「M-SPOT」Vol.036「特別編:シューゲイザーとは?」

2025.10.07 20:00

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今回は特別編、テーマは「シューゲイザー論争」だ。インディペンデントを中心としたライブハウス界隈でも、一時のシティポップ・ムーブメントも少しずつ落ち着きを見せ収束しつつつある状況下にあって、「熱量のある次のムーブメントは何なのか論争」がある。

「今このジャンル熱いね」「ここ、すごいムーブメント起きてるね」というような目立った動きではないにせよ、ネット上のタイムラインでは、「これはシューゲイザーなのか」「シューゲイザーじゃないのか」といった舌戦に発展することもあり、なかなかの盛り上がりを見せていたりする。

そんな中で、当「M-SPOT」にてレギュラーで登場しているナビゲーターTuneCore Japanの野邊拓実から届いた、シューゲイザーをもっと深くもっと楽しく、さらなる一歩を歩みだす投稿を掲載しよう。

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Xを中心に、僕の周囲では「シューゲイザー論争」ってのが盛り上がりを見せています。

どんな論争かというと、1990年代UKで聴かれていたMy Bloody ValentineやSlowdive、Rideなんかを「真のシューゲイザー」とする原理主義的なシューゲイザーファンと、昨今の日本で普及されつつある羊文学やkurayamisakaといった、音色の使い方にシューゲイザー風味を感じる女声ボーカルのオルタナティブロックバンドを「シューゲイザー」にカテゴライズする自由主義的なシューゲイザーファンが、シューゲイザーの定義を巡ってそれぞれ意見表明をしている状態ですね。

今現在はその中間に、Supercarは認めるけど羊文学・kurayamisakaは認めない、みたいな原理主義とまではいかない「保守派」まで出てきている感じで、大変面白いです。

僕の立場を最初に表明すると、僕は「そういう議論をみんなでいつまでもしていたい派」というか、もうそういう議論が盛り上がって、みんなが音楽のことやカルチャーのことを真剣に調べたり考えているのを見ているだけで嬉しいみたいな「ROM専」ですね。

シューゲイザー論争の詳細を分解すると、大きくはシューゲイザーというジャンルを成り立たせている以下の2つの軸が論点なのではと解釈しています。

(1)エレキギターのサウンド作り

いわゆる「シューゲイザーサウンド」と呼ばれるギターの音作りは、音が過激に歪む「ファズ」と呼ばれるエフェクターを使用しつつ、音を繰り返すやまびこ効果を加える「ディレイ」や教会で鳴らしたような残響音を加える「リバーブ」といった「空間系エフェクト」を多用し、音から輪郭を徹底的に奪って滲ませる手法が基本です。

(2)ボーカルの存在感

黎明期のシューゲイザーでは、ボーカルは他の楽器陣に溶け込むように存在感が希薄です。朗々と歌い上げるボーカルスタイルとは対局で、歌を中心に楽器が盛り上げていると言うより、囁くような人間の声がノイズの中にうっすらと乗っているような感覚。このボーカルが曖昧なサウンドデザインが、意識の混濁に近い陶酔感を助長しています。

【参考】シューゲイザー黎明期の代表格にして頂点とも目されるMy Bloody Valentine

My Bloody Valentine

上記を前提にM-SPOTにエントリーいただいた楽曲の中でプロフィールに「シューゲイザー」という言葉が入った楽曲を聴いてみました。原理主義的なシューゲイザー、原理主義的とは言えないけど実はシューゲイザーの思想が色濃く見られる保守派的シューゲイザー、そして解釈の分かれる自由主義的なシューゲイザーという順番で紹介していければと思います。

●デリバリー神様「例えば、春」

デリバリー神様

まずは比較的、原理主義的なシューゲイザーに近しいと感じた1曲。歌の構成やメロディー感から日本の歌ものバンドが主軸にあるのが見えて、「シューゲイザーってこんな感じだよ」という入門的にも聴きやすい楽曲ですね。過度なくらいサステインとリリースの値が大きいリードギターにノイジーなバッキング、そして元の声質と空間系エフェクトが混ざり合って背景に溶け込むようなボーカルと、かなり原理主義的なシューゲイザーに忠実だなと感じます。さらに言えば現代でシューゲイザーを名乗るバンドにありがちなシンセサウンドやピアノサウンドは無く、議論の余地もあまりなく真っ直ぐなシューゲイザーだと感じます。


しいてシューゲイザーの文脈の中でのこの楽曲の独自性の話をすると、シューゲイザーってなかなか同じフレーズやセクションを繰り返しがちで、それが陶酔感につながっていて心地良いという側面もあるとは思いますが、初めてシューゲイザーに触れる人には冗長で退屈な音楽と聴こえてしまうこともあるというウィークポイントも持ち合わせています。その一方でこの「例えば、春」という楽曲は、サビ以外で毎度違った楽曲の展開を見せていて、サウンド的にはシューゲイザーなのに、展開は昨今のJ-POPにも通じるような、シューゲイザーの退屈感を払拭するアプローチが見えるわけです。完全に勘だけど、ちゃんとライブ活動をやっているバンドの工夫なのではと、僕は睨んでいます。30分間の短いライブ時間のあいだ、シューゲイザーの良さを伝えつつ、お客さんに退屈を感じさせないという気概を、僕は勝手に見出しているわけです。

まだ1曲しかリリースしていないバンドみたいなので、今後どういう展開を見せるのか楽しみだなと思っています。このままもっとシューゲイザーを突き詰めていくのか、あるいは他の要素や音色を足していって脱シューゲイザーしていくのか、今後も追っていきたいですね。

●Wednesday Wonderland.「Don’t Worry」

Wednesday Wonderland.

シューゲイザー関係なく、けっこう僕の音楽的なツボを突いてきていて紹介したかった楽曲です。ポストロックが盛り上がっていた2000年代~2010年代の香りがして、かなり好きですね。僕が「2000年代」って言われて思い浮かぶのはけっこうこういうサウンドなので、これこそ(僕の中では)本当のY2Kじゃんって思ったりもしています(笑)。


メインで使われている音色やリズムセクションにシンセ感があるので、一聴すると「シューゲイザーではないだろ」と思いがちですが、楽曲の途中から背景で鳴らされるノイズはシューゲイザーの”壁”的なサウンドの影響が伺えるし、ボコーダー的なボーカルは生のボーカルより肉感性が薄れて楽器とフラットな位置関係を築くアプローチにも聞こえる。実はシューゲイザーの大きな特徴である「ノイジーなサウンド」と「存在感を希薄にしたボーカル」という十分条件を押さえていて、原理主義的なシューゲイザーではないものの、「シューゲイザーの別解釈」「別世界線のシューゲイザー」という視点で聴いても楽しめます。

あと、ノイジーなサウンドとの対比のようにクリーンなサウンドを登場させる音使いの手法だったり、EPや楽曲自体に長ったらしいタイトルのものがあったりと、やっぱりMogwai以降の2000年代のポストロックの流れの中にあったシューゲイザーリバイバルの影響が見えます。僕の大好きな作品にMogwaiの2001年のアルバム『Rock Action』という名盤があるんですが、近い空気が感じられます。好きですねぇ。

●hail lain「I stand alone」

hail lain

3つめには自由主義的な態度だなと感じるバンドを。以前の記事でも紹介したんですが、シューゲイザーとポップスを融合させて「誰でも聞きやすいシューゲイザー」をコンセプトとして表明しているバンドです。まさしく今、論争になっているのってこういうバンドなんじゃないかと思うんですよね。

最近、日本でも「シューゲイザー」という言葉が浸透してきている感じがあって、特に僕がよくいる下北沢のライブハウスシーンでも自身でシューゲイザーを表明していたり、名乗っていなくても影響元を辿っていくとシューゲイザーがあるんだろうなと思わせるバンドにちらほら出会えます。

ジャンルだろうとコミュニティだろうと、あるいは会社なんてのもそうだったりしますが、裾野が広がっていくと元々の思想やカルチャーを良い意味でも悪い意味でも踏襲しない人たちが現れます。元々を知っている人たちの視点ではそれはコンセプトの希薄化に見えますし、逆の視点から見るとそれは形骸化されたものを捨てて新しい地平を切り開こうとする“更新”でもあるので、良いことでも悪いことでもなく、ただ好き嫌いの話だよなと思ったりします。

実は以前の記事で紹介したあとで、僕のやっているバンドがこのhail lainと対バンしたんですよね。実際に会ってみたらお若そうな方々で、1980年代後半~1990年代という当時から見ると子どもどころか孫くらいの世代かもしれません。いや僕もそう変わらないんですが(笑)。地理的にも時代的にもかけ離れたバンドである以上、よほど思想のレベルで心酔していない限り、そりゃ”更新”の立場に立つのが自然な態度だよなとも思いました。

で、今回の楽曲「I stand alone」ですが、序盤はクリーンサウンドを基軸としつつ空間系を感じる音作りで比較的爽やかなポップロックを展開し、後半あたりで怒涛の轟音を鳴らしてきます。轟音の使い方が高揚感と陶酔感に溢れていて、良いですね。エモいです。この轟音部分だけを切り取ればシューゲイザー的であることに間違いはないのですが、「シューゲイザー」を正面から名乗るには、歌の存在感がありすぎてしまっているわけですね。昨今のシューゲイザー論争の多くは結局のところこの「ボーカルの存在感がしっかりある」というのをシューゲイザーと認めるのか認めないのかというところに線引があるような気がしています。


僕個人の判断でも、My Bloody Valentine等の原理主義的なシューゲイザー、仮にUKシューゲイザーと呼びますが、それとは別物と捉えるべきだよなと思います。ジャパニーズシューゲイザーやシューゲポップなんて呼称は既に存在しているものですが、厳密に語るのならばちゃんとその系譜としてUKシューゲイザーとは別の呼称を使うべきなのかもしれません。

ただ、大元にUKシューゲイザーがいる、末裔ジャンルであることは間違いないので、これらを「シューゲイザー」という大きな括りで捉えることが間違いだとは僕は思いません。

結論シューゲイザー論争というのは、こういう「広義のシューゲイザー」と「狭義のシューゲイザー」の差分で揉めている話なわけですね。前提が違うんだから噛み合わないのは当たり前だよなぁと思います。

音楽ジャンルの話って、誰もが思っている以上に難しいものだと思います。複数のアーティストが出揃ってから、そこに共通項を見出して第三者がラベリングすることがほとんどで、うろ覚えですが「シューゲイザー」というラベリングも例に漏れずそんな成り立ちだったと思います。この際に問題なのが、多くの場合でこのラベリングは厳密な定義とともに行われていないって点なんですよね。「仮にこういう昨今の音楽に見られる◯◯なムードの音楽を△△と呼ぶとして」みたいな一文程度で後世に残るジャンル名が生まれたりしていて、ここで書かれている“こういうムード”って言葉から連想するイメージが読み手によって違ったりしています。生まれた瞬間から複数解がある場合もあるってことですね。

ただジャンル論を楽しむために本質的だと思う話をひとつ示しておくと、ひとつのジャンルとして成立する背景にはほとんどの場合、そのムードが世間に受け入れられた状況があります。シューゲイザーが台頭した1990年代初頭のUKでは、失業率が爆増していたり経済格差がかなり開いたりで、貧困層が困窮していたり若者が明るい未来を描けなかったりってムードが社会に広がっていたようです。つまり社会に希望を見出せなかった彼ら彼女らが、退廃的で自己陶酔に浸れる音楽にハマっていったという社会的事象が、シューゲイザーの本質なんじゃないかと。当時のUKの状況は、経済格差だったり大きく未来に期待できない若年層だったりといった今の日本の状況と被る印象も多い気がしていて、その結果、今、退廃的で自己陶酔に浸れる音楽が日本で普及しつつあるというのは、筋が通った話だなと思うんです。その視点では、いま普及しつつあるジャパニーズシューゲイザーの末裔たちは、全然ちゃんとシューゲイザーじゃんって思ったりもしますね。

と長々と語ったところでこの話を終えたいと思います。本当のところは他にもいろんな変数があるのでわかりません。単純に「シューゲイザー」って名前がカッコ良すぎてみんな名乗りたいだけかもしれないですし(笑)。「エモ/スクリーモ」だったり、「メタル」なんかにもよく起こる議論なので、単なるコミュニケーション上のすれ違いなだけで、明確な答えはない話なのでしょう。

ただこういう議論が、音楽そのものだけじゃなくて、そもそもジャンルって何だ的な、奥にある本質に触れるキッカケになれば、「じゃあ私はそのムードに共感するからこれを踏襲しよう」とか「俺はそれとはちょっと違う部分もあると思うから、この領域を飛び越えてみるぜ」ってな感じで、音楽をつくる人たちにとって表現すべき核が生まれたりもするので、良いことだなと思います。もっとみんなで語り合って、「じゃあ僕たちアーティストはどうする?」ってところまで考えられるのであれば、有意義以外の何物でもないですよね。

記:野邊拓実(TuneCore Japan)

協力◎TuneCore Japan
取材・文◎烏丸哲也(BARKS)
Special thanks to all independent artists using TuneCore Japan.

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