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R&Bのスーパースター、Commodoresに15年間在籍していたLionel Richieだったが、''82年に独立し、ソロとして活動を始めてからは、かつてのファンキーなスタイルの面影を見せることなく、万人向けのバラードシンガーとしての道を進んでいる。アラバマ州出身の彼は、バラードスタイルで数々のヒット曲を生み、''80年代に何度もチャートのトップに輝いたが、''80年代が終わる頃には姿を消すことになってしまった。

Commodores以外の世界でLionel Richieが成功を味わったのは、''80年にKenny RogersがLionel Richieの曲“Lady”をカヴァーし、それがナンバー1ヒットとなった時が初めてである。Lionel Richie自身がチャートの1位を獲得するヒットを出したのは、翌''81年。映画『Endless Love』のサントラからシングルカットされた、Diana Rossとのデュエット曲“Endless Love”が1位に輝いたのだ。

デビューアルバム『Lionel Richie』からも“You Are”や“Truly”が大ヒットしたが、本当の意味でチャート席巻したのは、''83年に出た『Can''t Slow Down』アルバムだ。アップテンポのポップソングと、Lionel Richieのトレードマークとなった感動的なバラードが詰まったこのアルバムは、1年間にわたってチャートを独占した。さらに、このアルバムからは、目の不自由な少女をテーマにした涙なしには見られないビデオで評判となった“Hello”が大ヒットとなっている。

''85年には、Michael Jacksonと共に、“We Are The World”を作曲している。これは、アフリカの飢饉を救うためにイギリスで制作された“Do They Know It''s Chirstmas”に対し、アメリカから呼応する形で制作されたもので、大勢のスターが集まったレコーディングにはLionelも参加して1節を歌っている。さらに、同じ趣旨のもとイギリスで行なわれたLive Aidコンサートにも、数少ない黒人アーティストの1人として、Lionelが出演している。

''85年の終わりには“Say You, Say Me”がナンバー1ヒットとなり、''86年にリリースされたアルバム『Dancing On The Ceiling』も、再びチャートの1位に輝くこととなった。しかし、こうして彼がピークを迎えている間に、彼のキャリアはほころび始めていた。''86年には、彼の妻が、夫とその愛人を襲ったとして逮捕され、''89年には声帯にポリープが見つかる。このため、彼は3年間にわたって手術と治療を余儀なくされることになる。

Lionel Richieがようやくシーンに復帰したのは''92年のこと。『Greatest Hits』からシングル“Do It To Me”をカットしてはみたが、反応は静かなものだった。プロデューサーにJimmy JamとTerry Lewisを起用して、スムースなそのサウンドを現代風にしようと試みたニューアルバム『Louder Than Words』がリリースされたのは、それからさらに3年後の''95年だったが、彼の努力にも関わらず、チャートで往年の成功を再現することは出来なかった。映画『The Preacher''s Wife』に出演した時の演技が好評だったことを考えると、彼にはもう1つ別の道に進むことを考えるタイミングかもしれない。

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