【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~ミュージシャン編 Vol.1】音楽へのめざめ

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若い音楽ファンの中では、その名はすでに生ける伝説のように語られているかもしれない。ミュージシャンとして、プロデューサーとして、40年近くにわたり日本のロック/ポップ・シーンに大きな足跡を残し続けてきた男──佐久間正英。70年代には四人囃子、そしてプラスチックスのメンバーとして革命的な音楽を作り続け、80年代にはBOΦWY、90年代にはJUDY&MARYやGLAYなど、数多くのアーティストを導くようにしてスターダムへ押し上げた。テクニックに優れたマルチ・プレイヤーであり、類稀な作曲家であり、コンピューター・ミュージックの草分けであり、「プロデューサー」というイメージそのものを作り上げた一人でもある、その業績をすべて検証するためには、おそらく何冊もの分厚い本が必要になるだろう。

しかし彼は決して、歴史上の人物ではない。いやむしろ2000年代以降はより先鋭的に、音楽家・佐久間正英の核心を見せつけるような活発な活動を続けている。近年はミュージシャンとしての活動を増やし、若いメンバーと刺激的な音のバトルを聴かせるunsuspected monogramや、早川義夫とのユニット・Ces Chiensなど、いくつかのプロジェクトを同時進行させながら、自身のHPで約3年間にわたり毎晩即興演奏をアップするなど(*現在は終了)、リスナーと親密につながる音楽活動を行ってきた。同時に発信されてきたブログの文章も、時に音楽ビジネスの行方を憂い、時に音楽の持つ永遠の力を讃えながら、示唆に富むメッセージを送り出してきたことは、ご存知の方も少なくないはずだ。

今こそ、音楽家・佐久間正英の長く多岐にわたる、冒険と喜びに満ちた足跡を若いリスナーに示すべき時ではないか?と、BARKSは考える。この特集では彼の仕事を「ミュージシャン編」「プロデューサー編」に分け、それぞれ5回にわたるロング・インタビューとしてお届けする予定だ。それは回顧録ではなく、「未来へのヒントは常に過去にある」という、いつの世も変わらぬテーゼを証明するものになるだろう。端正な語り口の中に潜む、豊かなリズムとメロディのような佐久間正英の音楽人生の深みを、最後までゆっくりと楽しんでほしい。

構成・文●宮本英夫

【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~ミュージシャン編 Vol.1】音楽へのめざめ

母親が日本舞踊と三味線の師匠という家庭環境の中、自然に音楽になじんでいた佐久間正英は、小学校1年生で譜面を読み、ピアノを弾かせれば1か月でバイエル2冊を終えるという早熟の音楽少年だった。中学校でトランペットとギター、高校時代にはバンドでコンテスト荒らしの異名を取り、大学へ進学後はフォークロック・グループからプログレ系キーボード・トリオへと目まぐるしく音楽的変貌をとげながら、着々とプロフェッショナルへの道を歩み始める──。

●「僕のルーツは50’s~60’sのアメリカン・ポップスなんです」●

──本格的にミュージシャンになることを意識したのは、中学校1年生だったそうですね。

佐久間正英(以下、佐久間):吹奏楽部に入って、トランペットを始めたのがきっかけでした。本当はサックスがやりたかったんだけど、ひとつ上の兄が同じ吹奏楽部でサックスを吹いていて、中2の時にすでにものすごくうまかったんですよ。兄貴は音楽的には僕よりはるかに器用で、ギターもうまくて、今でも逆立ちしてもかなわないんだけど、唯一できなかったのがトランペットだったから、「これしかない!」と思ってトランペットに行っちゃった(笑)。その中学校は吹奏楽がとても優秀で、先生もいい方で、芸大を目指したりヨーロッパのオーケストラを目指したりする先輩がたくさんいて、すごくいい刺激を受けました。そこでクラシックの勉強をやりつつ、同時にエレキギターで全然別の種類の音楽をやり始めるわけです。

──佐久間さんが中学校に入った1964年というと、ビートルズがアメリカと日本でデビューした年です。


▲シェリー・フェブレー
佐久間:ビートルズは知ってたけど、僕はもっぱらエレキ・インスト。同じクラスに、学級委員で勉強もスポーツもできる人気者というイヤな奴がいたんだけど(笑)、そいつに誘われて二人でジャム・セッションをやったら、これが面白くて。「よし、バンドやろう!」ということで、ドラムとベースを探して始めたのが最初です。わりと最初の頃からオリジナルを作ってたんですけど、僕の好きな音楽って、たぶん50’s~60’sのアメリカン・ポップスの影響が一番大きいんですよ。僕の叔父がビクターの洋楽部にいて、いいレコードがあると持って来て聴かせてくれたのと、姉がアメリカン・ポップスのリクエスト番組が好きでよくラジオをかけていたので、よく聴いてたんですね。はっきりと記憶にあるのは、小学校5~6年の頃にテレビで「うちのママは世界一」というドラマをやっていて、娘役のシェリー・フェブレーが歌う「ジョニー・エンジェル」にものすごいショックを受けた。それからシェリー・フェブレーのレコードを手に入れて、聴きまくって、「自分はなぜこれをいいと思うんだろう?」ということを研究して。のちに自分がアレンジャーになった時に、ストリングスのアレンジがいつのまにかできちゃったりしたのも、その時代に聴いたものがすごく影響してると思います。

──高校ではトランペットの勉強とエレキギターのバンド活動と、どっちを重視してたんですか?


▲13歳のときに結成したThe Specters
佐久間:中学の頃は芸高から芸大を真面目に目指していて、トランペットで行ける自信はあったんだけど、入試の半年前にピアノが必修だということを知って「駄目だこりゃ」と(笑)。私立の音楽付属高はとんでもなく学費が高いし、じゃあ都立高校でいいやということで地元の杉並高校に行くんですけど、そこが吹奏楽がイマイチだったんで、トランペットはそこで終わり。もうクラシックに興味が薄れていたし、そこからどんどんロックに向かってしまった。

──時代が良かったということも言えそうですね。60年代はロックが非常に刺激的な時代でしたし。


▲ジャックス
佐久間:そう。僕が本当にラッキーだったと思うのは、ロックの歴史と共に生きられたこと。プレスリーから聴き始めて、ビートルズやストーンズが紹介されて、めまぐるしいスピードでどんどん変わっていく。やがてニューロックと呼ばれるものが出てきて、ヴァニラ・ファッジ、ジミヘン、そして決定打のレッド・ツェッペリン。高校2年の時に初めて買ったレコードがジョニー・ウィンターとツェッペリンのファースト。そして、日本ではジャックスです。たまたまコンサートを見に行って、「これは何なんだろう?」と思って、あんな衝撃は受けたことなかった。そこで初めて日本の音楽に接してしまったので、こんな人間になっちゃったわけです(笑)。レッド・ツェッペリンとジャックスですね、その頃の僕に大きな衝撃を与えたのは。

●「できることは何でもやったほうがいい。やったことは決して無駄にはならない」●

──そのあと、大学に入ってから組んだフォークロック系のグループでプロデビュー寸前まで行くんですよね。

佐久間:まず、のちに一緒に四人囃子に入る茂木由多加と高校の時に出会うわけです。彼は隣の西高のバンドで、そこにはのちにMythTouch(ミスタッチ)の初代ドラムになる宇都宮カズもいた。僕らのバンドとそのバンドと、地元の武蔵野公会堂というところを借りてコンサートをやった時に、彼らがドアーズの「ライト・マイ・ファイヤー」を演奏したんだけど、忘れもしない、茂木がキーボード・ソロを13分やったんですよ! ものすごい演奏で、なんて奴がいるんだ!と思って、初対面ですぐに仲良くなった。それから僕と茂木が大学に行って、山下幸子さんというすごく歌のうまい人と出会って、3人で「ノアの箱船」というフォークグループを始めるんです。しばらくやって一旦解散するんだけど、その3人にドラムとベースを入れて「万華鏡」というグループでまた始めて。あるコンテストで準優勝したのをきっかけに、当時の六文銭と吉田拓郎と同じ事務所に誘われた。何回か一緒にライヴをやって、中津川フォークジャンボリーにもバスで一緒に行ったりしましたね。順調に行けばそのままデビューという感じだったんだけど、忘れもしない、神奈川県民ホールで六文銭と吉田拓郎と3バンドのコンサートがあって、僕らがトップだったんだけど、六文銭が僕のギターアンプを貸してくれというので貸したら、リハーサルが終わって本番になったらギターアンプが壊れて音が出なかった。だから「できません」と言ったんです。もう緞帳が上がるところで、開演直前ですよ。もちろん事務所は怒って、ギターなしでもやれというんだけど、それはできないと言ってもめて、元柔道部だったドラムの奴が楽屋でマネージャーを投げ飛ばして、そこですべて終わり(笑)。それから茂木くんともしばらく会わなくなって、彼は確かキングレコードからソロ・デビューしたのかな? ちなみに当時の茂木くんのマネージャーが、あの時投げ飛ばした相手だったんだけど、どうやって和解したのかはよく知らない(笑)。僕もその人とは、その後いろいろ仕事をしてるんですけどね。まぁ、若気の至りという時期ですね。

──その次のバンドがキーボード・トリオのMythTouch(ミスタッチ)ですか。

▲MythTouch

佐久間:そう。しばらくたって、日比谷野音にフリーコンサートをふらっと見に行った時に、茂木くんがキーボード・トリオで出てたんですね。ナイスの「ロンド'69」とかをやってて、そこで久々に会って、僕も当時EL&Pが好きだったから一緒にやろうということになった。ドラムは宇都宮カズで、カズがロンドンに行ったあとに万華鏡で一緒だった高橋くんに入ってもらって。そのバンドをやるために僕はベースを始めたんです。

──ベーシスト・佐久間正英のキャリアはそこからなんですね。

佐久間:そうです。MythTouchをやってたのは2年ぐらいだと思うんだけど、面白かったですね。グレッグ・レイクをやれということで、ベースをやって歌をうたうはめになった(笑)。大変だけど面白かったです。

──次のバンド、四人囃子から佐久間さんのプロとしてのキャリアがスタートということになると思うんですが、ここまでのアマチュア期を振り返るとどんな思いがありますか。

佐久間:いろいろやったのは良かったと思います。あと、芸大に行けないとわかった時点で音楽の見方が逆に広がったのも良かったですね。高校から大学に進む時にも芸大を視野に入れて、母親の関係で芸大の邦楽部に行こうかと思ってたんですよ。芸大を卒業したあと、ミュージシャンになった自分を想像して、着物を着て三味線を持って毎日歌舞伎座に通うのもカッコいいと思ってた(笑)。そのカッコ良さにはかなり惹かれたんだけど、そっちの道は修行が厳しそうだし、もっとデタラメな面白いことをやりたい気持ちがあったので、芸大はあきらめました。まぁ三味線弾きになっていたとしても、ヘンなことをやっていたとは思いますけどね(笑)。

──これからミュージシャンになりたい若い子たちには、「いろいろやったほうがいいよ」と薦めますか?

佐久間:そうですね。できることは何でもやったほうがいいと思います。音楽に限らず、やったことは決して無駄にはならないですから。

連載第二回は、【PART2「四人囃子に参加、そしてプロ・デビューへ」】を後日お届けする。1975年、23歳の佐久間正英は、日本のプログレ・バンドの最高峰の地位をすでに確立していた四人囃子に加入する。プログレからフュージョンへという時代の流れの中でいくつもの傑作を生み出したが、自身はクラフトワークなどの電子音楽、セックス・ピストルズらのパンクに大きな刺激を受け、その音楽思想はさらに先鋭化。やがて四人囃子は解体し、彼は世界的なニューウェーヴの波の真っ只中へと飛び込んでゆく──。

◆masahidesakuma.net
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