【鼎談】DAISHI [Psycho le Cému] × michi.[ALICE IN MENSWEAR] × TAKA [defspiral] 、地元姫路を語る「世界遺産の地から開拓の20年」
■MASCHERAが切り拓いた道を
■TAKAやDAISHIが花開かせてくれた
──DAISHIさんはTAKAさんと話してみていかがでした?
DAISHI:こっちは意識してるんだけど、TRANSTIC NERVEは全然意識してないって感じでしたね(笑)。
TAKA:いやいや(苦笑)。
DAISHI:TAKAくんは本当に性格が良くて、育ちの良さを感じます。
michi.:立ち居振る舞いが“ザ・ボーカリスト”やな。
TAKA:実は僕、姫路出身じゃないんです。親が転勤族だったので、生まれは大阪でいろいろ転々としたから。姫路がいちばん長いんですけどね。
michi.:そうなんや。
DAISHI:ムード自体が標準語な感じがする。
michi.:わかるわかる。後輩なのに先輩と喋ってるみたいな。
▲michi. [Vo / ALICE IN MENSWEAR]
TAKA:いや、今でもmichi.さんと喋るときはド緊張しますから。一度、ウチのMASATO(G)とご自宅に伺わせてもらったことがあったんですけど、その時のことは今も鮮明に覚えてます。音楽機材やVHSのビデオテープがダーッと並んでいて、「音楽やってる人の部屋やな」って感動しました。打ち込み機材はまだ珍しい時代やったと思うんですけど、シーケンスの話をさせていただいたり。
michi.:「どんな機材持ってる?」とか「どんな環境で音楽制作してる?」みたいな話をしてね。TAKAが言ったように当時はDTM黎明期で、ロックの生サウンドと打ち込みサウンドを融合させること自体があまりなかったんです。だけど、MASCHERAのメンバーは早くから取り入れていたので、1人1人の家にコンピュータとシンセサイザーがあったんですよ。TAKAとMASATOは家が近かったので、うちで機材談義をした記憶がありますね。
TAKA:それで、影響を受けてTRANSTIC NERVEも機材を揃えたんです。
michi.:その後、打ち込み技術ではギューンと追い抜かれました(笑)。
TAKA:覚えているのはmichi.さんの運命を変えたビデオテープが部屋に置いてあったんです。
michi.:そうそう。BUCK-TICKさんが出演された『ミュージックステーション』を収録したビデオですね。その前から音楽はやっていたんですけど、「悪の華」と「HURRY UP MODE」をTVで見た時に「俺、これでメシ食ってこう」って。そのビデオテープのラベルに“俺の人生を変えた男”みたいなことを書いて。お守りにしてたから。
DAISHI:そうだったんですね。
TAKA:DAISHIと初めて会ったのは姫路Betaだよね。モニターでライヴを観ていて、“MCがぶっ飛んでるな!”って思った(笑)。
DAISHI:そう言えば、以前、実家に帰った時にILLUMINAのNaoさんとTAKAくんとDEVELOP FRAMEの純平くんの4人で撮ったイベントの写真を見つけたぞ。トリがILLUMINAさんで、Psycho le Cémuの前身バンドのMYUが3バンドのオープニングアクトやった気がする。みんな上手いから“僕ら、ここにおったらヤバイ”っていう危機感しかなかったです。まともにいっても勝てないっていう感覚がありましたから。
▲ALICE IN MENSWEAR
──その時の悔しさもバネになっているんでしょうね。1990年代当時の姫路シーンって、他県とは異なる独特のものもあったんでしょうか? 今だから分かることってありますか?
DAISHI:MASCHERAさんは姫路のプログレみたいな立ち位置でしたね。演奏で持っていく実力と世界観があって、地元のライヴハウスの方々はMASCHERAさん基準で話されるんですよ。だから、こっぴどく怒られましたよ。特にBeta Musicの田中社長は演奏面で厳しかったですね。TRANSTIC NERVEもそうじゃない?
TAKA:うん。
michi.:いやー、俺らにも叱咤激励はあったよ、だからこそ良かったんだと思う。ちょっと上の世代のミュージシャンだと年功序列の体育会系ノリがあったけれど、そういうこともなく、純粋に平和に音楽に真摯に向き合えたから活動に集中できた。今思うと良い環境だったと思いますね、当時の姫路って。
DAISHI:確かに風通しが良かったですね。大阪に行っても東京に行っても“姫路のバンドが来てくれました”って迎え入れてくれたり。活動しやすかったです。
TAKA:他のバンドもツアーで姫路に寄ってライヴしてましたしね。
michi.:今でこそ姫路ってお城が世界遺産になったり、著名人を排出して有名になりましたけど、当時はそんなこともなかったんです。兵庫県って神戸のイメージがあると思うし。だけど、姫路も音楽の聖地みたいな感覚でバンドがツアーで来てくれるようになったのは田中さんが築き上げたものがあるからで。姫路Betaより以前にサテンドールっていうハコがあったんですけど、音楽に真摯で、ずっと地元のシーンを底上げしてくれたので。
DAISHI:僕らはMASCHERAさんが作ったレールがあったから快適に走れたみたいなものですよ。MASCHERAさんは大変やったと思います。
michi.:全部が手探りでしたからね。でも、田中社長と二人三脚で“こうじゃない、ああじゃない”って耕していく過程が面白かったんです。切り拓いた道をTAKAやDAISHIが進んで、完全に花開かせてくれた。
──具体的にどんな試みをなさっていたんですか?
michi.:当時って、例えばLUNA SEAさんだったら町田The Play Houseとか、いわゆる推しハコとか推しバンドみたいなものがあったんですけど、姫路には地元の看板掲げて活動しているバンドがほとんどいなかったんです。だから、“姫路Betaの看板背負って全国を廻るバンドっていうふうにブランディングしていきたい”って。最初は“姫路ってどこなの?”って思われてたし、完全にアウェイからのスタートでしたね。
DAISHI:姫路Betaの立ち上げ(1995年)の時、MASCHERAさんって何日連続でライヴやったんでしたっけ?
michi.:6Daysかな。
DAISHI:6Days! 6日連続で歌い続けるボーカルって、だいぶ頭がおかしいですよ(笑)。有名なバンドもかなり観に来てましたよね。
michi.:そうだったね。姫路Betaがオープンする前から田中さんと一緒にバンドで全国廻って、いろいろなバンドと対バンしたんですよ。カッコいいバンドや上手いバンドと交流を持って、6Daysの対バンとして全国から姫路に来てもらったし。
DAISHI:そういう開拓精神には、姫路のバンドがみんな影響を受けてますね。僕はmichi.さんにライヴに誘われてなかったら、LidaとPsycho le Cémuをやってないですから。高校時代はバンドをやっていたものの一時期はやめていて。でも、MASCHERAさんのライヴを見て急にスイッチが入ったんです。
TAKA:ウチらはRYOがローディをやっていたこともあって、MASCHERA直系の後輩なんですね。さっきDAISHIがレールって言ってましたけど、MASCHERAさんが築いてくれたおかげでいろいろな道が拓けたんです。姫路でライヴをやった後に大阪でやりたいと思ったら、本来なら自分たちで話してブッキングするんですが、ライヴハウス同士の繋がりができていたから、スムーズだった。その道筋を作ってくれたというか、ロールモデルみたいな。その在り方を追いかけていたところがありますね。
DAISHI:『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』にも姫路バンドとして一番最初にMASCHERAさんが出演(1996年)して。地元でTVを観た時には震えましたね。“一緒にお酒飲んだ人がダウンタウンさんと喋ってる!”って(笑)。東京と違って、周りに芸能人とか歩いてないですからね、姫路は(笑)。
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