【連載】Vol.014「Mike's Boogie Station=音楽にいつも感謝!=」

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この春は素晴らしいソウル・ライヴを堪能!その第一弾“ザ・テンプテーションズ・レヴュー・フィーチャリング・デニス・エドワーズ”!

ソウル・ミュージック・ファン待望の映画『約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー』の公開が6月に決定!もう今からワクワク気分。そんな中で、この春は素晴らしソウル・レビュー、ソウル・ショーをいくつか味わった。


▲Photo:Yuma Totsuka 提供:Billboard Live TOKYO

まずは1960年代に日本盤シングルをたくさん買い込んだマイ・フェイヴァリット・グループ、テンプスことテンプテーションズ。60年代後半、新宿のディスコティック(ディスコという表現は70年代になってから)the otherでクック・ニック&チャッキーらとテンプス・ウォークを踊ってた。その当時、ジョン・コルトレーンやセロニアス・モンクといったズージャ(僕の大師匠だった故・福田一郎先生のサイン入り01年版『テメエットリのジャズ』を再読しているとこんな表現を使いたくなっちゃうのだ)の日本公演は観ることが出来た。それらのプログラムはマイお宝。でもR&Bナンバーを生で味わうことは結構大変だった。高校時代the otherなどに出入りしていて多くの黒人のGIと知り合った(ブラザーだけではなくシスターともネッ…ウフフ)。その中の一人が立川や福生の米軍基地内のクラブで演奏活動していたハウス・ロッカーズのリード・シンガーのひとりギルことギルバート・コールマン。彼に連れられ何度となくハウス・ロッカーズやイムパクツの素晴らしいステージを味わった。でもFENから流れてくるトップ・アーティストの日本公演はなかなか実現されなかった。


▲From Mike's Collection

1968年2月、ついに本場アメリカのR&Bショーの日本公演が実現。【モータウン フェスティバル'68】。出演はザ・テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダー、マーサとヴァンデラス!!もちろん東京全公演のTIXをゲット。ところが、寸前になってテンプスが来日中止。聴きたかった「イッツ・グローイング」「シンス・アイ・ロスト・マイ・ベイビー」が…、涙しながら3公演に足を運んだ。彼らが初来日したのは73年。ライヴ・アルバムもリリースされた(ライナーは福田先生)。その時のメンバーの一人がデニス・エドワーズだ。


▲From Mike's Coleection

デニス・エドワーズは68年から76年までテンプテーションズに在席。80年代初頭も数年復帰している。そして、87年から2年間3度目のテンプス・メンバー。90年代に入り、デニスは“ザ・テンプテーションズ・レヴュー・フィーチャリング・デニス・エドワーズ”として活動を始める。2000年4月に横浜にオープンしたモータウン・カフェ、プレス及び関係者を集めてのオープニング・セレモニーのMCを務めさせてもらったが、その時メイン・アクトとしてライヴを披露したのがマーサとヴァンデラストとザ・テンプテーションズ・レヴュー・フィーチャリング・デニス・エドワーズだった。その後何度も来日しているデニスだが、久々にゆっくり会っていろんな話をした。


▲Photo:Mitsuko Todoroki

デ二ス・エドワーズが語る…
*子供時代
アラバマ州フェアフィールドの生まれ。同地は小さな町で、両親と通った、ちょっとした食堂や教会がある位。50年代初頭のアラバマ州での暮らしは簡単なものではなかったけど、教会で歌を歌ったりしていた。そこに暮らす人たちは、とても幸せな状況とは言えなかった。でも些細な幸福を分かち合い、そこには美しいキリスト教徒の家庭があった。成功を収めた今でも、未だにあの場所を思い出す。

10歳の時にデトロイトに引っ越した。父がキリスト教系の団体で職を見つけたんだ。僕はいつも教会で歌っていた。でもゴスペル歌手は、常に教会だけのために歌いたいわけではない。ゴスペルはハートから来ているんだ。心で音楽を感じるのだ。ゴスペル・グループで歌うことや教会で歌うことは、僕にとって素晴らしい経験となった。お金をもらえるわけではなかったけど、幸せだったよ。


▲Photo:Mitsuko Todoroki

*サム・クック
50年代後半に聴いたサム・クックやジャッキー・ウィルソンのおかげで僕は歌手になったんだ。彼らの素晴らしい歌声!特にサム・クック!!彼は偉大なゴスペル・シンガーだった。彼の声が本当に好きだ。そして、彼は僕らゴスペル・シンガー達に、競い合うってことを教えてくれた。サム・クックは僕らみんなに「歌を歌う」ってことを教えてくれた。

*テンプテーションズ
1959~61年は軍役に就いていた。軍でグループを作って歌っていた。デトロイトに戻ってファイアボールズというグループで活動。自分たちのヒット曲はなかったけど、当時流行っていた楽曲を何でも取り上げていた。そうやって生き抜いてきたんだ。モータウンのベース奏者として知られるジェームス・ジェマーソンと友人関係になって、彼が僕をベリー・ゴーディ・ジュニアに推薦してくれた。66年からはモータウンに所属。いろんなアーティストに会うチャンスに恵まれた。テンプスがいたりマーヴィン・ゲイがいたり…。デヴィッド・ラフィンとも知り合った。でもそのデヴィッドがいろんな問題を起こした。彼をもらい下げに裁判所に行ったこともある。ベリー・ゴーディ・ジュニアとも確執があったようだ。ある日彼が「僕はテンプテーションズを辞めことになった。他のメンバーは僕の後釜に君を推挙しているよ」と告げに来た。信じられなかったし、テンプスにジョインする自信もなかった。でもミスター・ゴーディに激励され偉大なるテンプテーションズのメンバーになれた。


▲Photo:Mitsuko Todoroki 協力:守安 澄江

そしてインタビュー1時間後、Billboard Live TOKYOでザ・テンプテーションズ・レヴュー・フィーチャリング・デニス・エドワーズが開演(2017年3月21日)。いかにもいかにもという60年代からのあのスタイルのソウル・レビュー・オープニング。デヴィッド・シー、マイク・ぺティーロ、クリス・アーノルド、ポール・ウィリアムス・ジュニアの4人がステージに登場、今日の演奏曲の一部が披露され、いよいよスターの登場。観客を回りながら!ミスター・デ~~二ス・エドワーズ!!リック・ジェームスを思い出す「スタンディング・オン・ザ・トップ」でパワフル・レビューがスタート。「トリート・ハー・ライク・ア・レディ」も前曲同様80年代のヒット。そして60年代後半から70年代にかけての、デニス・ジョイン後のテンプス・ヒット「クラウド・ナイン」「アイ・キャント・ゲット・ネクスト・トゥ・ユー」「ボール・オブ・コンフュージョン」。R&B、ソウル・ミュージックがロック色を強めていった時代の話題曲。


▲Photo:Yuma Totsuka 提供:Billboard Live TOKYO

バラード「雨のジョージア」ではマイク・ぺティーロのベースを堪能させてくれる。ブルック・ベントン70年のヒット。


▲Photo:Yuma Totsuka 提供:Billboard Live TOKYO

そして、60年中期から後半にかけてのテンプス全盛期のヒットが続く。「マイ・ベイビー」('65)「ユアー・マイ・エヴリシング」('67)「ゲット・レディ」('66=『マイ・ガール』に続くBillboard誌R&Bチャート2曲目の1位)。そして「ゲット~」に続いてこれまたR&Bチャート1位に輝いた「エイント・トゥー・プラウド・トゥ・べッグ」。テンプス最高のナンバー・ワンに8週も輝いただけあって(参考文献=Joel Whitburn presents TOP R&B Singles 1942-1999 Billboard)、あらためてその素晴らしさに感激。六本木のソウル・バー「ジョージ/George's」でこのナンバーを楽しみたくてジューク・ボックスに何度もコインを…。86年の「レディ・ソウル」はミディアム・テンポのソウルフルなナンバー。デヴィッド・シーの魅力をたっぷりと味わう。そういえばデヴィッドと大仲良しのエモリ・アイさん(70年代ディスコ全盛期にシングル/LPのジャケットを数多く手がけたイラストレーター。ディスコのプロデューサー/DJとしても活躍した)と久しぶりにバックステージで再会。彼とはもう40年以上の知り合いだ…。


▲Photo:Yuma Totsuka 提供:Billboard Live TOKYO

閑話休題。デニスが力強くシャウトするのは「パパ・ワズ・ローリン・ストーン」。72年のブラック・ロック楽曲でR&Bチャートは5位なんだけどプラチナ・シングルに輝いている。Billboard誌HOT100で1位なのだ。もちろん独特のリズムの手拍子をしながらダンス。


▲Photo:Yuma Totsuka 提供:Billboard Live TOKYO

そして「ドンド・ルック・バック」、65年ヒット。あの時代、このナンバーのリードはポール・ウィリアムス(オリジナル・メンバー。73年に34歳で死去)。ということで、もちろんここでのリードはジュニアだ。彼は客席に降りてしっかりと歌い上げる。感動。


▲Photo:Yuma Totsuka 提供:Billboard Live TOKYO

続いてはデニスが歌いあげる「ア・ソング・フォー・ユー」。エモリ氏情報によるとデニスはコンディションのより良い日だけこの楽曲を取り上げるということだ。ドラマティック&ソウルフル、見事に歌い上げるデニス・エドワーズに大きな拍手。

後半は60年代のお馴染みのナンバーで盛り上がる。「美人はこわい」は66年の大ヒット、エキサイティングな雰囲気のエレガントなコーラス・ナンバー。「ザ・ウェイ・ユー・ドゥー」は64年のテンプスのファースト・ヒットとして知られる。R&Bチャート11位、僕が初めて彼らの名をFENで知ったのはこのナンバーだった。「ゲット~」同様クリス・アーノルドがリード。


▲Photo:Yuma Totsuka 提供:Billboard Live TOKYO

そして「雨に願いを」!68年の大ヒット、ブラック・ロックへ行く直前の名作として忘れることが出来ない。デヴィッド・シーの魅力が噴出。60年代後半都会派ソウル・ミュージックの名作として後世に伝承されていくことだろう。ロッド・スチュワートのフェイヴァリット・ソングとしても知られる。そしてラスト・チューンはサイーダ・ギャレットを思い出すデニスのソロ・シングル・ヒット。84年の「ドント・ルック・エニ・フィーチャー」。

アンコール・パートに入る前に今は亡き偉大なるテンプテーションズのメンバー4人を称える。ポール・ウィリアムス、メルヴィン・フランクリン、デヴィッド・ラフィン、エディ・ケンドリックス。そしてメンバー紹介…。ファイナルは「マイ・ガール」、全世界中に知られる名作中の名作。もちろんテンプス・ウォークしながらシング・アロングなのだ。メドレーで「ジャスト・マイ・イマジネーション」へ突入。71年のナンバー・ワン・ヒット。これも秀作、ローリング・ストーンズもカバーしているのだ。クリスがリード。そして最後の最後は再び「マイ・ガール」、♪We Love You, Tokyo♪。ソウル・レビューの楽しさ、醍醐味をしっかり味わったのだ。


▲Photo:Yuma Totsuka 提供:Billboard Live TOKYO

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