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元は浪曲師であり、浪曲に題材を取った歌謡浪曲を得意とした。
ファンサービス精神旺盛で、「お客様は神様です」というフレーズでも知られる。男性歌手としては初めてステージの衣装に着物を使用した。和服で歌う初めての男性歌手といわれている。
敗戦を満州で迎え、1949年帰国。浪曲師として復帰して活躍後、1957年6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。1958年、第9回NHK紅白歌合戦に初出場。
1960年からは歌手としては初の、歌手が座長の大劇場の1か月公演を行う。以来、1月は名古屋、3月は大阪、8月は東京の公演を20年連続で定例月に公演した。その中でも歌舞伎の殿堂である東京の歌舞伎座の1か月の公演は三波以外の歌手は行っておらず、特筆に値することである。
日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」を歌ったことで1970年、リベリアで発行された日本万国博覧会を記念した切手に登場した。日本の芸能人が海外の切手に登場したのはこれが初めてのことであった。
1986年の第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録の29年連続29回目の出場を果たす。
1992年、シングル『ハウスおまんた囃子』(House Omanta Bayashi)でハウス・サウンドを導入。"HARUO IN DANCE BEAT"なるライヴ・イヴェントでは電気グルーヴと共演。シングル『ジャン・ナイト・じゃん』(フジテレビ系深夜アニメ『スーパーヅガン』ED曲)ではラップにも挑戦して話題となるなど、ジャンルに囚われない精力的な音楽活動を展開した。1999年12月31日、第50回NHK紅白歌合戦へ10年ぶり31回目の出場を果たすが、この回が生涯最後の紅白出演となった。
2001年4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去。77歳没。
生前に発表した楽曲数は1,058曲。
ファンサービス精神旺盛で、「お客様は神様です」というフレーズでも知られる。男性歌手としては初めてステージの衣装に着物を使用した。和服で歌う初めての男性歌手といわれている。
敗戦を満州で迎え、1949年帰国。浪曲師として復帰して活躍後、1957年6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。1958年、第9回NHK紅白歌合戦に初出場。
1960年からは歌手としては初の、歌手が座長の大劇場の1か月公演を行う。以来、1月は名古屋、3月は大阪、8月は東京の公演を20年連続で定例月に公演した。その中でも歌舞伎の殿堂である東京の歌舞伎座の1か月の公演は三波以外の歌手は行っておらず、特筆に値することである。
日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」を歌ったことで1970年、リベリアで発行された日本万国博覧会を記念した切手に登場した。日本の芸能人が海外の切手に登場したのはこれが初めてのことであった。
1986年の第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録の29年連続29回目の出場を果たす。
1992年、シングル『ハウスおまんた囃子』(House Omanta Bayashi)でハウス・サウンドを導入。"HARUO IN DANCE BEAT"なるライヴ・イヴェントでは電気グルーヴと共演。シングル『ジャン・ナイト・じゃん』(フジテレビ系深夜アニメ『スーパーヅガン』ED曲)ではラップにも挑戦して話題となるなど、ジャンルに囚われない精力的な音楽活動を展開した。1999年12月31日、第50回NHK紅白歌合戦へ10年ぶり31回目の出場を果たすが、この回が生涯最後の紅白出演となった。
2001年4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去。77歳没。
生前に発表した楽曲数は1,058曲。
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