【インタビュー】ダミアン浜田、第III聖典『魔界美術館』、「全ては計画的犯行なのだ」
ダミアン浜田陛下
11月11日、都内某所にてダミアン浜田陛下に話を聞いた。その隣にはさくら“シエル”伊舎堂も同席している。それはちょうどDamian Hamada's Creatures(以下D.H.C.)の第III聖典『魔界美術館』が世に出た翌日のこと。この作品は、陛下自身の過去楽曲を、長い時間を隔てながらD.H.C.として蘇らせた画期的もの。同作のことを軸に話を進めていくうちに浮き彫りにされたのは、この両者の出会いがどれほど運命的なものであったということだった。その際の会話の一部始終をお届けする。
──早速ですが、新たな聖典が昨日発表され、幸先の良いスタートを切っています。まずはその反響についてどのように感じておられるかをお聞かせください。
ダミアン浜田陛下:インターネットで見たところメタル・ランキングの1位を頂戴しておった。普通ならば「その結果に安堵している」とでも言うべきところなのだろうが、私としては予定通りの結果だ。まだまだこんなものではなく、オリコンの総合ランキングでも1位であるべきだと思っているし、それを目指してますます頑張らねばならないね。しかし購入者からの感想が早くも届き始めておるのだが、前2作以上に好評で、特にバンドとヴォーカルが非常に馴染んできている点、しかも音楽的にまったくぶれていない点が良いという声がとても目立っておった。それもまあ、当然といえば当然の結果ではあるのだが。
さくら“シエル”伊舎堂:早々にランキングの好調さをお聞きして本当に嬉しくて、「ああ、良かったな」という気持ちです。TwitterとかYouTubeのコメント欄を通じて寄せられる感想を見てみると、今、陛下も仰っていたように曲と歌が馴染んでいる点についての声もあって。今回の聖典の全楽曲は、陛下が前に一度出されてる曲、つまりすでに完成されているものをもう一度D.H.C.で、という作品なんです。だからファンの方、信者の方にとっては、一度は聴いている曲がほとんどなので。それをシエルとして歌い、D.H.C.として演奏した時に受け入れてもらえるのかどうかというのが最初はすごく心配だったんです。でも今回、「陛下ヴァージョンも好きですがD.H.C.ヴァージョンも最高です」とか「予想以上の仕上がりで驚いた」というような反響をいただいていので(溜息まじりに)「良かったーっ」と思って(笑)。ホントに安心しました。嬉しかったですね、認めてもらえたいうことなのかな、と思えて。
──過去と比べられてしまうという必然があった。その点においては未知の曲で構成されていた前2作以上にプレッシャーを感じていた部分もあったのではないかと察します。
さくら“シエル”伊舎堂
さくら“シエル”伊舎堂:そうですね。ホントにもうファンの方の多くが曲も歌詞も知っているという前提があったわけなので、前回以上のプレッシャーと闘いながらレコーディングしていました。
──陛下、このようなうら若き女性にそのようなプレッシャーを与えていたことは自覚されていましたか?
ダミアン浜田陛下:いやいやいや、そこまでとは。ただ、選曲の段階で少しは思っておったぞ。なかには原曲をデーモン閣下が歌っているものもあり、よく知られた曲も多い。しかしシエルならば私よりも上手に歌えるというのは確かだったわけで(笑)。ただ、キー設定がどうしても変わってしまうので、そのあたりで「イメージが違う」といった声が上がってくるのではないかとか、ギターについても改臟人間が弾いているわけなので当然パワー・アップしていてガッカリするような理由は一切ないはずだが、私自身が弾いていないこと自体に違和感を訴える声が上がってくるのではないかといった不安は無きにしも非ずではあった。ただ、結果的にシエルには試練を与えてしまうことにはなったが、昨年末に『第I章』と『第II章」が出てからの11ヵ月、ずっと試練の連続だったはずだとは思っておる。というのもあの2作が出た時には、どうしても「聖飢魔IIの創始者であるダミアン浜田率いる」といった謳い文句がドンと出てきて、信者を中心に、伊舎堂さくらのファン、金属恵比須のファンがまず聴いてくれたわけだ。しかしそこから1年置くというのは、聴く側としても冷静さを持つようになり、客観的な耳と目で判断をするようになる。だからまさに真価を問われる1年間だったと言えるし、シエルがずっとプレッシャーを感じていたとしても不思議ではない。それを与え続けてしまったな、という想いは私にもある。
──コロナ禍という事情もあったにせよ、いわゆるライヴ活動がなかったことも大きかったと思います。通常、新しいバンドが始動したとなれば、アルバム発表後には段階を踏まえながらライヴがあり、その中でファンも思い入れを強め、徐々に応援するモードになっていき、それが当事者のプレッシャーを緩和してくれる部分もあるように思います。
ダミアン浜田陛下:なるほど。確かにこれまでライヴは全然なかったからな。それどころか人前に現れる機会すらもなかった。
──受け手側からすれば『第I章』『第II章』の登場から時間だけが経ち、突然今回の『魔界美術館』が登場した、という印象でもあるはずだと思われます。陛下御自身は第3作としてこのような性質の作品を作ることをあらかじめ早期から計画されていたんでしょうか。
ダミアン浜田陛下:実は『第I章』『第II章」を出す以前から計画していた。Damian Hamada's Creaturesという名称を決める以前から、レコーディングだけでなくバンド形態でライヴ活動もするということは決まっていたのだ。私自身としては優秀な改臟人間たちを集めて作品を発表するだけで良いと思っていた。ところが侍従長がそれを許してくれなかった(笑)。「これは絶対にバンドでやるべきだ」とまで言われた。私は作品さえ出ればいかなる形態でもよかったので、それに同意したが、同時にライヴでは『第I章』『第II章」の全曲を演奏すればそれで終わりじゃないか、とも気付いていた。その時点でライヴでのレパートリーを充実させるために、私は3作目を出すのであれば絶対に自分の過去曲で構成したものにしようという野望を持ち始めていたのだ。誰にも言わずにいたがね。だから悪魔寺(事務所)と悪魔教会(レコード会社)からゴー・サインが出る以前から自分で勝手に3作目のデモ音源を作り始めていたぞ。当然ながらその時にはすでに女性ヴォーカルであることも決めていたし、声域についてもおよそわかっていたので、キーを調整しながら昔の楽曲たちを今一度入力し直して、さらにアレンジし直して、ギターについても当時よりもテクニカルにして…。そのような作業をずっと続けておった。
──かなり計画的な犯行といえそうですね。
さくら“シエル”伊舎堂:あははははは(笑)。
ダミアン浜田陛下:そうとも言える。悪魔教会と悪魔寺に話をしたのは魔暦21(2019)年の12月のことだったが、自分自身の作業はその年の8月には始めていた。
さくら“シエル”伊舎堂:初耳です(笑)、もうびっくりですね。そんなにも完全に陛下の掌の上で転がされていたなんて。
ダミアン浜田陛下:ふふふ。とはいえ『第I章』『第II章」のDVDを思い出して欲しいんだが、あの中で「諸君の知らない水面下で次の計画は進められているのだ」と私は公言している。
さくら“シエル”伊舎堂:しかしホントにそこまでちゃんと細やかな計画が練られているとは想像もしていなかったです。続けるということだけが決まっているのかな、という程度に思っていたのに、まさか選曲どころかキーまで決まっていたとは(笑)。
──シエルさんご自身としても今回の収録曲は知り尽くしたものばかりだったわけですか?
さくら“シエル”伊舎堂:ええ。もちろん知っている曲ばかりでしたし、曲目のリストをもらった時、閣下の歌ってらした曲が入っていることに気付いて「はーっ、陛下、意地悪だなあー」と思って(笑)。だから、まったく知らない曲たちに一から取り組むというのとは違っていましたけど、それとは違うプレッシャーが上乗せされているようなところがあったわけで、私としては前回よりも考えるところ、悩むところというのがたくさんあったし、新たな壁が次々と出てくる感じでもありました。
ダミアン浜田陛下:うむ。毎回、聖典制作に関してはチャレンジである、ということだ。
さくら“シエル”伊舎堂:そうですね。常に壁にぶち当たってきました。
──たとえば閣下が歌われていた原曲があり、しかもその曲に思い入れがあるとなると、そこに近付けていくことが正解のようにも思えてきますが、それと同じになってはいけないという意識も働き始めてしまうし、それが強くなり過ぎるとおかしなことになってしまう。
さくら“シエル”伊舎堂:そうなんですよ。そこがすごく難しいところで。私の場合、当初は「元からあるものに寄せなきゃいけないのかな?」っていう考え方がちょっと大きく出てしまってて、だからレコーディングの時も結構「寄せなくていいから」ということを言われながら録っていて。「あれが正解なわけではないから」と。そうした助言をいただきながらレコーディング中に少しずつ意識を変えていって、元々あるものを踏まえた時にどこだったらシエルらしさをもっと出せるのかというのを思い悩みながら…。だからホントにレコーディング前に悩み、歌を録っている最中にも悩んでましたね。
──シエルさんらしさ、シエルさんならではの色。陛下はどんなところにそれをお感じですか?
ダミアン浜田陛下:『第I章』と『第II章」が発表された時点で、ほとんど自分のなかでは今作のデモ音源ができていたわけだが、その段階ではAI(人工知能)が歌っている。すでにその時点で女性キーにしてあるため自分で歌えるキーではなくなっているからな。AIというのは、いわば歌謡曲のような歌い方をする。それを頭の中で「これをシエルが歌うとどうなるのか?」というのを脳内変換しながら…。というか脳内変換はそれ以前に選曲段階から何度も重ねてきている。まず自分の曲の音源があり、その中の自分の声のキーを上げて、それをさらにシエルの声に置き換えて、歌詞の内容も含めてどれが合うかな、というセレクトしていったわけだ。その時にシエルらしさ、シエルの強みは何か、ということを考えた時に、本人が意識しているかどうかはわからないが、少女のような可愛らしさと堕天使のような…腹黒さというか。
さくら“シエル”伊舎堂:はははは(笑)、今、めちゃくちゃ頑張って言葉を選ぼうとされてましたよね(笑)?
ダミアン浜田陛下:いや、まあ、では“腹黒さ”ではなく“狡猾さ”と言い換えてもいい。天使と、悪の化身のような両面を持っていると思う。それも不思議なところで「ああ、こういう声を出せるのか」と思わされてきた。しかも私の曲というのは非常にメロディアスであるというか、実際それを狙って作っているわけだが、シエルであればそのメロディに合うような、歌詞のストーリーに合うような歌い方ができるというのを感じておったから、そういうところをどんどん活かしていきたいと考えた。そして、とても重要なことがひとつある。それは歌詞の明瞭さだ。今、世に出回っているさまざまな音源の中で、いわゆる女性ヴォーカルで支持されているものでもなかなか歌詞が聴き取れないものが結構な割合である。冒頭から何を言っているのかわからないようなものも少なくない。だが、シエルの歌唱は、歌詞がきわめて明瞭に聴き取れる。これはデーモン閣下にも通ずるところがあるが、シエルの武器だといえる。楽曲のメロディアスさという部分にも繋がるところなのだが、ストーリー性を充分に発揮するためにはこれは非常に重要な要素であり、それを存分に活かして欲しいと思っている。そんなシエルが歌うのならば、抽象的な歌よりもやはり物語性のある曲のほうが好ましいなと思いながらこの9曲をセレクトした次第だ。まあ、それでもいろいろと悩んだがね。
──確かにシエルさんの歌唱は歌詞が明瞭に聴こえます。ご自身でもそれは常に意識して取り組んできたことなんでしょうか?
さくら“シエル”伊舎堂:そうですね。ストーリー性を持たせるうえでも歌詞が聴き取れるように歌うというのは、自分の中でも頑張りたいなと思っている部分だったので、今、褒めていただいてすごく…ニヤニヤしてるんですけど(笑)。陛下の歌詞とか曲っていうのはホントに物語の本を読んでいるような気持ちになるものばかりなので。陛下が頭の中で作り上げた世界観とか物語をどれだけその形のまま皆さんの前に持って行けるかというのが、私にとっていちばん大きな試練というか仕事だと思っているので。
──本当に大きな試練や課題ばかりが与えられてきたわけですね。
さくら“シエル”伊舎堂:あははは(笑)、でもそれによって自分の中でもその力が付いてきてるというか。枚数を重ねるごとに、曲数が増えていくごとにそれがあるので、今みたいなことを言っていただけて、ホントに頑張ってきて良かったなって思ってます。
──天使と悪魔の両面性みたいな部分については自覚していますか?
さくら“シエル”伊舎堂:そこはよくわかってないんですけど(笑)。多分、陛下の歌詞を歌っているうちにそういう感情が伴ってきてくれてるのかな、と。そんなふうに自分では思っています。
──なにしろ天使にも悪魔にもなったことないわけですしね。
さくら“シエル”伊舎堂:そうなんですよね。なにしろ改臟人間なので、どっちにもなれていないので(笑)。ただ、その改臟の過程の中でも、そういういろんな感情を出せるように引き出しを増やしていけてるのかな、と。
──歌詞にいろいろな感情が表現されているからこそ自分の感情も引き出されることになる、ということでもあるわけですね?
さくら“シエル”伊舎堂:陛下の曲、陛下の歌詞だからこそ出てきてる部分だと自分では思っています。
ダミアン浜田陛下:そういった自覚をこの若さで持てているのも素晴らしいことだ。22歳になったんだっけ? 世仮の22歳当時の私はこんなにしっかりしていなかったぞ(笑)。もちろんその頃にはすでに聖飢魔IIを結成してギターを弾いておったが、こんなに音楽に対して真摯な気持ちで取り組んでいたかな、と思わされる。
──陛下の野望から作られた今作ですが、そうした野望を持たれたのはやはりご自身の楽曲をより理想に近付け、アップデートした形で世に提示したいという積年の願望から、ということになるのでしょうか?
ダミアン浜田陛下:いやいやいや。まず、私の当初の世仮の人生設計としては10万60歳まで教職を務めあげて、まあ退職金などをもらい(笑)、毎日が日曜日のような悠々自適な生活を送り、あらゆるプレッシャーから解放されて、のんびりと過ごす、というのを思い描いていた。ところが、体力的にも精神的にも限界を感じて3年早く辞めてしまった。つまり予定よりも3年早く自由な時間が訪れ、そこから曲を作り始めて今現在に至るということになるわけだが、それは当初の設計図にはないことだった。だから「いつかアップデートする」ということについても「そんなことになってくれたらいいな」と考えていた程度のことだ。たとえば聖飢魔IIが曲をチョイスして何かをするとか、1曲2曲程度が将来的に形を変えて出ることになればいいなあ、という程度のかなり他力本願的な気持ち、願望とまではいかないささやかな気持ちだったように思う。ただ、そこに去年の2月にドッカーンといきなり火が付いたというわけだ。「今だ」とね。
──タイミングがひとつ訪れると「いつか、できることなら」と思っていたことが一度に形になり始めるということがありますよね。実際こうして作られてみて、過去曲と改めて向き合ってみて良かった、と感じておられるわけですよね?
ダミアン浜田陛下:もちろんだ。選曲し、アレンジをし直している段階からその感覚はあった。たとえばコードの付け方とかにしても、昔の自分は少々拙かったなと思うところもある。今ならこのような付け方はしないな、というところも多々ある。歌詞の内容にしても、以前から少しばかり気になりながらもそのままにしていたところを少し書き換えてみようか、というところもあった。家に例えるならば、長年住んでみて発覚した問題個所をリフォームをして自分が生活しやすい形に整えたようなものだと思う。それを実施して良かったと思っておる。
──外観はそのままに、一生暮らしていけるような家に。
ダミアン浜田陛下:そういうことだ。だから楽曲たちも本望なのではないかと思う。
──確かに過去を振り返った時に拙さや未熟さに気付かされることはどんな人にも多いはずです。逆に、過去のご自身を褒めたくなるような部分というのはありましたか?
ダミアン浜田陛下:ふふふ。まあ自画自賛にはなるが、それは結構あちこちにある。メロディにしてもアレンジ、リフにしても、これをよく考えて作ったものだな、と。今、同じテーマで作ろうとしたら現在の自分にこれが閃くだろうか、と思える部分もあった。まあ当時と現在とでは自分の感性にも若干違うところがあるし、経験も踏んできたわけで、それをより良い形にできるのではないかという自負はあった。そうでなければこのような作品を出しはしない。
──興味深いのは、『第I章』と『第II章」、そして今作については楽曲の制作時期に大きな開きがあるにもかかわらず、音楽的なギャップは感じられないことです。
さくら“シエル”伊舎堂:確かに、なかには私と同年齢ぐらいの曲があるわけですけど、全然古さはなくて、すべてが新鮮というか新しく感じられるものばかりで。歌っていても「この歌詞、このメロディ、古くさいな」という感覚は一切ないままでしたね。そういう意味では「以前の曲だから」という感覚ではなく、『第I章』『第II章」の曲たちと同じ気の持ちようというか「同じ陛下の曲」という感覚で歌うことができました。
──いかに陛下の音楽の根幹となる部分が変わっていないか、ということでもあると思います。
ダミアン浜田陛下:変わっていないね。恐ろしいぐらい変わっていない。おそらくこれから先も変わらないだろう。当然ながらいろいろ悩んでいるところもありはする。「このまま変わらぬままでいいのか?」と自問したくなるようなところも(笑)。このままずっと続けてたら、いつか飽きられるんじゃないか、と。悪魔教育の教材として果たしてそれでいいのだろうか、と思わされることもある。ただ、自分の中では「これでいいのだ」。
さくら“シエル”伊舎堂:陛下がバカボンのパパになっちゃった(笑)。
ダミアン浜田陛下:ただ、さきほどのシエルの言葉を訂正すると、いちばん新しい曲でも今から25年前のものなので、すべてはシエルが生まれる前の曲ということになる。だから『第I章』『第II章」と比べたら親子ほどの差がある。ただ、まだ親子程度の開きで済んでいるともいえるのだ。これが孫とか曾孫ということになると。このまま私が10万100歳ぐらいになっても聖典が出続けて第66聖典ぐらいまで進んでいたとしたら、さすがに音楽自体も少しは変わっているかもしれない。とはいえ悪魔からすれば、たかが20数年の話ではないか、ということではあるがな。
──悪魔の世界でもそうかもしれませんが、ことにこうした音楽を嗜好する人たちの間では20年や30年というのはたいした時間ではなく「90年代なんてつい最近のこと」みたいな感覚があるようにも思うんです。
ダミアン浜田陛下:確かに。ただ、それは私たちが歳をとったからでもあると思うぞ。たとえば自分がディープ・パープルやレインボーを聴き始めた世仮の10代半ばの頃、ディープ・パープルの『ライヴ・イン・ジャパン』というのはすごく前のライヴの記録のように思えたものだ。ほんの数年しか経っていないのにもかかわらず。そこで「俺がもうちょっと早く生まれていれば観に行けたのに」などと思ったものだ。私はメタルに興味が向かう以前にプログレッシヴ・ロックを聴いていたのだが、大好きなエマーソン・レイク&パーマーも自分が好きになる以前に来日していたことを知った。もう4~5年早く生まれていたら良かったのに、と思ったものだ。なにしろ私がファンになった頃には活動休止状態になっていたからね。『恐怖の頭脳改革』が出て3年ほど沈黙していた頃だった。バンドが沈黙しているにもかかわらず私はファンクラブに入ってしまったほどだった。
さくら“シエル”伊舎堂:すごい。
ダミアン浜田陛下:活動再開して来日したら絶対に観に行く、と思いながら。まあ余談が長くなったが(笑)、当時の自分には4~5年前というのがすごく昔のことのように思えていた。ただ、大学に入った頃には「長いな」とも思えるスパンは10年ぐらいに変わっていたように思う。経過年数に対して分母である自分の年齢が増えたからなんだろうが、そうこうしていくうちに30代、40代になっていくにしたがって“昔”というふうに思える時間的な隔たりの感じ方はどんどん変わり続けてきて、こうして2020年代になり、自分が世仮の60歳になっている現在、確かに1990年代というのはさほど昔だという気がしない。昔といえば昔だが。かつてザ・ビートルズの作品を遡って聴いた時に「たかが10年前のもの」という感覚ではなく「10年前というすごく昔のもの」と感じていたのとは違ってね。まあそこにはすでにザ・ビートルズが伝説になっていたから、というのもあるがね。
──ええ。同時に、その何十年という長期間の間に音楽の流行のサイクルも何周もしてきたわけですが、そこでオーソドックスなハード・ロック/ヘヴィ・メタルというのはずっと定位置にあり続け、まわりにあるものだけが変わり続けてきたようなところもあると思うんです。
ダミアン浜田陛下:ああ、なるほど。確かにそういうところはある。私はブリティッシュ・ロックがすごく好きで聴いていたわけだが、ほどなく英国においてはパンク・ムーヴメントが起きて、プログレッシヴ・ロックやハード・ロックはちょっと隅の方に追いやられてしまい、やや低迷していた時期があった。でも、その頃にアメリカ、もしくはイギリス以外のヨーロッパからさまざまな良いバンドが登場し始めたので、興味がそちらのほうに向かい、そうこうしているうちにまたイギリスからも良いバンドが出てくるようになったわけなのだが、そういった具合に常に世界中のどこかでメタルは地道に継続してきた。そういうところはあると思う。どんな流行が始まり、どんな事件が起こり、人間がどう変わろうとも、メタルはどこかで確実に生き続けている。しかもクオリティの高いものが。
──ただ、アーティストの中には飽き性の方も多いはずです。同じものを作り続けていくことに無理がある方たちというのが。
ダミアン浜田陛下:そこはよくわからないのだが、私の場合、まず大前提として、飽きない(笑)。
さくら“シエル”伊舎堂:そこだ(笑)。
ダミアン浜田陛下:そう、飽きるということがないのだ。だからシンセサイザーだとかクワイアだとかいろいろと要素を加えて昔よりも豪華な音になってはいるが、音楽的に変わっているわけではない。たとえば私はすでにこの7月には次のアルバムに向けてのデモ音源を完成し終えている。その曲たちを見てみると、実験的な試みはあるが新しい要素が皆無で中には昔の聖飢魔IIのようなスタイルのものもある。ただ、それを作った時に自分の中に物足りなさが残っていたかといえばまるでそんなことはなく、それはそのままであるべきだと思えた。もちろんそれをD.H.C.として出すにあたっては、バンド・メンバーたちと相談して「ここにこういう要素を入れたら面白いことが起こるかもしれない」という余地を残しておくことも大事だと思っているが、少なくともデモ音源としてはそれで必要十分だなと思えたわけだ。そんなことからも明らかであるように、自分がこれに飽きるということはないし、そこについて不安を覚えることはない。それとは関係なく、リスナーが飽きてしまうこと、そこは気にしている。そうならないようにするためにも新しい何かを取り入れるべきなのかと悩むこともないわけではない。ただ、そこについても結論は「これでいいのだ!」ということに落ち着いたのだ(笑)。
──音楽としてのジャンル感、音像のあり方についてはともかく、作るうえでの手法については変化を求める部分もおありなのでは?
ダミアン浜田陛下:たとえば聖飢魔II時代に作った楽曲と、『第I章』『第II章」、今回の音源というのには、同じメタルでもずいぶん違いがある。そこでの自分の中での大きな変化というのは、教員時代の経験によるものというのが非常に大きい。軽音楽部の顧問を長いこと務めておったのだが、それは自分が元々持っていた知識を生徒に教える立場に過ぎなかった。しかし教員というのは自分の得意分野ばかりを持ち場とさせてもらえるわけではなく、若い時分には軟式野球部や陸上部の顧問も務めてきた。そうした時期を経てようやく音楽方向に進んだわけだが、そこで受け持つことになったのが合唱部と吹奏楽部だった。そのふたつを手掛けてきたことによる経験が非常に大きかった。そこで得たものを自分なりに消化したからこそ『第I章』『第II章」、そしてアレンジをし直した今作のようなものができあがったというわけだ。よって、今後も何らかの経験から手法が変化することもあるかもしれないな。
──今様のテクノロジーの導入による変化というのはいかがでしょう?
ダミアン浜田陛下:それによって音楽性が変わったという実感はまったくない。ただ、ひとつあるとすればサンプリング音源の質だろうか。昔はひとつの音をサンプリングしたらそこで周波数をいじって音程を変えていく形が多かったものだが、さすがにそうして作られた音にはリアリティが欠けていた。ところが今はサンプル音源であらゆる楽器のすべての音階と奏法を収録したものがあり、クワイアについても同様で歌詞も入力できる。そういうことができるソフトを6年ほど前に手に入れたのだが、それをいじり始めたら面白くて止まらなくなるほどでな。だから、いわばそのサンプリング・ソフトにも影響を受けたとはいえる。自分から進んで何か開拓するというわけではなく、たまたま目に付いたもの、自分が経験してきたこと、それらを消化して動き始め、こうした一連の作品ができたということなのだ。ただ、これから先、よほど画期的なツールが目の前に現れるようなことがあればまた何かが変わるかもしれないが、それによって音楽自体が大きく変わることはない。そこについても「このままでいいのだ」ということになった。そのように自分を納得させておく(笑)。
──シエルさんが、他の音楽以上にハード・ロック/ヘヴィ・メタルに惹かれる理由というのはどこにあるのでしょうか?
さくら“シエル”伊舎堂:私自身が単純な人間なので(笑)、わかりやすいものに惹かれるところがあるんです。いい意味でわかりやすいと思うんですよ。リズムにしても歌詞にしても音にしても。実はすごくいろんな要素が入っているんですけど、パッと聴いた感じ、すごく大変なことをしてるような感じがなくて、とっつきやすいというか、そこで純粋に「カッコいい!」となるんです。で、ひとつそういう曲があると「ちょっと他の曲も聴いてみたいな」となる。私自身、そういう流れを経てきたんです。小さい頃にディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」を初めて聴いて、「あっ、この曲カッコいい」と思い、「この人たちの他の曲も聴いてみよう」って拡がっていったんです、もう単純に。だからすごくシンプルな気持ちで聴けるというか。しかもそうやって興味が拡がっていくことになったのも、すごくカッコいい曲をたくさん作っているバンドさんがたくさんいるからこそ。そうやってどんどん好きなものが増えていくし、だからといって最初に好きなものについて飽きてしまうわけでもない。だから私も陛下と同じで基本的に飽きないんです、好きなものには。いつでも原点みたいなところに戻ることができて、そこを一歩目としながら「じゃあ次はこっちに進んでみようか」という冒険をすることもできる。だから自分にとってはハード・ロックがホームなんです。
──わかりやすくシンプルな気持ちで聴ける。つまり、一聴した時の掴みが強いわけですよね。
さくら“シエル”伊舎堂:そうなんですよ。離してくれないんですよ、もう(笑)。しかも掘り下げ始めてみるとすごく深いところがある。そうやって新しく発見していくことが、またどんどん楽しくなってくるんですよね。私が初めてハード・ロックに出会ったのが5歳の頃。もう17年前のことになるのに、やっぱりまだ新しい発見もあるし、だけど聴いてて安心できて「おうちに帰ってきたな」という気分になれるんです。
──安心感があるのに刺激的でもある、と?
さくら“シエル”伊舎堂:そうなんですよねー。その両方があるからやめられないというか。
──ヴォーカリストとして、という部分ではどうですか?やはり他のタイプの音楽の曲以上に、歌い甲斐があるというような感覚もあるんでしょうか?
さくら“シエル”伊舎堂:はい。単純に歌ってて気持ちいいですよね、ホントに(笑)。たまにカヴァーの企画とかでライヴをさせてもらう時に、そう快感がいちばん得られるのはハード・ロック/ヘヴィ・メタルだと思っているので。バンドで大きい音を出して、全部感情を出し切って。しかも観てる皆さんとの共有してる感みたいなものが、他の音楽より強いのかなと私は思っていて。こっちが全力でぶつかるとお客さんも全力で返してくれる。全力と全力のぶつかり合いみたいなものの楽しさというのがあると思うんです。だから私自身、ハード・ロックを歌っていてすごく楽しいんです。
ダミアン浜田陛下:こうして横で話を聞いていても「ハード・ロック/ヘヴィ・メタルの申し子」という気がするぞ(笑)。
──シエルさん自身が今回の収録曲の中で特に「この曲のこんなところに注目して欲しい」というのがある曲というと?
さくら“シエル”伊舎堂:やはりリード曲の「嵐が丘」については、私自身としても並々ならぬ思い入れを持てるものができたな、と思っています。全部大切なんですけど、特に大切な曲になった気がしますし、すごく大事にしていきたい曲がまた増えたな、という気持ちです。この曲の最後のほうの歌詞に「悪魔の力/手に入れた/この魂さえ/奪われても」というのがあるんですけど、そこがすごく重要で。私が普段、陛下の曲を歌っている時って、陛下の頭の中にあるストーリーをどうやって伝えるかっていうことをまず頭において、そこから組み立ててくんですけど、この「嵐が丘」に関しては、「悪魔の力を手に入れた」というのが私自身のことのように感じられて。ずっと聖飢魔IIが好きで、陛下が好きで、そしてこうした形で改臟人間になってD.H.C.の一員として歌わせてもらえることになった時の気持ちにすごく近いというか。なんかもう陛下は私のためにこれを書いたんじゃないか、と思えてしまうほどだったので。だからこの曲に関しては、自分の感情が先に出てきてしまったんですよね。でも、だからこそ自分が伝えたいこと、私はこのバンドで何がなんでも頑張ってやるんだっていう気持ちがすごく出てると思うんです。だから私の中でも多分、いちばん大事な曲になりましたね。
──これほどの思い入れを楽曲に持ってもらえるということ自体、陛下としては作者冥利に尽きるところがあるんじゃないですか?
ダミアン浜田陛下:そうだな。さすが私の目に狂いはなかったな。まあ、実は最初に目を付けたのは侍従長なのだが(笑)。あれ?また泣いてる?
さくら“シエル”伊舎堂:はははは!(と言いながら目元をぬぐう)
ダミアン浜田陛下:シエルは涙もろいのだ(笑)。
さくら“シエル”伊舎堂:辛い涙ではないんで大丈夫です(笑)。この「嵐が丘」も私が生まれる前に作られた曲であるはずなのに、いつか私が歌うことを想定して書かれていたんじゃないかというくらい、私は共感できるというか。
──生を受ける前に書かれた歌詞を歌う。なんだかこれは新曲の歌詞になりそうな話ですが。
ダミアン浜田陛下:良いことを言うなあ(笑)。
──今、シエルさんの涙もろさについて知ったことからも思うんですけど、メタルのわかりやすさって、喜怒哀楽とかがはっきりしている、ということでもあると思うんです。怒っているんだか哀しいんだかわからないような音楽ではない、というか。
さくら“シエル”伊舎堂:確かにそうですね。根本にある感情がストレートに出てくる曲というのが多いですよね。
──しかし本当に適材適所というか、必然的な巡り合わせというか。運命の面白さを感じます。
ダミアン浜田陛下:本当に運命だよ、これは。シエルはD.H.C.で歌うために…
さくら“シエル”伊舎堂:…そのために、生まれてきたのかな。
ダミアン浜田陛下:そういうことにしておこう(笑)。歌うために生まれたというか、我々はこうして出会うべき運命だったのだと思うぞ。
──そんな運命的な始まり方をしたD.H.C.の初のライヴは11月28日でしたね。
さくら“シエル”伊舎堂:とにかく何より「やっとライヴができる!」っていうのがいちばん強くて。『第Ⅰ章』が出る前から、このバンドでライヴがしたいって私は言い続けてきたんですね。やっぱり、聖典で聴いていただくのももちろんいいんですけど、生で聴いて欲しい、生で歌ってるところを見て欲しいし、陛下の話を聞いて欲しい。その気持ちがすごく強かったので、「やっと陛下の歌を人前で歌える」という喜びを感じましたね。しかもずっと好きだった陛下の作られた曲を歌ってるだけでも幸せなのに、同じ舞台上に立つなんて、私自身が客席でそれを観たかったくらいです。
ダミアン浜田陛下:そもそも私自身、『魔界美術館』を作るということになった時、私は客席にいて聴きたいと思っていた。そういう構想でこれを出したいと思いながら沸々と企んできたわけだが、自分で演奏する前提でない以上、まさか自分がステージに立つことになるとは思ってもみなかった。MVに出るつもりさえなかった。だから私からすれば「客席から観るはずだったのにおかしいな?」というところもある。そう考えてみると、魔王である私自身が侍従長の掌の上で転がされているところがあるのかもしれない(笑)。
さくら“シエル”伊舎堂:あはははは(笑)。
ダミアン浜田陛下:エッシャーの描いた終わりのない階段の騙し絵のようなもので、誰かが誰かの掌の上で転がされていて、その下にはさらに大きな掌があって1周回っている。「D.H.C.はいったい誰が転がしているんだ?」というところがある。
さくら“シエル”伊舎堂:ああ、なるほど。いつか私がいちばん大きな掌になれるように頑張ります(笑)。
──こうして過去曲の再構築が実現し、ライヴ活動も始まるとなると、D.H.C.のこの先の未来がどうなっていくのかも気になります。どれくらい先まで将来を見据えておられるのでしょうか? 2022年はどのような年になるのでしょうか?
ダミアン浜田陛下:ふたつの道があると思っている。さきほども言ったように、実はもう勝手に次回作、第IV聖典の曲についてはデモができている状態にあり、さらにその先の曲作りに向けての準備を始めている。
さくら“シエル”伊舎堂:やっぱり計画的犯行(笑)。
ダミアン浜田陛下:有言実行犯だな(笑)。そこで正直、「このまままっすぐ進んでいくべきなのかどうか」について考えている部分もある。この延長上にあっていいものなのか、それとも自分の枠を超えるようなものを目指すべきなのか。そこについて悩んでおったんだが、最近になって「これでいいのだ!」と思い始めているわけだ(笑)。私にとっては作品を作ることが生き甲斐なので、それが世に出ようが出まいが、絶えず作り続けていくことになるとは思っている。あとは悪魔教会、悪魔寺とその都度の相談が必要になってくる。そういった形で進んでいくという方向がひとつあるのと、もうひとつはライヴ活動。コロナのほうもどうやら終息しつつある。第六波発生の恐れもあるが。実際、リハーサルの様子も見ているが、これがなかなか良い。まさしく昔の聖飢魔IIのリハーサルを彷彿とさせるものがあった。たとえば「蝋人形の館」とかのテープを「こんなふうにやってね」と渡して、バンドが音を出した時に「いいじゃん、いいじゃん」と思えたあの感覚を思い出させるものがあるのだ。あの感覚を味わうのは36~37年ぶりだったと思う。この感覚はなかなかないはずだ。例えば、設計士が設計図を渡して、途中の制作過程は一切把握せぬまま1年後の除幕式で「おお、こんな感じになったのか」となるのに近い感覚ではないかと思う。この感覚はなかなかわかりにくいものかもしれないが、ライヴにおいてはこの音楽の世界を、小さなCDのサイズではなく大きなサイズで、リアルな音圧で、肌で感じてもらいたいなと思う。
Damian Hamada's Creatures『魔界美術館』
初回生産限定盤 CD+DVD BVCL-1181~2 ¥3,700(税抜)
通常盤 CD BVCL-1183 ¥3,000(税抜)
1.謝肉祭
2.嵐が丘
3.天使と悪魔の間に
4.Tears in the Rainbow
5.失楽園はふたたび
6.Lamia
7.魔城の翼
8.月光
9.魔界美術館
◆Damian Hamada's Creaturesオフィシャルサイト
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