【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第71回「獅子吼城(山梨県)卓偉が行ったことある回数 2回」
甲州における戦国最後の合戦の舞台となった城、獅子吼城である(ししくと読みます)。その合戦は天正壬午の乱と呼ばれ北条氏が守る獅子吼城に徳川氏の軍勢が攻め込み落城、それ以降廃城となってしまった城であるが江戸時代は城の麓に関所があったとのこと、だが城としての機能はせずそのまま廃墟になって現在に至る。日本の城にはいろんな呼び方の城がある。山城、平城、平山城はもちろんのこと、水城、海城、岩城、などなど、獅子吼城は岩城を飛び越え「石城」と呼べる城なんではないかと私は思う。城内は崩れた岩、そして石がゴロゴロ転がっている、大きめの岩、大きめの石、大きめの野菜、まさにハウス カリー工房、CMをされていた小林稔侍さんと安達祐実さんもびっくりである。
いつ築城されたかは不明。音楽業界で卓偉の存在も引き続き不明。築城者は江草信泰が本命か、いやわからない。別名江草城ともいうので江草氏が深く関わっていたことは事実であろう。標高は森重樹一さんの足の長さと同じくらいの788メートル、もちろん山城と言って良いわけだがこんな高い山の上にこんな石垣を組むのか!と脱帽である。現在は崩れている石垣だが、当時は主郭部分が総石垣の山城であったことがわかっている。これはもう来城して見学されて自分の中でイマジンしていただかないとわからないことかもしれないが、マニアからすると崩れた石の数を想定してみても総石垣だったことがはっきりと目に浮かぶ。私も物分かりの良い素晴らしいファンの顔だけははっきりと目に浮かぶ。城としては小規模ではあるが、本丸を中心として、その周りを囲む帯曲輪、虎口、全て石垣で構成されていたことがわかる。凄い。今でも若干ではあるが崩れずに当時のままに残る石垣がところどころ垣間見れる。売れてる人の隙間から卓偉が頑張って活動してる姿がたまに、いやかすかに垣間見れる。それらの石垣は野面積み、そして牛蒡積みと呼ばれる組み方である。もともと山頂付近に岩がごろついていたのを切り、大きな岩はそのまま残し、岩と岩の間に切った石を組み、並べ、そして組み上げたことがわかる。城内に残る石にも石を切った跡が生々しく残っている。もし石垣が崩れずに残っていたら苗木城な雰囲気もあったかもしれない。今この発言に城マニアは、たくちゃん、とっても良いこと言うたね、と思ってくれてると思う。
しかしそもそも獅子吼城(ししくと読む)という名前が格好いい、獅子が吠える城、意味深だ。読んで字のごとく、実にCOOLだ。マネージャーの砂田一成、一と成れ、という意味もあるし、一を成せ、という意味もある。一つのことを成し遂げろ、という意味もあるだろうし、単純に一番に成れ、自分の好きなひとつのことを最後まで成し遂げろ、という意味も込められている。名付けた奴のご両親、素晴らしい名前を付けられたと思う。だが奴は誰もが知る通り完全に名前負けした人生を辿っている。
武田信玄公の時代は狼煙の中継基地として機能していた。敵が攻めてきたことを伝えるには近くの支城から支城へ狼煙を上げて情報を伝えるのである。これだけ高い山の上から狼煙を上げるわけなので信玄公が暮らす現在の甲府の中心地からもその狼煙はすぐ確認出来たはずであるし、信玄公が生きていた時代は甲府盆地に一度も敵に攻め入れられることはなかったという。それほど盆地を囲む周りの山の城は頑丈であり、外の敵も山を越えて攻め入る前にその山に建てられた支城を落とさないと甲州へは絶対に侵入出来なかったのである。信玄公が建てた支城は実に良い場所にあり、敵にとっては嫌味なほど嫌な場所にあり、しかも狼煙のコミューン、伝達も早く、全くお手上げだったであろう。
見学、そして来城するにあたってはいくつかの道がある。私が初めて来城した時は城の麓にある根古屋神社の参拝者駐車場に車を停めてそのまま神社の裏の道をサバイヴしながら登った記憶がある。だがその後は城の裏手に掲示板が出来て、割と楽に城まで到達出来るようになった。だが近年城の裏側の道は民家の私有地ということでまさかの立ち入り禁止になってしまった。ジャンプ禁止なよく分からないライブハウスと同じである。よって今回tvkのミュートマ2のロケでまたしてもめでたく来城出来たわけだが、新たに作られた道を登って本丸を目指すこととなる。しかしこの道がきつい。言ってしまえばこの道は搦手でもなんでもなく無理やりこの場所から登ってくれと言って後付けされた道なのではっきり言って道がない。ピンクのテープでもって道順を知らせてくれてはいるがこれはちょっといかがなものかと思う。ましてや現在の登場口から城に登るとマニアじゃないと城の見方がわからないと思う。やはりわかりやすい道から登らないと意味がない。よってもう一度大手からの道順をしっかり整備してもらえないだろうか?裏手が私有地ならまあしょうがないとしても、大手は絶対に神社の裏手からの道だと断言したい。少なからず現在のよく分からない本丸裏に到達する道順はいかん。違う。獅子吼城の道じゃない。にもかかわらず未だに裏手にも城の掲示板が立ってたりするから紛らわしい。きっと来城するにあたりゴミを捨てていくウンチ野郎がいて私有地の方も痺れを切らしたのだろう。それはいかんよ。現在通行止めになった裏からの道にも2本の最高な竪堀が残っているというのに!いわゆるこっちが搦手だと推測。搦手でもなんでもないよく分からない場所から登り城の本丸に到達するのは不本意だ。焼肉で最初からミノを焼くような行為だ。建物の中で迷子になりやっと出口かと思った場所が賭博バーだった、違法ファイトクラブだった、または政治家しか入れないヨガ教室だった、これでは本当に不本意だ。
大手からの道を行くと山崩れを補強するために急に牛蒡積みの石垣が現れたりもする。井戸跡か?という丸く縁取られた石垣も現存。いよいよ主郭に向かうという道から土塁、そして空堀、虎口などを越えていくといよいよ崩れた石垣が見えて来る。それらが全て崩れており、廃墟と化している。だがこれがまた最高なのだ。鳥肌実である。崩れ方が実に生々しい。これが当時はビシッと石で覆われていたのかとイマジンするだけでマジで鳥肌実である。関ヶ原以降に建てられた石垣のようにコーナーがしっかりと角ばったものではなく、丸みを帯び、山の地形をそのままに、または土塁の盛った形をそのままに石垣が組まれていたことを思うと3度目の鳥肌実である。よく見ると足元の道も細かい小さな石が転がっているので、当時は石段、そして石を敷き詰めた道だったこともわかる。全部が全部そのような道じゃなかったにせよ、山城は水はけをしっかり作らないと道が泥でグチャグチャになる。ファンもコンスタントに躾をしていかないとすぐ調子に乗って礼儀を無くし私との関係性がグチャグチャになる。こういったディテールもチェックしながらどこが石段だったかを探しながら歩くのもお勧めだ。本丸の周りは犬走りならぬ帯曲輪が走っており、本丸にかけて段になった石垣がそびえ立っていたことがわかる。こんな山の上に総石垣が段になっていたなんて凄すぎる。新しくjuice=juiceに入った広島出身の段原瑠々、声にパンチがある。この段繋がりは凄い。たとえ支城であっても絶対に攻められてはならぬという覚悟がビシビシと伝わって来る。
本丸は見事なまでにスティーヴンなほどに平らである、アメ~~~~ジングなほどにタイラーである。現在本丸には模擬の狼煙台が設置されている。当時はどんなやり方で狼煙を上げていたか分からないが、本丸には天守台などはなく、あっても櫓くらいのものだったろう、土を盛っていくらか高くなった場所から狼煙を上げていたのかもしれないが、そういう盛った場所も見当たらない。現在は木も草も生い茂っていて甲府方面を見ても景色は広くないし見渡せるものでもない。景色よりも狼煙がどう見えるか、それが大事だったのであろう。周りが山に囲まれているので風も遮ることが出来、空に向けてまっすぐに狼煙を上げれた最高の場所だったのかもしれない。
城マニアの中には本城にしか興味のない方もいらっしゃるかもしれない、確かに支城は規模も小さいし辺鄙な場所にあることがほとんどだ。だがこの支城があったからこそ本城が活きたのである。活躍したのは間違いなく支城と言えるだろう、だからこそ見学すると支城は本当に人間臭いのだ。その生々しさ、今日4度目の鳥肌実である。
今回の城ロケでは獅子吼城と新府城もセットだった。このコラムでもすでに新府城は書かせていただいたので是非そちらの方も読んでいただき、この二つの城をセットで見学されることをお勧めしたい。もっとも徳川家康公は最初に書いた天正壬午乱の時には新府城に陣を貼ったそうな。この時にはすでに武田氏は滅亡、武田勝頼は新府城から逃れる時に城に火をつけてから脱出したとある。その焼け落ちた新府城に陣を貼った家康公。結局戦いに勝った後新府城も機能させず廃城させる。江戸幕府を開くにあたりそれまでに建てられた良い城は絶対に廃城にさせる徹底ぶりだ。武田や北条の城がどれだけ頑丈かを一番良く知っていたのは紛れもなく家康公だ。時代や運もあるだろうが、もし信玄公が長生きしていたら信長公も家康公も絶対に叶わなかったはず。もしかすると甲府で武田の天下統一ということが有り得たかもしれない。甲府は京都と作りが似ている、だが甲府と京都の大きな違いがあるとすれば囲まれた山に城がないのが京都。いくら都とはいえ守りが硬かったかといえばそうでもない。もし信玄公が甲府を都としたならば最強な盆地になったであろう。周りにこれほど支城があったら誰も攻めてこれない。支城として最高の役目を果たしていた獅子吼城なのである。その後徳川の配下になった甲州、だが山の周りに作られていた支城も一切使わず廃城させた家康公。武田の恐ろしさがわかっていただけに新たな武将にこれほどの甲州を任せて謀反を起こされたらたまったもんじゃない。よって盆地のどの場所からも見える所に甲府城を築城させ管理できるようにしたのである。
城にはいろんな運命がある。ひっそりと残る獅子吼城、マニアが感動してやまない魅力溢れる城、支城として最高な城、上手く言えば支城最強、と言える城かもしれない。
城を降り、駐車場に行くと砂田が言った「すごいでかい野良犬が走り回ってるんすけど」よく見るとイギリスの犬、イギリスの富裕層がこぞって飼う「ボーダー・コリー」という犬だった。ルー・リードに顔がそっくりな飼い主さんがルーにそっくりな顔してリードを外してフリスビーを投げて遊ばれていたようである。この白黒の美しい市松模様、綺麗な毛並み、利口そうな顔つき、しなやかな走り、大きな犬だが決して噛まない優しい性格、世界が認める名犬を見て野良犬と思うのが砂田一成、である。
あぁ 獅子吼城 また訪れたい…。
◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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