Cyber TRANCE、初開催から25年トランスを若者文化へ押し広げたvelfarre発ムーブメントをレジデントDJと仕掛け人が語る。

2026.07.13 21:17

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2001年に東京・六本木のvelfarreで始動した「Cyber TRANCE」が、初開催から25年を迎える。Cyber TRANCEは、トランスという音楽をクラブシーンの内部に留めず、コンピレーションCD、全国ツアー、大型イベント、ファッション、メディア露出と結び付けながら、2000年代初頭の日本の若者文化へと押し広げたダンスミュージック・プロジェクトである。

当時の熱狂を知る世代にとっては、velfarreのフロア、アンセム、巨大な映像モニター、照明、紙吹雪、長蛇の列とともに記憶されている。一方で、現在の若い世代にとっては、Cyber TRANCEが何を意味したのか、そもそもトランスとはどのような音楽だったのかを知らない読者も少なくない。25周年という節目にあたり、Cyber TRANCEとは何だったのか。トランスの世界的な流れ、日本のクラブシーン、velfarreの現場、そしてレジデントDJたちの証言から、その輪郭をたどる。

トランスは、1990年代前半から中盤にかけて、ヨーロッパのクラブシーンで発展した電子音楽の一形態である。発祥には諸説あるが、ドイツ・フランクフルトを中心としたテクノ/ハードトランスの流れと、オランダを中心に発展したメロディックで高揚感のあるトランスの流れが、1990年代後半以降の大きな潮流となった。特に1990年代末から2000年代初頭にかけては、Ferry Corsten、Tiësto、Armin van Buurenらオランダ勢の台頭によって、トランスはヨーロッパを代表するダンスミュージックへと成長していく。Gouryella、System F、Rank 1、Airscape、Svenson & Gielenといった名前は、後に日本のCyber TRANCEのフロアでも重要な存在となった。

日本でも、輸入盤レコード、クラブ、海外DJの来日公演、音楽専門誌、レコードショップを通じてトランスは徐々に浸透していた。しかし、その人気はまだクラブカルチャーの中に限定されていた。トランスをより広い若者層へ届ける入口となったのが、Cyber TRANCEだった。

 velfarre「Cyber TRANCE 誕生」

立ち上げに関わった山野 は、90年代末からvelfarreで日曜早朝に開催されていた<AFTER HOURS>に、Cyber TRANCEの土壌があったと振り返る。同営業では国内外のトップDJやパーティーブランドを招いており、トランスパーティーの基盤はすでに育まれていた。

2000年前後には、音楽専門誌やレコードショップも活況を呈し、国内外のレーベルからトランスのコンピレーションCDが多数リリースされていた。新宿や渋谷のクラブでも多くのトランスパーティーが開催され、マーケットは大きく動いていた。一方で、シーンは飽和状態に近づいていたという。

その状況の中で山野が出会ったのが、当時avex洋楽部のA&RだったNobby宇野氏だった。宇野氏はコンピレーションCD制作における可能性と課題を感じており、個々のDJのセンスや世界観に依存するパーティーではなく、オーディエンスのニーズ、選曲、演出、ファッションを含めた“トランスのディスコ版”を作れないかという構想が生まれていった。

その発想から、既存のトランスシーンのDJではなく、異なるジャンルで経験を積んできたDJ TETSUYA、DJ DRAGON、DJ MITSUKIに声がかかった。のちにREMO-CONも加わり、Cyber TRANCEは単なるクラブイベントではなく、チームによって設計されたパーティーコンテンツとして発展していく。

初開催時、山野は不安を抱えていた。日曜日の夜1時までという制約があったため、Cyber TRANCE単体ではなく、朝5時から深夜1時までの20時間に及ぶ3部構成のパーティーとして企画された。

夜の部としてCyber TRANCEが始まる際、山野はDJ TETSUYAにGouryella「Tenshi」を1曲目にかけるよう依頼した。DJ TETSUYAは「関係者皆が半信半疑の中、自分は徐々にフロアをあたためていこうと思ってたんですが、オーガナイザーの山野氏に一曲めは絶対にTenshiでと言われて渋々かけたのを覚えてます。結果、盛り上がってしまいました」と振り返る。山野にとっても、その瞬間はパーティーの方向性を確信した出来事だった。ダンスフロアから大きな歓声と熱狂が上がり、Cyber TRANCEは初回から明確な手応えを得た。

Cyber TRANCEの特徴は、クラブイベントでありながら、最初から“ブランド”として機能していた点にある。通常のクラブイベントが現場の熱量を中心に広がっていくのに対し、Cyber TRANCEはCD、全国ツアー、テレビ、ラジオ、雑誌、ファッション、渋谷109、海の家、大型イベントと連動しながら、velfarreの外側へ広がっていった。山野は、クラブ・ディスコとコンピレーションCDによる全国規模の流行現象には、過去にも「ジュリアナ東京旋風」や「パラパラムーブメント」があり、avex groupによるプロモーションノウハウとDNAが大きな強みだったと語る。Cyber TRANCEでも、全国ツアー、各種メディアでの露出、数万人規模の巨大イベント開催を重ねることで、ムーブメントは全国規模へ発展していった。

DJ DRAGONが最も印象に残る夜として挙げるのは、2001年8月に東京ビッグサイトで開催されたオールナイトイベント<avex rave 2001 “avex trance”>である。深夜にもかかわらず32,000人が集まり、Cyber TRANCEとAFTER HOURSのステージも組み込まれた。ABOVE & BEYOND、SVENSON & GIELEN-AIRSCAPE、FERRY CORSTEN、DJ TIESTO、GOURYELLA、DJ SHINKAWAらが出演したその夜について、DJ DRAGONは「あの時代だからこそ実現した奇跡のラインナップだったと思います。もう二度と同じ夜は作れないでしょうね」と語る。

DJ MITSUKIは、<avex trance 2002 spring in MESSE>を印象的な夜として挙げる。2001年の東京ビッグサイトを上回る3万人規模の動員を記録し、Cyber TRANCEが全国に認知されるきっかけとなった一大イベントだった。

REMO-CONは、土曜開催の初回を挙げる。日曜開催で人気を得たCyber TRANCEが土曜にも拡大し、そのタイミングでレギュラーDJとして参加した。大箱でいきなり超満員という現場の緊張感、日曜レギュラー陣やスタッフからの視線を含め、忘れがたい経験だったという。

フロアで育ったアンセム

Cyber TRANCEを語るうえで欠かせないのが、フロアで育ったアンセムの存在である。DJ DRAGONとDJ MITSUKIは、ともにSvenson & Gielen「The Beauty Of Silence」を象徴的な楽曲として挙げた。DJ DRAGONは「トランスにはヒット曲とアンセム曲があるんですが、この曲は完全に後者。イントロが鳴った瞬間にフロア全体の空気が変わる、そんな特別な1曲でした」と語る。

DJ TETSUYAは、DJ Kaos「Body 2 Body」を最もフロアが爆発した曲として挙げた。全国的にも自身しかかけていなかった感覚があり、後にさまざまな場所で耳にするようになったことが印象に残っているという。REMO-CONは、自身の楽曲「G-SIGH」に触れつつ、YOJI BIOMEHANIKA「LOOK @ THE HEAVEN」の爆発力を挙げる。楽曲の展開の強さも含め、ここぞという場面でフロアを大きく動かす1曲だった。

当時のvelfarreでは、音楽だけでなく空間演出も重要な役割を果たしていた。巨大な映像モニター、VJ、照明、キャノン砲、雪、可動式の巨大照明などが楽曲と連動し、トランスが持つ高揚感を視覚的にも増幅させていた。

六本木から全国へ

Cyber TRANCE以前のクラブは、アンダーグラウンドな印象が強かった。DJ MITSUKIは、CyberTRANCE以後、一般の人でもクラブで遊びやすくなったと語る。DJ DRAGONも、トランスを一般の若者に広げた最大の入口がCyber TRANCEだったと位置付けている。当時は浜崎あゆみを中心としたギャルカルチャー全盛期でもあった。ファッションは派手で華やかであり、渋谷や六本木の若者文化とも強く結び付いていた。DJ DRAGONは、トランスが踊る音楽だったことから、厚底やブーツを履いていた若者たちがスニーカーに履き替え始めたことも印象的だったと語る。「踊るためにスニーカーを履く」という感覚は、当時のトランスシーンが作った文化のひとつだったのかもしれない。

レジデントDJたちにとっても、Cyber TRANCEは大きな転機となった。DJ DRAGONは、当時オールジャンルDJとして活動していたが、山野から「トランスをやらないか」と声をかけられた。当初はなぜ自分なのかと思ったというが、メディアに出ている人間が関わることでシーンが広がるという山野の狙いがあったのではないかと振り返る。DJ MITSUKIは、もともとHOUSE系のDJであり、新宿CODEでメインDJを務めていた。当初はトランスよりもワープハウスやUKハードハウスを中心にプレイしていたが、日本の音楽シーンにはTKサウンドやユーロビートを通じて電子音楽への馴染みがあり、トランスが受け入れられるまでに時間はかからなかったと語る。

REMO-CONは、Cyber TRANCEとその周辺の活動が人生の大きな転機になったと話す。ディスコ出身でオールジャンル的にプレイしていたスタイルから、自身の好きな音へのこだわりが強まり、同時期にアーティストとしての活動も本格化した。DJ TETSUYAにとっても、Cyber TRANCEは大きな転機だった。全国を回ることで多くの人に自身を知ってもらう機会となり、本名での本格的な活動という点でも大きな意味を持ったという。

25周年を記念したイベント開催が決定

25年を経てもCyber TRANCEが語られ続ける理由について、DJ MITSUKIは「Cyber TRANCEはブームじゃなく一時代の文化だったから」と話す。REMO-CONは、CDやメディアとの連動によって、当時未成年でクラブに行けなかった世代や、親が聴いていたCDを通じて知った若い世代にも受け継がれている点を挙げる。DJ DRAGONは、サブスクではなくCDを所有する時代だったからこそ、一曲一曲との結びつきが深かったと語る。音楽を所有し、繰り返し聴き、フロアで体験する。その循環が、楽曲を単なる流行ではなく、人生のサウンドトラックとして記憶に残した。

Cyber TRANCEとEDMの関係も見逃せない。EDMを作った世代の多くは、トランスを通過している。ジャンルとしては別物でありながら、ビルドアップ、ブレイク、ドロップ、高揚感、巨大フェスとの相性など、多くの部分でトランスの遺伝子を受け継いでいる。REMO-CONは、velfarre Cyber TRANCEではトランスだけがかかっていたわけではなく、ハードハウスやテクノなど幅広いジャンルもプレイされていたと語る。音の作りや鳴りによる高揚感、フロアの熱狂度には、後のEDMと近いものがあったという。REMO-CONは、トランスでは1曲を長めにかけ、聴かせることも大きな特徴だったと語る。また、リバイバル的なイベントでは当時の来場者が集まり、スマートフォンで撮影するよりも、とにかく踊り、飲み、自己解放している人が多いと話す。

山野は、Cyber TRANCEを日本のダンスミュージック史において、クラブスタイルとディスコスタイルの双方に柔軟に対応できるスキルとチームワークを持ったレジデントDJ陣が作り上げた、唯一無二のパーティーコンテンツだと位置付ける。あの時代を一言で表すなら何か。山野は、チームとしては「疾走」だったとしながら、個人的には「安堵」だったと語る。velfarreが厳しい時代を経ていた中で、オーディエンス、スタッフ、DJ、制作陣、業界関係者が全力で楽しんでいたことが心から嬉しかったという。

Cyber TRANCEは、単なるトランスイベントではなかった。ヨーロッパで発展したトランスという音楽を、日本のクラブ、ディスコ、CD、メディア、ファッション、若者文化と接続し、独自の形で大衆化したプロジェクトだった。25年を経た今も、その楽曲や記憶が語られ続けていることは、当時の熱狂が一過性の流行に留まらなかったことを示している。

Cyber TRANCEの25年は、過去の回顧だけではなく、クラブカルチャーが世代を超えてどのように受け継がれていくのかを示す記録でもある。

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◾️25周年記念 velfarre「Cyber TRANCE」
2026年7月19日(日)
会場:SEL OCTAGON TOKYO
OPEN 20:00 / CLOSE 04:30
LADIES ¥2,000 / 1D GENTLEMEN ¥3,000 / 1D
HEADLINERS TETSUYA | DRAGON | REMO-CON | MITSUKI Main Floor DJs Overhead champion | OPP | MIKI