【音楽ギョーカイ片隅コラム】Vo.64 「ボウイ逝去から1年」
新年となって早3週間が経過し、正月気分はとおに抜けた土曜の昼下がり。雪がちらりと舞った昨日の寒さから一変した陽だまる穏やかなお天気は、外遊びをしてへとへとになった幼い息子をすやすや眠らせ、今年一発目となるコラムを私に書かせてくれています。
それにしても、重い。それは正月太りでも、最近落ち込むような出来事があったわけでもないのですが、なんだかとっても体が重く感じるのです。実際、数値的に重い体ではありますが、例年であれば新年を迎えることで心機一転できていたものが今年は頭もまだ覚醒できておらず、モヤッとした感覚が続いています。
気分が晴れないのはなぜだかわからないまま、年明けから20日が過ぎた昨日、片づけ中に手に取ったボウイ展のフライヤーをまじまじと見つめ、気がつきました。スッキリしないのは、おそらく新年の幕開け早々から愛するデヴィッド・ボウイに関するニュースが延々と続くのを目、耳にしていたことやボウイの展示会に参加したことなどで彷彿させられたボウイの死のせいだろうと。
ボウイが星となって1年、さらには生誕70年という年ですから、彼のニュースで溢れる現象は当然の流れでしょう。しかし、ひっそりと想いを巡らせて偲びたいと思っていたファン心を持つ私には、まるで“1年間待っていました”と言わんばかりに放出された良し悪しごちゃ混ぜの膨大に押し寄せてくるニュースの波にのまれ、私の体はすっかりまいってしまったようです。
さらにダメ押しで自ら足を運んだ「David Bowie is」。もともとこの展示会は2013年にロンドンのV&Aで開催されたもので、当時行きたいと思いながら実現できなかったものでしたから、日本に来ると知った時には大変嬉しく感じていました。しかし、ボウイの直筆の歌詞や楽譜、衣裳や映像を至近距離で目にできる喜びだけを感じられたはずのボウイ存命中の観覧であれば良かったのですが、逝去から1年という絶妙なタイミングのせいで、それらの貴重なモノやボウイそのものが、二度と観ることのできない過去の世界のモノや住人として飾られているような気がしてしまい、心が追いつかない私はそれらを懐かしむような気持ちには到底なれず、自分の内にあるボウイの存在の大きさと死の意味を痛感して観覧を終えました。
ファン心理とは、複雑で、繊細で、難しいものですよね。でも、そういった自分の深いところにある感情に気づかせてくれた展示会に感謝しています。
ところで。私が「David Bowie is」のカフェでお茶をしていた頃、同展示会場にはお仕事仲間のTさんも偶然お出ででした。その夜、Tさんがご自身のSNSに投稿した写真に目を見張りました。なんとそれは、44年前のジギー時代のボウイ、プライベート写真!
「写真は実家にあった父親とデヴィッドの写真です。1973年の日本での公演を終えてウラジオストクからイギリスに向かう途中での一枚らしいですが、羨ましい話です」
当時、ボウイとは知らずにボウイから話しかけられて撮ったというTさんのお父様のお宝写真の中のボウイは、一見してボウイと分かる出で立ちでした。
皆さんのご実家にもお宝が眠っているかもしれません。隈無く探しましょう。
◆早乙女“ドラミ”ゆうこの【音楽ギョーカイ片隅コラム】
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