【連載】中島卓偉の勝手に城マニア 第28回「二条城(京都府) 卓偉が行ったことある回数 11回」
ずばりアナーキーな城、きついシャレが効いている城、とでも言おうか。
ここまで確信犯で建てられた城もなかなかない。二条城はほぼ威嚇の為だけに作られた城、天下を取った家康の独断で建てられたまさにシャレが効いている城なのである。
日本の首都は東京(江戸)であるがそれは家康が天下統一をして都を江戸に移したことから現在に至っているわけであり、本来日本の都は京都なのである。
それを考えると都が京都から江戸に移ってたかが400年ほど。
歴史の深さは京都にはかなわない、にも関わらず、その都さえも移転させてしまおうという家康の考えがまず相当アナーキーだ。
その京都に、都と呼ばれる誰もが憧れる京都に、天下を取ったんだから城など築いてしまおうじゃねえかという提案を下す。
それはもう今の東京に他国の基地がでっかくど〜んと建てられてしまう感覚に近い。
古くから街をすべて縦横十字に切って栄えていた京都の二条という場所に城を築けと命じたわけである。そりゃもう立ち退きからそれまで文化から考えても大変な騒ぎだ。
15周年ライブをやったその帰りに今日のライブを受け取れるという優れもの「PLAY BUTTON」をノーエディットで発売してしまう中島卓偉の潔さ、歌のクオリティの高さ、ポテンシャルの高さ、歯並びの良さ、それも大変な騒ぎだった。
長らく仏教でもっていた京都に(日本は基本的に仏教文化だが)お寺や神社でもっていた京都に、ある時城が建てられてしまうのだから。
しかもどの寺にある五重塔よりも高い天守閣がそびえてしまうのだから恐ろしい。でもそれくらいのインパクトでもって制す、その作戦にまずシャレが効いていると言える。
えええ?京都に城建てていいの?誰もが思ったはずだ。天皇家と貴族で培われてきた京都に城を建てるなど御法度だったのである。
それまで京都には城らしき城は建てられなかったのである。信長、秀吉が御殿をちょっと発展させた城までいかない建造物は建てたものの、家康がそれを本格的に城にしたのである。
築城は1601年である。更に三代将軍徳川家光が二条城をより拡大させている。
そして、豊臣家を滅ぼす為に、大阪の夏の陣、冬の陣での本部となる意味も込められていた。
でもすでに大阪城を攻めるのに本部を離れた京都においてる時点で相当余裕がある。端から勝つ気満々、いやもはや戦なんてやる気もなかったはず。
どうせ勝てるに決まってんだから。それはもう、卓偉には売れてほしくないし、この距離感でずっと見ていたいから布教活動はしませんと言ってるやる気のないしょうもないファンと同じである。
それでも京都という歴史の一番深い都に城を築き、徳川幕府を恐れさせるという見事なまでの演出、威嚇、時代をこの手で変える瞬間を自分の目で見るという大胆さと勇ましさ。
家康公、やることがでかすぎる。トミー・リーの空中回転ドラムソロと並ぶ勢いだ。南極でライブをやってしまうメタリカと同じくらい、どうしてそこで?と思ってしまうくらいの感覚に近い。
しかも天皇家を招く意味も込められて御殿や庭などもデザインされた。セレブ感満載の城でもあったわけだ。極上中の極上だ。
戦国時代を終わらせ、武士を黙らせ、天下を統一し、なおかつ天皇までも支配下においてしまうという大胆さ。
かつて信長も安土城の本丸に、天皇をお招きするという意味だけで、御幸の間という御殿を建てていた。でも自分はその横にある更に高い場所にある天守にいるわけである、信長は天守に住んでいたとされるので天皇さえも見下ろすという超アナーキーな意味が込められていたわけだ。
結局天皇家は安土城に訪れることなく信長が亡くなってしまうわけだが、それを家康はリアルに実行し現実のものとしたということである。
シャレがきつ過ぎる。だが戦国の武士達は日本の歴史の根本にある天皇家を決して滅ぼそうとはしなかった、自分が実権を握っても絶対に天皇家には頭を下げた。
これがまた歴史の武士と天皇家の関係の深いところである。
よって、二条城はちっとも守る為に城が造られていない。
二の丸、本丸と単なる正方形で、城自体も当時としては決して大きくない。堀も幅が狭い。堀の外から火でも投げられたら簡単に届くし簡単に燃えてしまうだろう。
(事実江戸時代中期に京都大火災の飛び火によって本丸御殿などが焼失してしまっているのである)
櫓の数も少ない。角にあるだけである。まあいくら立ち退きさせるったってそれほど土地も大きくは使えなかったというのもあったのかもしれない。
今は京都は街の建物の高さに規定がある。古き良き町並みを新しい建物によって阻害されてはいただけない。だが毎年のようにどんどん大きな建物が建てられている。
400年前を考えたら二条城の5層の天守ほど目立つ建物はなかったと思う。まさに権力の象徴である、もっとも三代家光は家康が建てた天守を淀城に移築し、更に大きい伏見城の天守を二条城に移築した。
しかし江戸時代中期によくあるパターン、落雷で焼失。長さんとブーさんと体操のお兄さんがよく怒って落雷させちゃったさね。そうさね、きっとそうさね。
この天守はデータが残っているので復元は全然可能だろう。むしろいっちゃってほしいけど。城自体が世界遺産なんだし。もちろん見所と言ったら二の丸御殿なんだろうな。素晴らしい作りとなっています。
歴史に詳しくない人、いやむしろ京都の人々もそういう意味でこの城が建てられていたってこと知ってる人は少ないと思う。
天皇家が住む京都に、戦国時代の武士達が争い事を起こさないようにしていた京都に、暗黙の了解で都で戦いなどしてはいかんとどんな武士も思っていたのに。(にも関わらず自分の上司である信長を京都の本能寺で暗殺してしまう明智光秀もいるのだが)そこに城を建ててしまう家康、増築しちゃう家光、それをネタにコラム書いちゃう卓偉、読んでも一切歴史に興味を示さない卓偉ファン。まさにアナーキーインザ京都である。
今でこそ世界遺産になり、海外からの観光客もあとをたたない。
そういえば中学の修学旅行でも二条城に行った気がするな。二条城が建てられた本当の歴史を知った上で見学するとなお楽しめるはずだ。
御法度だったことを権力でひっくり返して築いた城なので、自分は訪れる度に家康のブラックジョークとアナーキズムを感じずにはいられない。
感慨深いのは、徳川最後の将軍、十五代徳川慶喜は二条城の二の丸御殿で部下達に大政奉還を言い渡した。
政権を明治政府に譲り、武士を引退するという決断である。威嚇の為に、都と天皇と京都の人々に権力を見せつけたはずの二条城で、徳川幕府は終焉を唱えたのだ、唱えたという字は和田唱さんの唱と同じだ、凄いではないか。みんなで唱えてみようではないか、そしたらみんなでトライセラに入れるかもしれないではないか。
始まりと終わり、両方にこれほどのインパクトが残る城もない。この城で日本の都の歴史が塗り替えられ、この城で江戸時代300年というひとつの歴史が終わったのである。
家康の祟りが300年後に来てしまったのか、本当に感慨深い。
日本に二条城ほどアナーキーな城はないのである。
二条城、また訪れたい……。だが、夏は暑いし、冬は寒過ぎるのがたまに傷だ……。
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