【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第88回「小谷城(滋賀県)卓偉が行ったことある回数 2回」

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滋賀県は戦国時代にたくさんの戦が行われた場所。よってたくさんの城跡が残る。前回の玄蕃尾城とセットで見て欲しいのが小谷城である。椎名慶治と来たら永谷喬夫さんがセットのように。永谷喬夫さんと来たら椎名慶治が絶対に出て来なくてはならないような、そういうSURFACEセットである。いや慶治は何もしなくても出て来ると思う。私のツイッターにもすぐ絡んで来る。そもそもなんで慶治だけ呼び捨てやねん。パイセンすみません。ワォ。

滋賀県には至近距離に名城がたくさん残っている。それくらいこの地を治めたかっただろうし、何より京都に近い滋賀県だ。都の近くに自分の城を構え、城下町を整備するってのがステイタスだったはずである。


築城は1523年頃、浅井家三代の居城である。戦国時代の歴史に名を刻む浅井長政が自害した城でもあるわけだ。ちなみに「あさい」ではなく「あざい」である。私は福岡県出身だが、親父が東京の人間なので読み方は「なかじま」であるが、九州は濁点が付かないことが多く「なかしま」とよく呼ばれていた。あざい、なかじま、である。しくよろ。前にも言うたわ。まずこの城を語る上で登山がキツイ。これ最初に言っておきたい。ワキガと夏場の密室もキツイ。これは夏前に言っておきたい。

よくもまあこれほどの山に築城したものである。約500メートルの山に縦長に曲輪を配置、しっかり山の上で生活していたわけだ。すげえな浅井家。小谷城が凄いのはUの字になった近隣の山全部に曲輪を配置し、出丸、山崎丸、福寿丸、大獄城、月所丸、小谷城までを繋げ、真ん中の谷、清水谷にお屋敷を建て、それを城が囲んでいるという縄張りになっている。戦の場合はこの曲輪が全て連結して戦いに備えるということだ。信長公も攻め落とすのに3年もかかったとんでもない城なのである。見学は現在の小谷城と言われる部分で十分だと思う。今は番所の近くまで車で登れるようになっているのでそこからの見学をお勧めしたい。麓からは完全な罰ゲームである。

元は大獄城が小谷城の最初の本丸だったとのこと。そこから増築して現在の形、縄張りになった。信長公に攻められなければもっと増築をして行き更に大きな城になっていたとも言える。戦国時代に建てられた城は全て完成された城ではないというのが面白い。全ての城が未完成の状態にあったと言っても過言ではないのだ。1600年以降徳川幕府の時代は城を整備するにも許可が必要だったわけだが、この時代はまだ誰も天下を取っていないのでどんな武将も好きなだけ築城もすれば、増築もするし、城下町だって整備する。この自由な感じがたまらない。

小谷城は山城にも関わらず石垣を用いて作られていることも素晴らしい。初めて来城した時から30年近く経ち、久しぶりに訪れた小谷城は石垣が崩れまくっていた。自分が想像した以上の崩れ具合にちょっと切なさを覚えた。吉川晃司的に言うとせつなさを殺せなかった。サビの繰り返しで言うと愛しさを殺せなかった。昔の城の本に載っていた写真と現在の小谷城の石垣の具合は随分と違う印象を受けると思うが、これはもういたしかたない。私も兄貴が持っていた分厚い城の本の印象が強く(80年代版)そこに載っていた写真が焼き付いている。保存していくにも整備していくにも大変なのが歴史的建造物であることを思い知らされる。


織田信長が浅井家を滅ぼした後、小谷城には羽柴秀吉が3年ほど暮らしたらしいが、長浜城完成を機にそれ以降は廃城となり現在に至る。そう考えたらよく残っている方かもしれない。発掘調査でわかったことらしいが、攻められた城主が降参し、城が滅ぼされた状態であっても全部焼失した形跡はないとされる。戦に負ける=城も焼き払われるというイメージがあるが毎回そうでもないとのこと。だからこそ羽柴秀吉もその後にこの城に住んだわけだ。

険しい山城なので生活しにくいかと思うのだが、意外や意外、ある程度登った番所跡の曲輪まで行くと、そこからは割と全ての曲輪の連結が近く、井戸もたくさんあり、実は生活しやすかったのでは?そんなこともイマジン出来る。縦に配置された曲輪を登り降りすればいいだけなので、その距離も大したほどでもなく、どの曲輪からも眺めも良い。縦長とはいえスペースが狭いわけではなく、山城であっても生活のことを考えて作られた感が素晴らしい。馬洗いの池など水の確保が良く出来ていることが伺える。


見所としてはやはり石垣だと断言したい。これが近年崩れてしまっているのでなんとも寂しいのだが、まずは黒金門の石段、そして石垣だろう。現在は大きな石が転がってしまっているのでイマジンが難しいかもしれない。本丸を守る門として大きな石で作られたことがわかる。これが私が子供の時はもうちょい石垣が組まれていた。大広間の奥に本丸が見えるがその土台も石垣が組まれているのがわかる。これも日に日に崩れ高さが低くなって来ている。当時の本丸は総石垣で固められていたそうな。確かにいろんな場所に石がゴロゴロ転がっているので崩れ落ちてしまっているのだろう。


本丸の裏は物凄い幅の堀切がある。反復横跳びは出来そうにない。その下に段になった曲輪があり、赤尾屋敷という場所で浅井長政は自決したとされる。この辺りはちょっと暗い雰囲気が漂っている。堀切の後ろ側こそが小谷城の注目すべきところだ。中丸、京極丸、小丸、山王丸とどんどん高くなっていく。本丸よりも高くなっていくのが面白い。山王丸も相当な数の石垣が崩れておりちょっと危険だが、この場所にまで石垣が組まれていたのかと思うと鳥肌が立つ。石の大きさもとにかくでかい。山の上に石垣を組むにあたり、小さな石垣を組むならまだしもこれほどの大きな石を組むのは本当に大変なことだったとされる。中島卓偉がこの浮き沈みの激しい音楽業界で20年サバイヴしてきたのと同じくらい大変だったとされる。石が崩れすぎて、山王丸の門の入り口が虎口だったのかどうかがわからないが、櫓門ぐらいはあったんじゃないかとイマジン。絶対に見学して欲しいのはこの山王丸の門を正面に、右手に歩いていくとこれまた凄い石垣が残っている。ここだけはいつまでも崩れないでほしいなあと思うが、それでもやっぱり日々石は崩れてきているのがわかる。城のサイドから攻められてはならないという想いがこの石垣を作らせている気がする。ひっそりと残っているこの高石垣、浅井家の最期を思うと何だかとても切ない。


もっとも山の両サイドをよく見てみると竪堀がいくつも落ちているが、これはマニアではないと確認は出来ないレベルである。どうしても本丸までで見学を終えてしまうケースが多いようだが、是非本丸裏の堀切から山王丸まで見学してほしいと思う。土塁も素晴らしいし、仕切り土塁になった構造も見られる。本丸裏の堀切をあれほどの幅に掘ってしまったがために、城内を攻められた時に連結が行き届かなかったともされる。浅井長政の最期は本丸の裏の堀切まで敵に囲まれ、正面は黒金門の外まで囲まれた状態だったという。山城は山の中の工夫は施されていても、山の麓に堀がないので簡単に登って来られてしまうという弱さがある。その単純さに気付いて、城の作りも山城から平山城、そして平城になっていくのである。


この時代のトピックとして、浅井長政と妻のお市の方の話は鉄板だ。お市の方は信長公の妹で、とんでもなく美人だったとのこと。政略結婚だったが長政とお市はとても仲が良かったとされる。戦国時代は誰の味方で誰を裏切るで大変な毎日。同盟を結んでいたはずの織田家と浅井家だったが、織田信長は天下統一の為に浅井長政を攻撃。長政はお市と三人の娘を織田に引き渡す。最期は城内にて自害。この三姉妹こそ後に超有名人になる。長女は茶々。淀君。後の秀吉の側室で秀頼を生む。次女は初。京極家の正室。三女の江は、後の二代将軍徳川秀忠の正室になる。凄い血である。城周辺の街も浅井家というより、お市、そして三姉妹のネームバリュー、宣伝が凄い。銅像も多い。前回でもお伝えした通り、お市の方はその後柴田勝家と再婚。最期は勝家と共に自害しているが、この時も三姉妹は死を免れ秀吉に引き取られている。浅井家が滅びようともこれほどまでに娘たちが有名になり活躍した戦国時代。感慨深い。


なのだが、ここで歴史上の裏側の、そんな話すんなや、的な話題を書いてみたい。

まず、浅井長政とお市の子とされる三姉妹だが、実は茶々だけはお市の連れ子だったという説。だからこそ初が最初の子供なので名前を初と付けたという。しかも茶々は信長の子説?そんな話すんなや。柴田勝家と自害したお市であったが、三姉妹と同じように秀吉に引き取られても良かったが、秀吉の側室になるのだけは絶対に嫌で娘だけを引き渡したという。そんな話すんなや。淀君となった茶々、秀吉の側室となり秀頼を生むが、これが実は石田三成の子供だったという説。秀吉は絶大な運気を持っていたが子には恵まれなかった。いろいろあって、とにかくいろいろあって、秀頼が生まれたが、その顔が三成そっくりでどうすんだよ?ってなった。そんな話すんなや。ビートルズもデビュー前にピート・ベストというイケメンのドラマーがいたが、ジョン、ポール、ジョージがこれじゃ俺たちモテないぞってことで首にしてリンゴ・スターを入れた。そんな話すんなや。いや、これまじでリアルでして。

歴史はロマン、バンドはバランスである。

あぁ 小谷城 また訪れたい…。

◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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