【音楽ギョーカイ片隅コラム】Vo.86 「ジャズと体罰が並ぶ報道の違和感」

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日本を代表するジャズの祭典<TOKYO JAZZ FESTIAL>が、今、まさに開催されているという最中において我が国日本の報道機関各社は、都内で開催された学生を主体とした小さなジャズ・イベントでの出来事を「体罰」「暴行」といった言葉に「ジャズ」という日本のお茶の間には馴染みのない、若干新鮮味のある言葉をセットにすることで、少々珍しい響きのあるニュースとして作り上げ、こぞって、飽きることなく連日連夜報道し続けている。

そして、それらに影響された多くの視聴者が、やれ「体罰はダメ!」とか「相手は子どもなのに」などといったそれぞれの論を、余すことなくSNSなどを通じてお気軽に、嬉々として発信しまくっている。

情報収集のプロのはずの報道機関も、そのアマチュアである一般市民も、そのほとんどはその出来事が起きた背景としてJAZZの本質に迫ることや、ミュージシャン同士に生じたステージ上での事の真相に起因する内面的な事情を観察しようとも、問題視もしていないことの方がよっぽど大きな問題ではないだろうか。

オックスフォード辞書によると、「【Jazz】とは、アメリカの黒人によって20世紀初頭に生みだされた即興、シンコペーション、規則的で力強いリズムが特徴とされる音楽の一種。金管楽器、木管楽器、ピアノはジャズと深く関係性を持ち、ギター、そして場合によってはバイオリンも用いられる。ディキシーランド(ニューオリンズで始まったジャズ音楽)、スイング(1930〜40年代に流行したビッグバンドによるジャズ音楽)、ビーバップ(1940年代後期から50年代初期にかけてのモダンジャズの最も初期の形式)、フリー・ジャズといった音楽形式を含む。」(筆者訳)とある。そして筆者は音楽を好きになってからの二十数年、ジャズとは音楽にスリルを求める大人が嗜む音楽であると位置づけてきた。

その観点から今回の出来事を見ると、数ヶ月もかけて練習を重ねてきた学生がなぜ本番でも暴走し、師匠であるコンマスに反抗的な態度を取ったのかは分かりかねるが、それもまた青春の1ページ。しかしステージは神聖な場であり、真剣勝負の場であるため、それも分からない未熟な者はミュージシャンではなくただの厄介者だ。ステージに上がる資格がない上、他の真剣に演奏をするミュージシャン、並びにオーディエンスに対しての冒涜は許されないものと厳しく教える必要がある。仮に、暴走演奏をしてしまった学生ちゃんが筆者の息子であったなら、指導者よりも先に筆者がステージへ駆け登り、叩いてでも蹴倒してでもステージから引きずり下ろし、客を含めたすべての関係者に謝罪するだろう。

そう考えると、見苦しいし良い行為とは言えないが指導者は流血するほどの負傷をさせたわけではないし、本人も保護者もなぜそうなったのかを納得済みなのだから顔を叩いたことはそれほど大したことではない。

どちらかと言えば、「お金を払ったのにこんなものを見せられるなんて」と発言した人がいたと政治家がコメントしていたが、そうした人は何を期待してそのチケットを購入したのだろうと疑問を持ったし、平然とそうコメントする政治家含めた大人の在り方や物事の捉え方について、よっぽど問題視すべきことのような気がしてならないのだ。

プロが率いるとはいえ、演奏するのはアマチュア学生。血気盛んな青二才の若造と世界で活躍する音楽家の瞬間的な心のガチンコ勝負を安いお金で楽しませてもらったくらいに見守る姿勢を外野が取れていないことが非常に残念である。そうした思考の人は、今回のような音楽普及活動が底にある学生の発表会的要素を含んだ行政イベントではなく、その10倍の価格のするチケットを購入してプロのジャズ演奏家オンリーのライブへ足を運んだ方がいいだろう。その人にとっても、人と音楽の育成イベントを主催する側にとっても健全だ。

最後に、今回の報道によって世田谷区の中学生諸君は実にいい機会を得ていると知るに至った。こうした素晴らしい活動が世界的ミュージシャンを生むことにも繋がるだろう。だからこそ、一日も早くしょうもない報道がやみ、今回の報道によってこれまで築いてきたものを失うことなく、子どもたちが本物の音楽に触れる活動の継続と、フューチャーされてしまった学生が音楽を辞めないことを強く願っている。

文=早乙女‘dorami’ゆうこ


◆早乙女“ドラミ”ゆうこの【音楽ギョーカイ片隅コラム】
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