【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第53回「玖島城(長崎県)卓偉が行ったことある回数 3回」
ある日事務所の社長が私に言った。
社長「卓偉って城マニアなんだって?僕のさ、嫁のさ、実家はさ、長崎の大村ってとこにあるんだけど、大村藩の末裔なのよ、ハハハ~。大村城知ってるか?」
私「大村城?」
社長「そうそう!櫓も再建されててさ、石垣もしっかりしてて、小さいけどいい城なのよ、ハハハ~。ちょっとネットなんかで見てみて」
私「櫓が復元?わかりました」
早速調べると大村城はガキの頃に行ったことがある玖島城と一致した。だが私が初めて見学した80年代半ばにはまだ板敷櫓は再建されてはなく、ネットで現在の玖島城の画像を見ても記憶と呼び方があいまってこんがらがってしまったが、玖島城と呼ぶのが本来の呼び方である。城の本などには大村城と記載されていることが多いが地元の人は皆玖島城と呼ぶ。幕末になり最後の大村藩主、大村純煕が大村知事に就任し、城を明け渡すにあたり本丸に大村神社が建てられ、この場所一帯を大村公園と呼ぶようになったことで玖島城より大村城と呼ばれることが増えたのかもしれない。
築城は1599年。大村善前から始まり12代、270年間大村藩の居城であった。この城を現在の形に大改修したのは2代藩主、大村純頼である。日本には沢山の海城がある。海城とは主に海に突き出た場所に城を築くことを言うが、海水を利用して堀を作った城も海城と言えるだろう。香川県の高松城、静岡県の長浜城、同じく長崎県平戸城、山口県の萩城もそう言えると思う。その他にも沢山の素晴らしい海城があるがこの玖島城も海城としての最高なセンスを醸し出した城である。
現在は本丸を囲む部分と大手側に打ち込みハギをはじめとする綺麗な石垣が残っている。平成になり石垣の修復も行われより綺麗に組まれているのがわかる。高さもかなりある。海側にも石垣が残っているがこの辺りは野面積みだ。改修していった時代により、石垣の積み方が変わっているのがわかる。もっとも最初は城の搦手側(市役所側、ボートレース場側)が大手だったのだが、純頼の時代に現在の場所が大手となる。よって大手側の石垣が高さも含め守りを頑丈に建てられたことがわかる。大改修するにあたって築城の名手、加藤清正公の伝授があったとのこと。まずのこの大手だが、馬場が2本ある。これは「二重馬場」といい内側が人道、外側が馬、荷車の専用とされていた。それを堀で区切ることにより2本の馬場が出来、守りも固くなるという仕組みだ。ここを抜けると右側に大手門となるわけだが、先に城の海側に着目したい。この海は遠浅になるので満潮になっても深さがない。よってこの海の先の海底に堀が掘られているそうな。凄まじいセンスである。よって遠浅になると掘ってある部分だけに海水が残り、船で攻めて来た敵は船を降りても陸に上がってこれない仕組みになっているのだ。これ脱帽。こんな仕組みが施されてるのは日本で玖島城だけである。普段はまったく見ることの出来ない堀が海底に潜んでいるという。素晴らし過ぎる。まさに誰も知らない堀、まさに誰も知らないデビュー18年目のパンクロッカー中島卓偉と同じである。
そしてその横にあるのが「御船蔵跡」である。これはここで船を作った場所とされるが、3つの船場があるので船着き場としても機能していた。全部が石垣で組まれており、しかも崩れることもなく今日までしっかりと残っている。もっとも大村湾は陸に囲まれているのでよっぽどのことが無い限り海が時化ることはなく、それがこの保存状態に繋がったと言えるかもしれない。よく見ると突き出た波止場の周りを縁取るようにして柱の敷石の跡もあるので船着き場として屋根も設けられていたことがわかる。こういう船蔵がこれだけリアルに残っているのも日本で玖島城だけである。
大手門に戻ろう。大手門を潜るとまず右手に石で覆われた埋門が見える。穴門跡となっているがこの上には当時多門櫓が建てられていた。横に櫓に入る為の結構な斜面の石段が作られている。大手門の内側にすぐこんな門が作られているということはいざという時の逃げ道にもなり、横からの敵を絶対に通させない徹底した守りになっている。大手門の左側の石段の上には「梅ヶ枝荘」という料亭がある。この上も当時は多門櫓が繋がっていた。よって大手門を正面に見てこの一郭の端から端まで渡れるL字の多門櫓で囲まれていたことがわかる。ちなみにこの梅ヶ枝荘が我が事務所の蔭山社長の奥様の実家である。大村藩の末裔である奥様の実家はこの多門櫓跡の上にあり、この建物は明治初期に建てられ大村寿司の発祥の店として今日までやって来られた。いわゆる大村寿司の元祖の店である。末裔ということで大政奉還の後、大村公園になった城跡の敷地内に店を出すことが許されたということ、いや、末裔なら誰も文句は言わない。羨まし過ぎる。いや、玖島城を観光させてもらえることを感謝して梅ヶ枝荘に土下座である。
大手門から虎口をまず右へ1回曲がり、梅ヶ枝荘を左手に見て、今度は右に2回虎口を曲がる、そして最後にもう一度虎口を左手に曲がると二ノ丸であるが、すでに大手門から数えてここまで4回も虎口を曲がらせる仕組みになっていることが敵の攻めて来るスピードを緩める意味もあるし、その都度狭間から弓や鉄砲で仕留めるという素晴らしい守りに感動する。さすが大手である。この素晴らしさにもう一度梅ヶ枝荘に土下座である。
ここから右手に廻れば本丸の台所門に、左手に曲がれば本丸の虎口門に行けるが、虎口門の通路の方が台所門の通路より道の幅が広いので本丸に向う正門は虎口門だと言えるだろう。本丸には現在大村藩を祭る「大村神社」が建てられているが当時はここに政庁の屋敷があり、いわゆる本丸御殿とされる藩主居館が存在した。そして本丸のそれぞれのコーナーに6基の櫓が建てれていたという。残念ながら玖島城には天守は建てられなかったそうである。大村藩は2万7千石、天守は5万石からじゃないと建てれなかったとも言うが(1697年には5万石となるが)65万石の伊達政宗公も幕府に遠慮して天守を建てなかった例もあるのでなんとも言えないところではある。本丸のコーナーの櫓があった場所の面積を見ても大体が同じ面積なので天守と呼べる天守台は存在しなかったと推測したい。だがこのさほど広くない本丸に6基の櫓、イマジンするとその威圧感は相当なもんだったであろう。当時はこれほどまでに城内に木も生えていなかったので海から見た本丸も城下町から見た本丸もインパクトがあったに違いない。引き続き梅ヶ枝荘に土下座である。
もっとも私が玖島城で一番押したい場所を紹介したい。本丸虎口門から海側を正面に見た森、現在は県指定天然記念物「玖島崎樹叢」である。この場所がマニアにはとにかく熱い。ここを見学しない人は中島卓偉の音楽に触れずに生きて死ぬ人と同じくらいもったいない。まず何が凄いかと言えば、空堀である。深い、そして幅もかなりある。縦に堀切も存在する。土橋も健在。城マニアのナビゲートが無ければ単なる森、土の道と思うかもしれないがこの場所がいかに防御を固くしていたかが見るとわかるのだ。海側から攻めてきて、城内の土塁を登り、目の前にいよいよ本丸が見えて来たというところで森の中にこんなに深い空堀があるとは誰も予想もつかない。しかも板敷櫓の曲輪、いわゆる板敷櫓の裏側にも見事な空堀が存在するではないか。そしてこの堀が曲輪の外、海側の空堀にL字で繋がっている。板敷櫓の外から攻めて石垣を登り切ったとしてもこんな場所にこんな空堀があるなんてよっぽど想像がつかない。樹木に隠れたナイスな防御である。センスが半端ない。大村藩に拍手である。むしろやっぱり梅ヶ枝荘に土下座、である。現在は空堀だがもしかしたら当時は水をたたえていたこともイマジン出来る。板敷櫓の裏にある空堀はひょっとすると水堀だったと言えるかもしれない。堀のL字に曲がる軸が下の空堀と若干高さが異なるので、上の曲輪と下の曲輪で水を食い止めていたことがわかる作りになっているのだ。マニアはここを見逃さない。が、一般人は卓偉の存在を見逃している。
城マニアの推測をもう一つ言うと、この樹木の中に掘った堀の土を本丸の土台にしてそこに石垣を組んで本丸を作った可能性を感じるのだ。というのも元々この玖島城の丘は二ノ丸の高さまでだったと推測、そこに空堀を掘った土をせっかくなんで土塁として盛り、新たにもう一つ高い場所に本丸を築こうとしたと考えるのだ。余談だが奥様は幼少期はこの空堀で遊んでいたそうな。空堀で遊ぶ子供。私も人生をやり直せるなら空堀で遊べる環境の子供時代をおくりたい。
初めて来城したのは80年代の半ば、小学生の頃だった。2度目はつい先月のことになるがファンクラブ旅行で玖島城を観光し梅ヶ枝荘にお世話になり大村寿司をいただくという行程を実施。私は前日に大村入りし、大村観光コンベンション協会ボランティアガイドの濱口由美子さんのナビゲートのもと2度目の玖島城観光。(大村愛に溢れたとてもわかりやすい説明ありがとうございました)そして満を持して3回目、翌日ファンの方々に玖島城を熱く説明させてもらった。(2016年10月29日、皆で来城)本気で説明したがファンの頭の上の吹き出しには
「ふ~ん」「へえ~」「そうなんだ~」くらいだった……。
このファンクラブ旅行中に城について質問してきた人、4名。
旅行後に大村城の感想を手紙に書いて送ってくれた人、5名。
旅行中に「亀山社中と蔭山社長って響き似てますよねえ?」などと返答に困る投げ掛けをして来た人、3名。
もう梅ヶ枝荘の前で切腹である。
梅ヶ枝荘では代々続く大村寿司を頂き、和服に着替え、サプライズで蔭山社長の登場とマネージャーの砂田一成とクロストークを予定していたが、更なるサプライズで大村市長の「そのだ裕史」市長がトークで参加!さしすせそのだ市長は現在39歳、去年若干38歳で大村市長に当選。ロックが好きという市長で選挙活動はロックを流しながら行われていたそうな。しかも市長自らDJイベントも行い、DJをする市長として地元でも有名だ。掲げたマニフェストも当初30項目ちかくあったものをたった1年の間にもう20項目ちかく成し遂げられたとのこと。まさに有言実行の市長である。素晴らしい!私とほぼ同世代ということもあり初対面とは思えない程打ち解けさせていただいた。砂田のしょうもない場の空気を読まない(読めない)質問にも嫌な顔ひとつせず答えていただき、ファンの方を盛り上げていただき本当に感謝である。政治も世代交代だ!古い考えや文句ばかりを言う奴らは園田市長が全部なぎ倒していってくれるはずだ!
おもしろかったのは梅ヶ枝荘の末裔一家の皆さんが園田市長のことを
「ああ、そのだくんね」「そのだくん忙しいみたいやけど」「そのだくん呼べば来てくれるんやない?」「そのだくんに電話してみたら?」「そうそう、そのだくんいい人やけん」「そのだくんにも着物を着てもらわんと」
という誰も「市長」と呼ばないこの感じ。市長も末裔には頭が上がらないということか。歴史の深さと末裔の偉大さを垣間みた瞬間だった。
イベントが始まる前に奥様に
「蔭山社長に大村城って知ってるか?って言われて、最初は記憶が曖昧になってわからんかったんですけど玖島城のことだとわかって、久しぶりにまた来れて、この場所でこういうイベントが出来て嬉しいです」と伝えると、
「そうなの!大村城やなくて玖島城なの、かげちゃん何も知らんでしゃべるから」
私「聞いたか?カズ、今、奥さん社長のことをかげちゃんって言ったぞ……。」
砂田 滑舌悪く「そうっすねえ、言ってしまえば奥さんもかげちゃんなんですけどねえ」
私「カズ、おまえこの後のトークで社長に、なんで奥さんにかげちゃんって呼ばれてるか聞けよ」
砂田 滑舌悪く「いや~それはちょっと……」
私「それはちょっとじゃねえ!いいから聞けよ、そういう方が笑いに繋がってファンも喜ぶって。」
砂田 ひたすら滑舌悪く「いや~……いや~……それは無理っす~っていうか呼ばれてるっていうか、呼ばせてるってことですかね?」
私「そんなことどっちでもいいよ、うだうだ言ってんじゃねえ、俺がまず蔭山社長の奥さんとの馴れ初めを聞くからそしたら切り込んで来いよ」
砂田「う~ん……。」
で、トーク中に私がセンタリングを上げるように聞いた。
私「じゃあまず社長の奥様との馴れ初めを聞かせてもらえます?」
社長「いやいやいや~こんな場所で何言ってんだよ~ハハハ~」
砂田 引き続き滑舌悪く「どうやら奥様は元フライトアテンダント、いわゆるスチュワーデスだったそうですが?」
私は心の中で思った。(おまえ、それどこ情報だよ、どういう切り込み方してんだよ)
社長「だからといって飛行機の中で、とかはないですから~ハハハ~」
ファン 失笑……。
園田市長が来てくれなかったらグダグダの身内トークで終わるとこであった。
玖島城は「日本さくら名所百選」に選ばれており、国指定天然記念物「オオムラザクラ」をはじめ21種類約2千本の桜の木があり、春の満開の時期は城全体がピンクに染まる。大村藩ゆかりの「大村寿司」は戦国時代、領主、大村純伊が戦で領地を取り戻した時に、それを喜んだ領民達が取り急ぎ御飯と具をもろ蓋に詰めた押し寿司をお祝いに出したのが始まりという。
2013年のツアーのファイナルが長崎であり、奥様が大村寿司を差し入れしてくださったことをこの場を借りて感謝をお伝えしたい。梅ヶ枝荘の梅ヶ枝餅も絶品である。玖島城に寄った際には是非とも梅ヶ枝荘で大村寿司と梅ヶ枝餅を食らっていただきたい。大村市民は週に最低2回は梅ヶ枝荘に通っていただきたい。大村は江戸時代から幕末、明治にかけて沢山偉人を輩出。歴史上ではあまり伝わってないが坂本龍馬に手を貸したのは大村藩が一番多い。キリシタンを広めたのも大村藩あってのことである。大村市は長崎空港からのアクセスも良く、城下町の名残も含め素晴らしく美しい街である。言うなれば歴史とロックンロールは継承していく文化である。大村の未来はきっとそのだ市長がやってくれるであろう。大村市役所に行き、「卓偉のファンです」と言えば、お茶くらい出します!と市長から確約を取りました。重ね重ねそのだ裕史市長に感謝をお伝えしたい。
最後にイベント終了後、亀山社中、ではなく蔭山社長に私は言った。
私「奥様が四姉妹ということだと、今がまだ江戸時代なら社長が婿入りで大村藩主なった可能性もなくはないってことっすよね?」
社長「いやいやいやいや~~~まあ、そんなことはないかもしれないけど、まあ、どうかなあ~ハハハ~」
「まあ、どうかな~ハハハ~」じゃないよ社長。
あぁ 玖島城 また訪れたい……。
◆【連載】中島卓偉の勝手に城マニア・チャンネル
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