【ロングインタビュー】今語られる、1980年代埼玉ロックシーンの悲喜交交
──僕これ、1曲目大好きですよ(ラストアルバム「EXIT」の「素顔になりたい」)。めっちゃかっこいいですよね。
森永:あ、ほんと? これはレッド・ツェッペリンの曲聴いて、ああこういう曲だったらいいかな~って。この曲だったらカラー的に許してくれるんじゃないかと思って。ただ、タイコがついていけなくて、ちょっと物足りないのよ。もうちょっとさ、こう…。
──淡々とした感じですもんね。
森永:そうそうそう。シンプルすぎちゃって、それもいいんだけど、そこで不満が出てきて、タイコを変えたいって言い出して。
──じゃ、コレ(クビ)だったんですか?
森永:そうだよ。(代わりの)タイコいないのに。
──え、それ、誰が言い出したんですか?
森永:この人(大野)だよ(笑)。
──この人ですか!
森永:うん。
──メンバーの仲はどうだったんですか?
森永:良かったよ。(大野と)おれは悪かったけどね、かなり。
──えええ、そうなんですか。
森永:レコーディングなんか大変だよ。俺が苦労して苦労して1ヶ月どっこも行かないでさ10曲作ったらさ、森永さんこんなのできないよとか。もうカッチーンときて。じゃあ、わかったよ、いいっていうまで作ってやろうと思って、作ってったんだよ。普段は普通の人なんだけど、レコーディングのときはとにかく憂鬱で。男ばっかりの場だし、なんかついていけなかったんじゃないかな。
──最後の最後は(大野さんが)角刈りみたいにしちゃって。あれはなんだったんですか?
森永:なんかあったんじゃない?わかんないけど。
──僕が初めて見たライヴは角刈りにした後なんですよ。もうドラムが変わってて。パワステだったかな。
森永:じゃあ、おれがYoutubeに上げたやつじゃない? 亡くなっちゃったけど、藤井章司さんって…。
──一風堂のドラムの。
森永:その人に叩いてもらったとき。(ハーメル・)ラモーンはパワステやってないから。ちょうどこのアルバム(※註:ラストアルバムの「EXIT」)が出て、この曲(「Crazy Driver」)やってるの。まぁ、このあたりは全部やってるんだけど。そのときにね、川口でパーティがあったのね。杉本圭司主催で、なんてライヴハウスだっけな? 木暮さんも来て、ユカイも来て、あと白田くんかな。
──プレゼンスの?
森永:そうそう。あと、オカヒロってやつがいるんだけど(※註:TYO、DENIALのギタリスト)、ギターのやつが何人か来てセッションして。ユカイが、おれをダンちゃんって呼ぶんだけど、ダンちゃん久しぶりだねぇって。したら電話かかってきてさ、レッズ解散したの知ってる?ソロやるんだけど、(ギター)やらない?って。
──それがリトル・ウイング?
森永:それの後だね。そのときはもうリトル・ウイングをやってたんだと思う。で、「世界の女は俺のもの~I'm The Best~」で全国ツアーやって、それで電話かかってきて。俺がこれ(「EXIT」)中目黒でレコーディング、トラックダウンしてるときに。池尻でリハやるからって、近いから行ってさ。(44)マグナムのジョーがドラムで、長沢さんがベースで、世良公則とツイストの松浦(善博)さんってギターがいるんだけど、あと三国(義貴=キーボード)さんね。ロッドの曲2~3曲やって。したらまた電話かかってきて、ツアー回ろうって。まぁいいけど、会社が何ていうか。パッセンジャーズもあるし。でも会社はOKでさ、それでユカイの最初のツアーやるの。
──そのへんがきっかけでパッセンジャーズがなくなっていくんですか?
森永:そういうのもあるね。ただ、そのあとラモーン見つけるまで1年間ずっとリハやって、ドラムも見つかって、デモテープも作って、トラックダウンまでしてるから、アルバムは出すつもりだったんだよ。月光さんからちょっと会社にきてくれっていわれて、おれにはレコーディングとかの仕事やるから、バンドは眠らせてくれっていうのね。おれはそれはできませんって言ったの。だったら契約切ればいいじゃないですかって。そんときさ、他所から連れてきたバンドがいたから(事務所の)手が回んないんだよ。Jaco-necoもそうだし、おれたちもそうだし、みんな他所いかされた。それでユカイのやりだして。でもマネージメントのやつとかは仲いいから、こんどシェイディーがね、ツアー決まってるから(俺に)弾いてくれって、だから、ワンツアーとライヴレコーディングはしたんだよね。その最後の方にね、松尾宗仁くんからZINXってバンド組んだから、ツアー回るから弾いてくれって。で、それもワンツアーだけ(弾いた)。
──そのあともそういうセッション的な活動ですか?
森永:そうそう。レコーディングしたり。埼玉県の観光PRとかさ、地味にレコーディングはしてた。ロックアーティストもライヴのツアーはなかなかないからさ。メジャーアーティストのツアーはね、新人ばっかり。女の子が多くてさ。それも、小屋で都内2本とか3本とか。リハ何度も行ってそれで終わっちゃうのはなぁ~って。せっかく覚えたのにみたいな。
──自分のバンドは作らなかったんですか?
森永:お金にならないから。やっぱりそういうふうになってちゃうんだよ。ほんとはそれじゃいけないんだけど。今はちょっと様子見かな。
■ジミー・ペイジはね、なんでも許してやらなきゃだめ(笑)
──ギターのスタイルでいうと、いちばん好きなのは誰になるんですか? ゲイリー・ムーアとか?
森永:ジミー・ペイジだね。ゲイリー・ムーアは初期の日本で知られるようになった頃のは好きだったけど、厳しい目で見ることの方が多いかな。好きだよ。嫌いじゃないんだけど。ジミー・ペイジはね、なんでも許してやらなきゃだめ(笑)あの人のやりたいことは。ライヴじゃちょっとヘロヘロだけど、でもそれでもいいんだな。
──もう愛じゃないですか(笑)
森永:そうそうそう。スタイル的にはそう。技術的なことは、結局、オーソドックスなのが好きかな。これ(ライトハンドの真似をする)なんか恥ずかしくてできないもん。
──パッセンジャーズの1stアルバムの頃はストラトのなるべく歪みをおさえた感じだと思うんですけど。
森永:うん。そうそうそう。
──そのへんのスタイルってのはどういう人に影響を受けたんですか?
森永:サザンロックとか。ドゥービーも好きだったし。南部系の人のギタースタイルとか。あとね、ジョン・デンバーとかのカントリーソングが好きで、後ろで(鳴ってる)カントリーギターがすごい好きで、練習してたのね。ああいうペンペンな。スティールギターみたいなのとか、スライドもそうだし。カントリー~ブルーグラス系がすごい好きで、ぜんぜん身になってないんだけど。
──1980年代はそういう人はほとんどいなかったんじゃないですか? カントリーがいちばんダサいと思われてた時期ですよね。知られてなかったし。
森永:そうそう。なんでみんなダメなのって思ってたもん。イメージがあるんだよね。日本でカントリーとかロカビリーっていうとさ。
──カントリーっていうと、カントリー&ウエスタンになっちゃいますからね。
森永:そういうイメージがあるんだろうね。そこで弾かれてるものをさ、技術的なこととかね、なんでみんないいって言ってくれないんだろう?。
──再評価されたのは、たぶん、ザック・ワイルドが出てきてからですね。
森永:ああ、そうかもしれないな。
──チキンピッキングとかやってましたもんね。あれでカントリーのテクニックみたいなことをギター雑誌でやるようになったんですよね。
森永:前にインタビューで見たら、オジーのときはさ、南部系のギターは弾くなって言われてたって。だからえ~って思った。そりゃそうだろうけどさ。だから、ザックはエレアコでやってもめちゃくちゃ歪んでる。メタルギターとちっとも変わらないんだよ。
──指の力がすごく強いんでしょうね。ビブラートとかバケモンですもんね。
森永:尋常じゃないよね。
──そういえば、内田勘太郎さんとギターバトルやってますよね。
森永:最初はね、キャニオンのディレクターの北牧さんが、どうせカヴァーやるんだから(※註:カヴァーアルバム「90's」に収録のバッド・カンパニーのカヴァー「Can't Get Enough」のこと)、誰かギタリスト呼べよっていうのね。いいんですかっつって。じゃあわかりましたって。木暮さんはどうでしょう?って言ったら、やってくれなかった。ダメだって、会社が。いくら友達でもダメみたいって。
──レッズはいちばん忙しい時期でしたもんね。本人まで話が行ってないんでしょうね。
森永:行ってない。だから、俺が直接言えばよかったのかもしれないけど。まぁ、あの人はやらなかったかもしれないけど。それで、有山淳司さんって言ったら、それがダメだったんだよね。なんか都合が悪かったみたい、単純に。したらさ、それをレコーディングしたスタジオがフォーライフ系だったんだよね。その関係で憂歌団になったのかな。
──その頃はフォーライフでしたもんね。
森永:それで、内田(勘太郎)さんに頼めよっていうから、来てくれんですか?って言ったの。したら来てくれたんだよね。
──すっごくいい人なんですよね、内田さん。
森永:そう。ほんといい人で。
──そのときが初対面?
森永:そう。内田さんだ!と思って、内田さんのスライドの教則カセット持ってってサインしてもらってさ、うわーとか思って。憂歌団かなんかのツアー行く前日に来てもらって、ちょうどよかったって言ってたんだけど、んで、小ちゃいレコーディングブースで、二人で正面向いて座ってさ、やったのよ。2テイクくらいやったんだけど、それ以上やってもアレかなって言うから、じゃあ、ありがとうございましたって。
──この頃になると、ギターのスタイルもだんだん変わってきますよね。というか、もともと1stの時点で、本来のスタイルじゃなかったんじゃないですか?
森永:そうだよ。もともとはけっこう派手系が好きだから。でもさ、プリテンダースみたいな形でって言われちゃったし。メタルギターには横関(敦)くんってジェットフィンガーの、BRONXの、めっちゃくちゃ上手いからさ。おれは絶対敵わないから。で、ブルースロックだったら好きだし、それだったら合うんじゃないかと思って。割と普通っちゃ普通だけど。
──この頃のシーンの中にはあんまりいなかったタイプだったと思うんですよね。
森永:古いんだよね、逆に(笑)。
──それこそ1曲目、いきなりスライドじゃないですか。当時はスライドギターやってる人なんかいなかったじゃないですか。
森永:あんまり聞かなかったね。
──スライドはどっから入ったんですか?
森永:ジミー・ペイジ。最初は。
──南部系っていうから、てっきり…。
森永:最初はジミー・ペイジから、イギリスのトラッドソング、フォークソング的なものが大好きになって、それからだよ、(デュエイン・)オールマンとかああいうの。クラプトンとかさ。最初はジミー・ペイジしか知らないから。こんな風には一生弾けないないんだろなって思って。だから、あの人のおかげでいろんな音楽を知って、ヘビーなリフの曲も好きだし、フォークソングってか、トラッド音楽もそうだ。マンドリンも始めるようになったし。
──それってこの時期に誰も聞いてなかったようなところばっかじゃないですか。
森永:それこそディレイとかコーラスとかオンパレードなギター(の時代)だったからね。
──本田毅さんですね。
森永:本田くんはいい人でね。ツアー行って初めて会ったのに、飲み行こうよっていうんだよ。楽屋に来てさ、行きますかって。年一緒だったからさ。本当は僕、ドゥービー(・ブラザーズ)なんですよって。ドゥービー命なんだって。
──意外ですね、それ。エフェクターといえば、まずは本田さんってなってますもんね。
森永:そうそうそう。まぁ、年代的に言ったらそうだよね。
──ところで、これ聞いていいかどうかわかんないんですけど、この曲なんですけど…(※註:どの曲かあえて書きません)。
森永:これ?パクリだもん。なんて曲だっけ。男の人が歌ってるやつ。フルアコ持って弾くロックンロールバンドがあって。それ聞いてかっこいいじゃんって思って。これがいちばん最後だったの、(曲が)できなくて。いいや、これでって。みんな知らねぇだろって思って。でも、そのあと売れててさ、けっこう。やべぇなぁとか思って(笑)こんときはもう煮詰まった。
──僕、こっち(パッセンジャーズ)で先に知ったんですけど、あれ?って思って。
森永:こんときはもうノルマ達成できなかったの。これはもうしょうがない。もうこれ聞いて、こんなかっこいい曲作れたらいいなって思ってたら、いつのまにか同じようなことやってたっていう。どうせ売れないしって思って(笑)。
──まぁ、それもどっから持ってくるかもセンスですからね。
森永:まぁ、そう、正解です、まさしく。あんときはとにかくね、ノイローゼ気味になるくらい曲作んなきゃいけなかったから。
──ボツにされた曲も多かったんですか?
森永:もう、ほとんどボツだよ。こんときだって1週間で5曲書いてこいっていわれて、それでも全部ボツで、次にまたもってって、もってって、なんでそんなに上から目線で言われなきゃいけねぇんだろうなぁって思ってて。しかも俺一人で作っててさ、同じ給料もらってるのにこいつらめみたいな。まぁ、そんな感じです。
と、ここで時間切れ。実際にはここには書けないような話もぼちぼちあったのだが、かなりオープンに語ってくれました。それにしても驚くのは、同時代のアーティスト達との交流の多さ。ミュージシャン同士伝わるものがあるのか、こういった繋がりがシーンを支えているのは間違いないでしょう。
この後、森永さんのバンドのライヴにお邪魔したのだが、ゲストには楽器/演奏方面のライターの巨匠、谷川史郎さんが登場。素晴らしいセッションを聴かせてくれた。森永さんのギタープレイは自分から前に出ようとはせず、しかし、必要なところではひと癖あるフレーズできっちりキメにくる。成熟したプレイとはこういうものを言うのだろう。
なお、この日の対バンには、なんと元クリネックスのメンバーたちが登場。埼玉ロックシーンの人のつながりの深さを感じました。
今でも地元埼玉の<西川口 Live&bar R>などで定期的にセッションを開催しているので、興味のある方は行ってみるといいだろう。
TEXT:池上尚志
森永:あ、ほんと? これはレッド・ツェッペリンの曲聴いて、ああこういう曲だったらいいかな~って。この曲だったらカラー的に許してくれるんじゃないかと思って。ただ、タイコがついていけなくて、ちょっと物足りないのよ。もうちょっとさ、こう…。
──淡々とした感じですもんね。
森永:そうそうそう。シンプルすぎちゃって、それもいいんだけど、そこで不満が出てきて、タイコを変えたいって言い出して。
──じゃ、コレ(クビ)だったんですか?
森永:そうだよ。(代わりの)タイコいないのに。
──え、それ、誰が言い出したんですか?
森永:この人(大野)だよ(笑)。
──この人ですか!
森永:うん。
──メンバーの仲はどうだったんですか?
森永:良かったよ。(大野と)おれは悪かったけどね、かなり。
──えええ、そうなんですか。
森永:レコーディングなんか大変だよ。俺が苦労して苦労して1ヶ月どっこも行かないでさ10曲作ったらさ、森永さんこんなのできないよとか。もうカッチーンときて。じゃあ、わかったよ、いいっていうまで作ってやろうと思って、作ってったんだよ。普段は普通の人なんだけど、レコーディングのときはとにかく憂鬱で。男ばっかりの場だし、なんかついていけなかったんじゃないかな。
──最後の最後は(大野さんが)角刈りみたいにしちゃって。あれはなんだったんですか?
森永:なんかあったんじゃない?わかんないけど。
──僕が初めて見たライヴは角刈りにした後なんですよ。もうドラムが変わってて。パワステだったかな。
森永:じゃあ、おれがYoutubeに上げたやつじゃない? 亡くなっちゃったけど、藤井章司さんって…。
▲バンド末期、新宿パワーステーションでのライヴ。ドラム水梨が脱退し、元一風堂の藤井章司がサポート。
ヴォーカル大野美樹がロングヘアーをバッサリ切り落とした時期の貴重な映像。
ヴォーカル大野美樹がロングヘアーをバッサリ切り落とした時期の貴重な映像。
──一風堂のドラムの。
森永:その人に叩いてもらったとき。(ハーメル・)ラモーンはパワステやってないから。ちょうどこのアルバム(※註:ラストアルバムの「EXIT」)が出て、この曲(「Crazy Driver」)やってるの。まぁ、このあたりは全部やってるんだけど。そのときにね、川口でパーティがあったのね。杉本圭司主催で、なんてライヴハウスだっけな? 木暮さんも来て、ユカイも来て、あと白田くんかな。
──プレゼンスの?
森永:そうそう。あと、オカヒロってやつがいるんだけど(※註:TYO、DENIALのギタリスト)、ギターのやつが何人か来てセッションして。ユカイが、おれをダンちゃんって呼ぶんだけど、ダンちゃん久しぶりだねぇって。したら電話かかってきてさ、レッズ解散したの知ってる?ソロやるんだけど、(ギター)やらない?って。
──それがリトル・ウイング?
森永:それの後だね。そのときはもうリトル・ウイングをやってたんだと思う。で、「世界の女は俺のもの~I'm The Best~」で全国ツアーやって、それで電話かかってきて。俺がこれ(「EXIT」)中目黒でレコーディング、トラックダウンしてるときに。池尻でリハやるからって、近いから行ってさ。(44)マグナムのジョーがドラムで、長沢さんがベースで、世良公則とツイストの松浦(善博)さんってギターがいるんだけど、あと三国(義貴=キーボード)さんね。ロッドの曲2~3曲やって。したらまた電話かかってきて、ツアー回ろうって。まぁいいけど、会社が何ていうか。パッセンジャーズもあるし。でも会社はOKでさ、それでユカイの最初のツアーやるの。
──そのへんがきっかけでパッセンジャーズがなくなっていくんですか?
森永:そういうのもあるね。ただ、そのあとラモーン見つけるまで1年間ずっとリハやって、ドラムも見つかって、デモテープも作って、トラックダウンまでしてるから、アルバムは出すつもりだったんだよ。月光さんからちょっと会社にきてくれっていわれて、おれにはレコーディングとかの仕事やるから、バンドは眠らせてくれっていうのね。おれはそれはできませんって言ったの。だったら契約切ればいいじゃないですかって。そんときさ、他所から連れてきたバンドがいたから(事務所の)手が回んないんだよ。Jaco-necoもそうだし、おれたちもそうだし、みんな他所いかされた。それでユカイのやりだして。でもマネージメントのやつとかは仲いいから、こんどシェイディーがね、ツアー決まってるから(俺に)弾いてくれって、だから、ワンツアーとライヴレコーディングはしたんだよね。その最後の方にね、松尾宗仁くんからZINXってバンド組んだから、ツアー回るから弾いてくれって。で、それもワンツアーだけ(弾いた)。
──そのあともそういうセッション的な活動ですか?
森永:そうそう。レコーディングしたり。埼玉県の観光PRとかさ、地味にレコーディングはしてた。ロックアーティストもライヴのツアーはなかなかないからさ。メジャーアーティストのツアーはね、新人ばっかり。女の子が多くてさ。それも、小屋で都内2本とか3本とか。リハ何度も行ってそれで終わっちゃうのはなぁ~って。せっかく覚えたのにみたいな。
──自分のバンドは作らなかったんですか?
森永:お金にならないから。やっぱりそういうふうになってちゃうんだよ。ほんとはそれじゃいけないんだけど。今はちょっと様子見かな。
■ジミー・ペイジはね、なんでも許してやらなきゃだめ(笑)
──ギターのスタイルでいうと、いちばん好きなのは誰になるんですか? ゲイリー・ムーアとか?
森永:ジミー・ペイジだね。ゲイリー・ムーアは初期の日本で知られるようになった頃のは好きだったけど、厳しい目で見ることの方が多いかな。好きだよ。嫌いじゃないんだけど。ジミー・ペイジはね、なんでも許してやらなきゃだめ(笑)あの人のやりたいことは。ライヴじゃちょっとヘロヘロだけど、でもそれでもいいんだな。
──もう愛じゃないですか(笑)
森永:そうそうそう。スタイル的にはそう。技術的なことは、結局、オーソドックスなのが好きかな。これ(ライトハンドの真似をする)なんか恥ずかしくてできないもん。
──パッセンジャーズの1stアルバムの頃はストラトのなるべく歪みをおさえた感じだと思うんですけど。
森永:うん。そうそうそう。
──そのへんのスタイルってのはどういう人に影響を受けたんですか?
森永:サザンロックとか。ドゥービーも好きだったし。南部系の人のギタースタイルとか。あとね、ジョン・デンバーとかのカントリーソングが好きで、後ろで(鳴ってる)カントリーギターがすごい好きで、練習してたのね。ああいうペンペンな。スティールギターみたいなのとか、スライドもそうだし。カントリー~ブルーグラス系がすごい好きで、ぜんぜん身になってないんだけど。
──1980年代はそういう人はほとんどいなかったんじゃないですか? カントリーがいちばんダサいと思われてた時期ですよね。知られてなかったし。
森永:そうそう。なんでみんなダメなのって思ってたもん。イメージがあるんだよね。日本でカントリーとかロカビリーっていうとさ。
──カントリーっていうと、カントリー&ウエスタンになっちゃいますからね。
森永:そういうイメージがあるんだろうね。そこで弾かれてるものをさ、技術的なこととかね、なんでみんないいって言ってくれないんだろう?。
──再評価されたのは、たぶん、ザック・ワイルドが出てきてからですね。
森永:ああ、そうかもしれないな。
──チキンピッキングとかやってましたもんね。あれでカントリーのテクニックみたいなことをギター雑誌でやるようになったんですよね。
森永:前にインタビューで見たら、オジーのときはさ、南部系のギターは弾くなって言われてたって。だからえ~って思った。そりゃそうだろうけどさ。だから、ザックはエレアコでやってもめちゃくちゃ歪んでる。メタルギターとちっとも変わらないんだよ。
──指の力がすごく強いんでしょうね。ビブラートとかバケモンですもんね。
森永:尋常じゃないよね。
──そういえば、内田勘太郎さんとギターバトルやってますよね。
森永:最初はね、キャニオンのディレクターの北牧さんが、どうせカヴァーやるんだから(※註:カヴァーアルバム「90's」に収録のバッド・カンパニーのカヴァー「Can't Get Enough」のこと)、誰かギタリスト呼べよっていうのね。いいんですかっつって。じゃあわかりましたって。木暮さんはどうでしょう?って言ったら、やってくれなかった。ダメだって、会社が。いくら友達でもダメみたいって。
──レッズはいちばん忙しい時期でしたもんね。本人まで話が行ってないんでしょうね。
森永:行ってない。だから、俺が直接言えばよかったのかもしれないけど。まぁ、あの人はやらなかったかもしれないけど。それで、有山淳司さんって言ったら、それがダメだったんだよね。なんか都合が悪かったみたい、単純に。したらさ、それをレコーディングしたスタジオがフォーライフ系だったんだよね。その関係で憂歌団になったのかな。
──その頃はフォーライフでしたもんね。
森永:それで、内田(勘太郎)さんに頼めよっていうから、来てくれんですか?って言ったの。したら来てくれたんだよね。
──すっごくいい人なんですよね、内田さん。
森永:そう。ほんといい人で。
──そのときが初対面?
森永:そう。内田さんだ!と思って、内田さんのスライドの教則カセット持ってってサインしてもらってさ、うわーとか思って。憂歌団かなんかのツアー行く前日に来てもらって、ちょうどよかったって言ってたんだけど、んで、小ちゃいレコーディングブースで、二人で正面向いて座ってさ、やったのよ。2テイクくらいやったんだけど、それ以上やってもアレかなって言うから、じゃあ、ありがとうございましたって。
──この頃になると、ギターのスタイルもだんだん変わってきますよね。というか、もともと1stの時点で、本来のスタイルじゃなかったんじゃないですか?
森永:そうだよ。もともとはけっこう派手系が好きだから。でもさ、プリテンダースみたいな形でって言われちゃったし。メタルギターには横関(敦)くんってジェットフィンガーの、BRONXの、めっちゃくちゃ上手いからさ。おれは絶対敵わないから。で、ブルースロックだったら好きだし、それだったら合うんじゃないかと思って。割と普通っちゃ普通だけど。
──この頃のシーンの中にはあんまりいなかったタイプだったと思うんですよね。
森永:古いんだよね、逆に(笑)。
──それこそ1曲目、いきなりスライドじゃないですか。当時はスライドギターやってる人なんかいなかったじゃないですか。
森永:あんまり聞かなかったね。
──スライドはどっから入ったんですか?
森永:ジミー・ペイジ。最初は。
──南部系っていうから、てっきり…。
森永:最初はジミー・ペイジから、イギリスのトラッドソング、フォークソング的なものが大好きになって、それからだよ、(デュエイン・)オールマンとかああいうの。クラプトンとかさ。最初はジミー・ペイジしか知らないから。こんな風には一生弾けないないんだろなって思って。だから、あの人のおかげでいろんな音楽を知って、ヘビーなリフの曲も好きだし、フォークソングってか、トラッド音楽もそうだ。マンドリンも始めるようになったし。
──それってこの時期に誰も聞いてなかったようなところばっかじゃないですか。
森永:それこそディレイとかコーラスとかオンパレードなギター(の時代)だったからね。
──本田毅さんですね。
森永:本田くんはいい人でね。ツアー行って初めて会ったのに、飲み行こうよっていうんだよ。楽屋に来てさ、行きますかって。年一緒だったからさ。本当は僕、ドゥービー(・ブラザーズ)なんですよって。ドゥービー命なんだって。
──意外ですね、それ。エフェクターといえば、まずは本田さんってなってますもんね。
森永:そうそうそう。まぁ、年代的に言ったらそうだよね。
──ところで、これ聞いていいかどうかわかんないんですけど、この曲なんですけど…(※註:どの曲かあえて書きません)。
森永:これ?パクリだもん。なんて曲だっけ。男の人が歌ってるやつ。フルアコ持って弾くロックンロールバンドがあって。それ聞いてかっこいいじゃんって思って。これがいちばん最後だったの、(曲が)できなくて。いいや、これでって。みんな知らねぇだろって思って。でも、そのあと売れててさ、けっこう。やべぇなぁとか思って(笑)こんときはもう煮詰まった。
──僕、こっち(パッセンジャーズ)で先に知ったんですけど、あれ?って思って。
森永:こんときはもうノルマ達成できなかったの。これはもうしょうがない。もうこれ聞いて、こんなかっこいい曲作れたらいいなって思ってたら、いつのまにか同じようなことやってたっていう。どうせ売れないしって思って(笑)。
──まぁ、それもどっから持ってくるかもセンスですからね。
森永:まぁ、そう、正解です、まさしく。あんときはとにかくね、ノイローゼ気味になるくらい曲作んなきゃいけなかったから。
──ボツにされた曲も多かったんですか?
森永:もう、ほとんどボツだよ。こんときだって1週間で5曲書いてこいっていわれて、それでも全部ボツで、次にまたもってって、もってって、なんでそんなに上から目線で言われなきゃいけねぇんだろうなぁって思ってて。しかも俺一人で作っててさ、同じ給料もらってるのにこいつらめみたいな。まぁ、そんな感じです。
と、ここで時間切れ。実際にはここには書けないような話もぼちぼちあったのだが、かなりオープンに語ってくれました。それにしても驚くのは、同時代のアーティスト達との交流の多さ。ミュージシャン同士伝わるものがあるのか、こういった繋がりがシーンを支えているのは間違いないでしょう。
この後、森永さんのバンドのライヴにお邪魔したのだが、ゲストには楽器/演奏方面のライターの巨匠、谷川史郎さんが登場。素晴らしいセッションを聴かせてくれた。森永さんのギタープレイは自分から前に出ようとはせず、しかし、必要なところではひと癖あるフレーズできっちりキメにくる。成熟したプレイとはこういうものを言うのだろう。
なお、この日の対バンには、なんと元クリネックスのメンバーたちが登場。埼玉ロックシーンの人のつながりの深さを感じました。
今でも地元埼玉の<西川口 Live&bar R>などで定期的にセッションを開催しているので、興味のある方は行ってみるといいだろう。
TEXT:池上尚志