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ヴァン・ダイク・パークスほど "アメリカ" のポピュラー・ミュージック史を語る上で特異であり、そして重要なアーティストはいないだろう。'72年発表のアルバム・タイトルである「ディスカバー・アメリカ」の名の通り、30年以上に渡る活動は一貫して失われたアメリカを探し求め、再構築していく試みであったといえる。 ヴァン・ダイク・パークスは'43年1月3日、4人兄弟の末っ子としてミシシッピ州ハティスバーグで生まれる。パークス家は長い間音楽に携わってきた家系であり、そのせいで幼少の頃から世界の様々な音楽に親しむようになる。また彼はMGMの子役スターとして、子供の頃から多数の映画やドラマに出演するようになり(一番最近では『ツイン・ピークス』の最終回に弁護士役で出演している)こういった体験がのちに彼の演劇的、映画的な音楽性に繋がっていく。 '58年にカーネギーメロン音楽大学に入学しクラシック・ピアノを学んだ後、兄のカーソンと一緒にロサンゼルスに移り住む。コーヒーハウスなどで演奏する傍ら、ディズニー映画のサウンドトラックのアレンジを手掛けるなど、早くもマエストロぶりを発揮する。'63年頃までには兄とのバンドで週750ドルを稼ぐまでになり、次第にロックの現場からも仕事のオファーが舞い込むようになった。 ボブ・ディランを初めて聴いた時「彼に歌えるのなら自分にも出来る」と確信し、アーティストとして自分を売り込むことを決意。ディランのプロデューサーであったトム・ウィルソンの掛け合いで、'64年から'66年にかけてMGMレコードからザ・ヴァン・ダイク・パークスという名義でシングルを数枚発表している。 ヴァン・ダイクとブライアン・ウィルソンがテリー・メルチャーの紹介で知り合ったのは'65年のこと。ブライアンの要請でニュー・アルバム『スマイル』に作詞家/プロデューサーとして参加することになる。ブライアンは『スマイル』の版権を50パーセント譲ると言う程までにヴァン・ダイクの才能に賭けていたが、結局ブライアンのドラッグ依存による精神混乱、メンバーとの音楽的な対立などにより、ヴァン・ダイクは制作途中で降板してしまう。しかしこの時に共作された「サーフズ・アップ」や「英雄と悪漢」などは、その後のビーチ・ボーイズの作品の中で部分的に発表され、そのイマジネーション溢れる歌詞は高く評価されることとなった。 '67年、ワーナー・ブラーザーズ・レコードとソングライター/アレンジャーとして契約を結ぶ。ワーナーのA&Rマン、レニー・ワロンカーはヴァン・ダイクの才能に完全に惚れ込み、2人はモジョ・メン、ボー・ブラメルズ、ハーパーズ・ビザールといったグループの作品で、バーバンク・サウンドと呼ばれる大胆なオーケストラによる白昼夢のようなサウンドを確立させた。'68年には初ソロアルバム『ソング・サイクル』を発表。ハリウッドの映画音楽やアメリカのフォーク・ミュージックを見事にコラージュし、更にそれをポップスに昇華させたコンセプチャルな内容は、シカゴ音響派のアーティストなどへの影響を持ち出すまでもなく現在にも十分機能するものだ。 その後'72年の『ディスカバー・アメリカ』、'75年の『ヤンキー・リーパー』では、カリプソやニューオーリンズ的リズムに傾倒し自身の音楽地図を南部まで広げた。はっぴいえんどがわざわざ日本からやってきて「さよならアメリカさよならニッポン」をヴァン・ダイクと共作したのもこの頃である。更に'83年の『ジャンプ!』ではミンストレル・ショウ(19世紀後半に流行った黒人の歌や踊りのショウ)の形式で南部民謡を再現してみせ、'89年の『東京ローズ』ではハリウッド的オリエンタリズムで日米関係を描いて見せた。そして '95年の『オレンジ・クレイト・アート』では失われたカリフォルニアの風景へのオマージュを、ブライアンとの共演で展開している。最新作は'96年にサンタモニカの名門フォーク・クラブ、アッシュ・グローヴで行われたライブ盤『ムーンライディング~ライブ・アット・ザ・アッシュ・グローブ』で、キャリアの集大成的な選曲になっている。'99年6月には'88年以来2度目の来日を果たし「英雄と悪漢」などを演奏、ファンを喜ばせた。また近年はシェリル・クロウやフィオナ・アップル、クーラ・シェイカーのアルバムなどでストリングス・アレンジを担当し、その才能は世代を超えている。