本丸の奥も完全な二重堀が施されていて、しかも保存状態も良い。土塁の高さも素晴らしい。そのおかげで土塁に囲まれた本丸からは外の景色が見えない。二の丸も割と大きなスペースがあるが、この場所は奥方をはじめとする女性達が暮らしていたような雰囲気が残っている。その二の丸も外側は二重堀に囲まれている。凄い。裏の駐車場から歩いてくると、途中真っ直ぐな登り道になるが、その左側は竪堀になっている。整備されていてそれに気付かない場合がある。木が生い茂っているがよく中を覗いてみてほしい。自然に帰った二重堀が最高の保存状態で残っていることがわかる。


初めて来城した時はtvkのロケであった。我々も最初は裏の駐車場から城を攻めたわけなのだが、色々と周っているうちにこの城がいかに凄い城かがわかってくる。ジワジワ来る。こういう気持ちにさせてくれた城は初めてだ。天守こそ無いし、石垣こそ無い。だが城の縄張りはかなりのハイレベルだ。この城が攻め落とされたという情報がないので、守りがいかに頑丈だったかが伺える。

ロケを行ったのが1月ということもあり、晴れてはいたが雪も残っており日陰に入ればとにかく寒い日だった。夕方にロケを切り上げ、さあ裏の道を車で降りるかとなったが、すでに道がアホほど凍っており、スタッドレスでもブレーキが効かない。しかも割とカーブが少なく、直線で道が凍るというハプニング。対向車も全く来ない。しかも電話の電波もほぼない状態。日暮れも迫っている。天才ディレクターの菊谷さんと顔を見合わせた。が!しかし!ふと私は思い出した。ガキの頃同じように親父と兄貴と訪れた何処かの山城で、同じように帰り道が凍っていた時を。その時どうやって凍った山道を降りたかを急に思い出したのだ。

親父はまず、運転席と助手席の窓を全開にし、兄貴と私に「非常事態だ。これ以上待っても対向車は来やしない、相当下まで降りないと民家もないし助けも呼べない、やるぞ、外に降りて前のボンネットに回れ」と言った。当時は当然携帯などない。

親父は兄貴に言った。「お前はこの右側のライトらへんを押さえろ」
親父は私に言った。「お前はこの左側のライトらへんを押さえろ、お前らフェンダーミラーは触んなよ」

そして言った「このファミリアを千代の富士、もしくは小錦だと思って頑張って親父側に押せ、押しながらゆっくり足で滑ってけ、その間に父ちゃんはハンドルとブレーキとサイドブレーキを使って上手くやる、おっと!その前に、そこの砂利を靴の裏にねじ込め、擦り付けてこい、多少滑らなくなるから」

多少って何だよと思いながら、と言いつつ日暮れも迫っており、ちんたらしてられないのは我々兄弟にもわかっていた。

ここから戦いが始まる。親父はギアをニュートラルにしてサイドブレーキを甘く下ろし、運転席から我々兄弟に向かって

「右~~~!!!押さえろ~~!!!左~~~~!押さえろ~~~!!!もっと力入れねえとひき殺しちまうぞ~~~!!!気合入れろ~~~!!!」を大声でランダムに連発。山の中だけに親父の声がやまびことなり、ディレイ効果がかかりまくる。

「良いか~~?上手く滑れ!支えながら上手く滑るんだ!」

しかし、100メートルも下ると我々兄弟もコツを掴み(車好き、相撲好きの子供だったのが良かったと思う)そこから何とか時間をかけて氷のない山の麓まで降りることが出来た。しかし、たまに「小錦~~~!!!!」と叫ばれた時は兄貴と目を合わせて何と返して良いかわからなかった。反応に困るシャウトはやめてほしかった。だがふと思った。これは我々兄弟に対する信頼がないと出来ないことだと言うことを。それをやらせてくれた親父の心意気に感動した。男はどんな時も絶対にビビってはいけないということを教わった。そして男同士で協力してやるという楽しさを教えてくれた。

ってなわけで、菊谷さんにその話を伝え、私が外からボンネットとグリルを押さえ、菊谷さんが運転席からニュートラルのままハンドルとブレーキを操作。あの日と同じように極寒の中、窓を開け、お互い白い息を吐きながら

「踏んでください!右です!左です!一旦サイドブレーキ上げてもらえますか?」

というやりとりを繰り返し、300メートルを滑りながらも無事に下ることに成功。菊谷さんは本当に心配だったらしく「卓偉くん凄いね!なにその技!?」と言ってくれたが、こんなところで親父の教えが役に立つなんて。氷を噛む役割を果たしてくれたドクターマーチンを履いていたのも良かった。山城もある意味トレッキングだ。冬の時期はどんなことがあるかわからない。予期せぬトラブルに見舞われた時は冷静に対処することが大事だと思う。

「いざという時は綺麗事は捨てろ、頭だけを使っても駄目だ、力だけを使っても駄目だ、冷静になって両方を上手く使え、命が一番大事なんだ、男ならこういう時の対処法を覚えておけ」そう言われたことを思い出す。確かに世の中のすべての仕組みやコツには力加減の出し引きが物を言う。まあこれくらいのことなど支倉常長の6年間の過酷すぎる海外視察に比べたら屁の突っ張りにもならない、むしろ常長さんに笑われてまうわ。

あの日の日暮れ寸前、山の麓に到着し、さあ改めて出発だとなった時に私は言った。

「そこに落ちとるダンボールでこの道滑って遊びたいっちゃけど」

親父は眼鏡に付けたサングラスのレンズをパカっと開けて大声で言った。

「とっとと死ね!」

その声に物凄いディレイがかかっていたことは言うまでもない。

あぁ 上楯城 また訪れたい…。

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