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1978年12月2日 カナダはブリティッシュ・コロンビア、ヴィクトリア生まれ。家系としてのオリジンはポルトガルにある。祖父の兄弟がポルトガルで高名なマーチング・バンドの作曲家、父親がポルトガルの民族音楽ファドのミュージシャン、母親も歌手という音楽に恵まれた環境で育つ。

4歳の頃には英語、ポルトガル両語で歌いはじめ、ギターやウクレレ、トロンボーンを習い始める9歳(ジャズ・マーチング・バンドのトロンボーン奏者もやったという)の頃には本格的に音楽にのめりこんでいく。当時の彼女は、マライア・キャリー、TLC、Jodeci、ソルトン・ペッパ、ベル・ビヴ・デヴォーなどのメインストリームのR&Bを好んで聴いていたが、兄の影響で、パルプ、オアシス、レディオヘッド、ポーティスヘッド、ザ・ヴァーヴ、U2などロックにも触手が伸び、同時にブラジリアン・ミュージック、カエターノ・ヴェローゾ、アントニオ・カルロス・ジョビンやヌスラット・ファテ・アリー・ハーン、ボブ・マーリー、そして後の彼女に大きな部分を占めるヒップホップまでにもその興味は及び、幅広い音楽を自然に、かつ貪欲に吸収していく。

16歳の頃にはスタジオでレコーディングを開始、友人のグループなどへのライヴ参加で、印象的な声とそのオリジナル曲の魅力をアピール、徐々に話題となっていった。

一方、ネリーは音楽を創造していくということに重要な核となる精神形成に大きな影響を受けたことに学生時代8回の夏休みを祖母とともにホテルのハウスキーピングをして過ごしたことを挙げる。その経験は彼女に「生計を立てるということ」の意味を染み込ませたという。

高校卒業と同時に彼女は、トロントに向かう。昼間はアラーム会社で働き、夜は自ら結成したネルスター(Nelstar)というヒップホップ・デュオでクラブ・パフォーマンをするなどの経験をつんでいく。その音楽性はデ・ラ・ソウルやディガブル・プラネッツといったヒップホップ・アーティストに影響を受けていたモノだったという。この頃から彼女はメロディーにライムを乗せていくヒップホップ的な作曲方法に居心地の良さを感じ始める。

そんな中、週末のクラブでのパフォーマンスが話題になり始める。そのパフォーマンスにいたく感動したカナダを代表するファンク・ポップ・グループ=フィロソファー・キングの中心メンバーであるブライアン・ウェストとジェラルド・イーストンが彼女のデモをプロデュースしたいと申し入れしてきたのだ。

断る理由もないネリーは早速彼らとスタジオ入り、そのセッションからは、後に2000年リリースされ絶大な評価を受けることになる彼女のファースト・アルバム『ネリー・ファータド!』に収録される曲が次々と生まれていくことになる。

そして当然のように起こった契約争奪戦の末、そのアルバム・リリースの権利を獲得したのはドリーム・ワークスであった(現在レーベルは解体、インタースコープ傘下にあるゲフィンがハンドリングしている)。ネリーは99年、デビュー前にして女性ミュージシャンの祭典「リリス・フェア」に参加、大きな注目を集めるなか'00年10月 『ネリー・ファータド!(Whoa, Nelly!)』でデビューを果たす。米誌『ローリング・ストーン』、『SPIN』などから「2001年最も注目のアーティスト」として取り上げられる。そこからのセカンド・シングル「アイム・ライク・ア・バード」は、全米チャート最高位9位、全英チャートでは初登場5位を記録。この流れを受け、オーストラリア、アイルランド、ドイツ、フランス、イタリアなどでも軒並みTop10入り、新人としては異例の抜擢と言える"ディーヴァズ・ライヴ"にアレサ・フランクリンらと共に共演、U2のアメリカ公演の前座を務めるなどめまぐるしい勢いで"時のひと"となっていく。またその年には初の単独USツアーを慣行するとともにサード・シングル「ターン・オフ・ザ・ライト」もヒット、アルバム・セールス240万枚を売り上げたアメリカを筆頭に各国でプラチナ・ディスクに輝き、結果全世界で600万枚のセールスを記録した。またそのアルバムではカナダのグラミー賞と言われる ジュノー賞、最優秀レコード、最優秀アルバム、最優秀新人、最優秀ソングライターの4部門を受賞。グラミー賞では、最優秀新人、最優秀ソング(「アイム・ライク・ア・バード」)、最優秀ポップ女性ヴォーカル、最優秀ポップ・アルバムの4部門でノミネートされ、最優秀ポップ女性ヴォーカルを受賞、その授賞式では、「アイム・ライク・ア・バード」をスティーヴ・ヴァイとの共演で行い、印象的なパフォーマンスを披露した。

その頃からミュージシャンからも大きな注目を受け、ヒップホップ/クラブ・シーンからはティンバランド、ミッシー・エリオット(彼女の代表曲「ゲット・ユア・フリーク・オン」のリミックスは衝撃を与えた)、ジュラシック5、ザ・ルーツ、ミス・ジェイド、ポール・オークンフォールド、ワールド・ミュージック・シーンからはラテン・シーンのスーパースター、フアネスなどのアルバムに多数ゲスト参加を果たし、また同時にレゲエDJのミックス・テープなどにも多くサンプリングされるなどジャンルを越えたファンをつかんでいく。

それから約2年半をかけ2003年11月にはセカンド・アルバム『フォークロア』を発表、そのリリースから2ヵ月後、第1子愛娘のネヴィスが誕生する。このことが結果、クリエイティヴ面へ大きく影響、より根源的な自身のルーツ探しへと繋がりサウンド的にはオーガニックでフォーキーな面が全面に出るアルバムとなった。また育児が本作のツアーやプロモーションにブレーキをかけてしまったため前作を下回るも、セールスは全世界で120万枚(アメリカ40万)を記録した(そんな中、日本ではプロモーション来日も果たし、ファースト・シングル「パワーレス」は記録的なオンエアを獲得し、セールスも唯一前作を上回った)。

またアルバム収録曲「フォルカ」はサッカー"ユーロ2004"のテーマ曲になり、ポルトガルでの決勝戦で彼女はパフォーマンスも果たしている。

またフアネスとデュエットした「フォトグラフィア」(フアネス『』収録)は、ラテン・シーンでは2003年の大ヒットを果たし(ビルボード・ラテン/ポップ・エアプレイで1位を獲得)、BMIのラテン・ソング・オブ・ジ・イヤーをも受賞した。

2005年、ネリーは再びスタジオに入る。ロス・アンゼルス、マイアミ、イギリス、トロントでレコーディングは進み、プロデューサーにはファレル・ウィリアムス(ザ・ネプチューンズ)、ティンバランド、スコット・ストーチ、トラック&フィールドと40曲以上のレコーディングが行われた。どれを削っていくかに悩んだ結果、ほとんどがティンバランドのプロダクションで占められる本人曰く「ユーリズミックスのような、ビートとキーボードのみのシンプルな音。」のアルバムが完成。ゲストにはティンバランドのほか、朋友フアネス、コールドプレイのクリス・マーティンもコンポーザーとして参加。そしてそのタイトルは "解放"を意味する『ルース』と名づけられた。

2009年にはスペイン語のアルバム『Mi Plan』を発表、2010年2月12日には、バンクーバーオリンピック開会式にブライアン・アダムスとともに登場し、「Bang the Drum」をデュエットした。

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