西本智実【特別インタビュー】女性指揮者が開く前人未踏の新たなクラシックの扉
▲photo:大木大輔
◆西本智実〜拡大画像〜
――子供の頃から指揮者になりたいという夢をお持ちだったんですよね。
西本智実(以下、西本):最初は指揮者を見て、「何をやってるのかな?」っていう感じだったんですよ。なりたいと思う前に「不思議だな」って思ったのが最初ですね。色んなコンサートを観に行って、「全ての音を出している人だな」って感じたときに、素晴らしい仕事だなとわかりました。音楽の中に、なぜそういうポジションがあるのか、もっと音楽を知りたかった。
――だからなんですね。譜面を理解するために、大学では作曲を学ばれたそうですが。
西本:そうですね。楽譜に描かれた音符で自分だけの世界を作っていくことって大きなことじゃないですか。なぜ指揮者は、何十段にも渡る楽譜をいとも簡単に読んで、バランスを考え、なんの意図を持ってそれをやっているのかというのが不思議だったんですね。数十段の楽譜の中にはト音記号、ヘ音記号、移調楽器もあり、色んなものを見て、何を理解しているんだろうと。まず、その楽譜を描いた人が凄いと思ったんです。描けたら読めるだろうと。指揮者というのは現場監督で、作曲者というのは建築の設計図を書いた人。設計図を描いた人は亡くなっていますから、遺された建築図を見て建物を建てていく。色味とか装飾はメロディラインでは描かれていますが、具合は描かれていない。強弱や奏で方の表情や、いろんな描き方があるわけですが、作曲家によっても違いますし、その辺りを知りたかった。そこには、その作曲家が生まれた風土・歴史が密接に関係していたりして。時代とかね。そういうところを含めて作曲の練習をしようと。作曲の練習をすると言っても、自分が作曲をしていく前に、歴史上の偉大な作曲家たちのことを研究していくわけですね。その作業が私には必要だと思ったので、作曲科に入学したんです。絵もそうですが、ダヴィンチとかルーベンスの絵は筋肉や骨の動きが見えるでしょ? そういうことを学びたかったんです。表面だけではなく、骨がどういう関節の動きをしているのか、そういう勉強の仕方をしたかった。
――一見回り道に見えますよね。
西本:えぇ、よく言われます。当時もそういう風に言われました。でも、自分の中ではそういう方程式が決まっていて、ここを外して、どこに行くんだろうという考えがあって。それは自分の中では頑なに貫きましたね。
――そこからロシアに留学をされて。西本さんのプロフィールを拝見していると、「叩き上げ」という言葉が浮かびました(笑)。
▲photo:宅間國博
――そこもやはり、叩き上げだったから掴めたチャンスだったんですね。
西本:ホント、そうです(笑)。
――ロシア留学時代は毎日200円で生活していたとか。
西本:そう(笑)、留学するとき100万円しかなかったんですよ。学校が国立だったので学費は安かったのですが、それでも30万円台だと思うんですね。寮費がやっぱり30万円台くらいかな。で、生活費で終わり。生活費って言っても、ロシアは寒いですから防寒具が必要なんですよ。当時、毛皮は買えませんでしたが、それに限りなく近い、日本では売ってないようなものを現地で調達しないと寒くて暮らせない。そういうものを買うとギリギリですよね。音楽院は、一度入学すると、5年間は行き来が自由だったんです。丸一年は日本に帰らず、ロシアにいました。二年目は100万円の底がつきましたので、一度帰らなきゃいけなかったんですよ。日本で副指揮の仕事をしてお金を貯めて、またロシアに留学して。一年が終わる頃になると、ようやく慣れて街の歩き方がわかってきたような感じでしたね。良かったのは、音楽って言葉だけでやるわけじゃないので、目的は見えてるわけですね。その辺で救われる部分はありました。
――辛いこともあったと思いますが、頑張れたのはどうしてですか?
▲photo:鍋島德恭
――千円の紅茶は、一日200円の生活をしているときは5日ぶんの生活費ですね。
西本:そう。でも「エイッ」と思って。思い切って自分にご褒美を買うことってあるでしょ? モヤモヤした私にサヨナラだと。帰りに雑貨店に行くと、同じ紅茶が売ってるんですよ。「千円あったら何箱買えたかしら?」って思うんだけど、そういう値段が高いとか安いとか、そういうところではないんですよね。そこで紅茶を飲みながら、じっくり深呼吸をした……みたいな。それを二回やりました。
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