【インタビュー】シェーン・ガラス、最新アルバム『Ascend』とB'zを語る「積み重なって、みんなのギアががっしり噛み合ってきた」

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既に十余年……B'zファンであれば、シェーン・ガラスのドラムプレイが、B'zというバンドサウンドの屋台骨として欠かせぬ存在であることは、誰もが認めるところだろう。アルバムにおいてもライブにおいても、B'zサウンドにとってシェーンの担う要素は大きい。一方で、シェーン・ガラスが生粋のドラマーである側面は、多面体の一部であり、むしろマルチミュージシャンとしての多彩な才能が自然体の中でキラキラと乱反射するようなアーティストである事実も伝える必要がある。

ぐいぐいとドライブする極上の8ビートを刻む一流のドラマーは、どのように生まれ、どのように育まれたのか。そして最新アルバム『Ascend』にみるような全ての要素を一人でこなしてしまうマルチな素養は、どのように磨かれたのか。シェーン・ガラスの謎と魅力に迫るべく、インタビューを試みた。

◆シェーン・ガラス 拡大画像

■ドラマーが職業になったけれど曲を書いたりギターを弾いたりすることも好き
■日本やB'zという要素は自分のなかでも大きな位置を占めているものだと思います

──マイケル・シェンカーやイングヴェイ、ウルリッヒ・ロート、グレン・ヒューズ…とそうそうたるアーティストと渡り合ってきたドラマーが、実はマルチミュージシャンであるという事実がさらに驚きです。シェーンが音楽に目覚めた時のことは覚えていますか?

シェーン・ガラス:両親が1950年代の音楽をすごく聴いていて、リトル・リチャードとかエルヴィス・プレスリーとかチャックベリーとか、50年代にラジオで流れていたような曲を自分も聴いていました。母親も曲を聴きながら口ずさんだり踊ってたりして、すごく楽しんでいたのでそれで音楽に興味を持ち、好きになったんだと思います。そんな中で、かかっている音楽の「楽器の音に注目して聴いてごらん」ってお母さんに言われたんです。ハイハットの音だったりベースの音だったり、それぞれの音に注目するとそれが聴こえるよって。

──おもしろいお母さんですね。

シェーン・ガラス:そうですね(笑)。おじいちゃんがドラムをやっていたからだと思うけど、今思うと、母親が“ハイハット”なんて言葉をよく知っていたなって思う(笑)。地下にはピアノがあって、父親が弾いたりしていたので、自然に音楽がある生活には浸かっていたんです。ピアノの鍵盤を叩いてみたら楽しくて、音符を見つけたりするのも面白かったし、4歳のときにウクレレを買ってもらって、9歳のときにギターを手にし、10歳のときにドラムセットを買ってもらいました。

──なるほど、マルチプレーヤーになってしまったのは、完全に親のせいですね。

シェーン・ガラス:両親の仕業ですね(笑)。

──バンドを始めたのは?

シェーン・ガラス:ギターを弾いてみたり曲を作ったりしていたけど、ドラムセットを買ってもらったときに、ギターを持っていた友だちがいたので、ゾディアックっていうバンドをふたりだけで組んでプレイしていました。10歳の時ですね。それでベースプレーヤーも見つけて、オリジナルもカバーもやりました。12~13歳の頃には100曲カバーができるようになっていた。

──野球でもサッカーでもなく、音楽で遊んでたんですね。

シェーン・ガラス:そうですね。キッスのコンサートがすごく観たくって、両親にコンサートに連れてってと頼んで初めて観たとき、ドラムを見てうわーって思って「あれをやりたい!あれを僕もやりたい!」って思ってドラムセットを買ってもらったんです。18列目で観たからとにかく凄かった。

──それが10歳の頃。

シェーン・ガラス:あれは、人生のなかでもすごく重要なモーメントのひとつですね。前からキッスはすごく好きで、大きなアイスクリームのバケツをひっくり返してドラムセットに見立てて叩いて遊んだりしていたので、なんとなくドラムのことも分かっていたから、ライブを観たのが決定的だった。

──その後、ゾディアックはどうなるんですか?

シェーン・ガラス:地方のスター誕生のようなコンテストなど、いろんなところをまわっていました。すごく良いバンドになっていたから、自分はミュージシャンになる気満々だったんだけど、友だちはやっぱり大学に行きたいって空中分解してしまった。すごくがっかりして悲しかったけれど、今後どうしようと思ったときに、アルバータ州(カナダ)は小さな町なので、ここから出て大きい街に行こうって決心した。で、ドラムと寝袋だけ持って、カルガリーに行きました。

──高校を卒業して修行に出るんですね。

シェーン・ガラス:カルガリーに移ってバンドを作り、ツアーとかもやってたんですけど、もうちょっとドラムというものを勉強してみたいと思い、エドモントンのジャズのカレッジでドラムを学ぶことにしました。それまでドラムを習ったことは一度もなかったので。

──あえてジャズを?

シェーン・ガラス:自分はロック・ドラマーだったんですけど、そのエリアでドラムを学ぶならそこがいちばん良い学校だったんです。で、1年カレッジで学んだときに、「カナダでツアーをしないか」とプロからオファーがきて、学校はあと1年残っていたんだけど、やっぱりカレッジでジャズを学ぶよりツアーでまたロックしたいと思って(笑)。それでツアーに出て、2年半くらいカナダ中をツアーしました。その後、ポール・ディーンとも一緒に……。

──ポール・ディーン? え? ラヴァーボーイのですか?

シェーン・ガラス:それまでにも、仕事としてバンドはやっていたけれど、彼らみたいなレベルのプロではなかった。勉強ばかりではなく、もっとドラムを叩きたいと思って、ツアーに出たけど、それが良かった。

──いきなりラヴァーボーイって凄いなぁ。

シェーン・ガラス:それでバンクーバーでまた2年半くらい暮らしてツアーもしたので、次のレベルにいくために、ロサンゼルスに行きたいと思った。でも自分はカナダ人でビザの問題もあるので、どうやって行けばいいかをちょっと考えなきゃいけなかった。それで結局ロサンゼルスのミュージシャン・インスティチュート(MI)に行ったんです。学生ビザがおりるしね。

──ニューヨークではなくロサンゼルスを選んだのは何故ですか?

シェーン・ガラス:やっぱりロック・ミュージシャンでやっていきたいんだったらロサンゼルス。ロサンゼルスかナッシュビルかニューヨークだけど、やっぱりロックだとロサンゼルスかな。それで移ったんだけれど、なかなか仕事もなかったので、ギターセンターが開催しているドラムコンテストに出てみたんです。そうしたら審査員のひとりにディーン・カストロノヴォさんがいた。

──ジャーニーのドラマーですね。

シェーン・ガラス:「すごく良かったから、なんかあったら薦めておくよ」って、電話番号を渡すことになった。ディーンは顔も広く、コネクションもあったから、2、3日後から、ほんとにいろんなオーディションの電話がかかってきて、その中のオーディションのひとつがイングヴェイ・マルムスティーンだった。これをきっかけにイングヴェイのサークルの人たちや、そのジャンルの人たちからいろいろ声がかかるようになっていったんです。

──そこまでは生粋のドラマー人生を歩んできたように見えるのですが、作り出すソロアルバム『Ascend』は、マルチプレイヤーとしてのポップアルバムで、ドラマーのエゴが全くない作品ですよね。

シェーン・ガラス:実はギターも大好きで、自分にとってはギターもドラムも同じくらい大事なんです。プレイヤーとしてはドラマーが職業になったけれど、曲を書いたりギターを弾いたりすることも好きで、常にやってきたので。

──なるほど。

シェーン・ガラス:ただ、レコーディングをきちんとする機会も、時間もなかったし、曲を書くアーティストとして活動するチャンスがなかった。制作面も興味があったので、マイクを買ったり機材をそろえて自分の家でスタジオを組んでレコーディングを徐々にはじめていったんだけど、完成までまとめる時間がとれなくて。で、B'zのツアーで初めて日本に来て、ライブとライブの間に時間があることに気付いて、そこで制作したのがソロアルバムなんですね。

──B'zのサポート活動や日本滞在が、シェーンに影響を与えていますか?

シェーン・ガラス:もちろん影響されていて、日本やB'zという要素は自分のなかでも大きな位置を占めているものだと思います。影響もされるし、インスパイアもされるし、そういう要素がソロアルバムにも詰まっていると思います。

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