| デトロイトは古くから人種間の摩擦がひどい街だった。自動車産業において安い賃金で労力を得るために南部から多くの黒人を迎え入れ、それまで仕事をしていた白人の多くが職を失なってしまったのが事の発端だとされている。 その軋轢が爆発したのが'67年、全米史上最大とも言われ、数千人とも言われる死者を出した暴動だ。その爪跡は、今でもデトロイト市街に残っており、朽ち果てた民家や商店が取り壊されることなく建ち並ぶなど、異様な雰囲気を醸している。そして白人のほとんどは郊外に移り住むようになり、"ゴーストタウン"という表現がこれ以上似合う街もないくらい閑散としている。私は実際に一度現地を訪れたことがあるが、街の怪しさとその空虚さは、今まで体験したことのない異様な雰囲気であった。 しかし、そんな街でも音楽に関しては常に豊かな才能に恵まれていた。'70年代からモータウン、ファンカデリックなどが多くの素晴らしい楽曲をデトロイトから生み出している。この街にソウルが宿っているのか、それともこの街がソウルを剥き出しにさせるのか…、それは私にはわからない。しかし、この土壌に育まれるアーティスト達が今日に至るまで後を絶たないのは紛れもない事実である。 '80年代後半にホアン・アトキンス、デリック・メイが、それぞれMetroplex、Transmatという未来的な名前のレーベルを立ち上げ、そこからテクノロジーを駆使したフューチャー・ファンクとでも呼ぶべき音楽を発表し始めた時、デトロイトの歴史に新しい1ページが書き加えられたのだ。それがデトロイト・テクノの誕生である。 それはデトロイトの地下シーンで生まれ、地元のほとんどの人でさえ、その存在に気づくことはなかった。しかし、セカンド・サマー・オブ・ラヴと呼ばれ、レイヴカルチャーが花開いた'88年の夏、デリック・メイの「Strings Of Life」がたくさんのDJ達によってプレイされた。そのサウンドはメランコリーに満ちていながらも、一縷の希望を感じさせ、ギリギリの状況の中からポジティヴを追求した結果生まれたビートは、フロアの観客を一瞬の隙も与えず躍らせた。 そんなデトロイト・テクノは、フロアを通し、世界中で多くの人々を魅了し広まっていった。アメリカ本国ではそれほどでもなかったが、ヨーロッパ、そして日本では爆発的な影響力を発揮し、4Hero、ローラン・ガルニエ、ケン・イシイなど、数多くのアーティストがデトロイト・テクノの影響を受け、現在活躍している。 もちろん、その音楽の生誕地デトロイトでも、ムーディマン、セオ・パリッシュ、リクルース、カオスなどたくさんの若い世代のアーティストにその遺伝子は受け継がれている。誰の真似もせず、メジャーに頼らずとも音楽活動を続けていく独自性を確立したスタイル。彼らはそういったやり方で世界を股にかけ、宇宙にも飛び出さんばかりの勢いで精力的にツアーを続けているのだ。 更に、2001年から始まった<デトロイト・エレクトロニック・ミュージック・フェスティバル>(DEMF)は、3日間で約150万人の人が集まり(それは2年連続で続いている)、地元の経済復興へも貢献し始めた。それは瀕死の自動車産業、デトロイト市当局がとったその場しのぎカジノ政策よりも、より健康的にデトロイトを活性化しつつあるのだ。 そんな多くの人々を魅了したデトロイト・テクノは、未来へと向かうために、今なお加速しながら進化し続けている。 <RIP グーちゃん> | |