【連載】Large House Satisfactionコラム「夢の中で絶望の淵」Vol.5「滲みでる絶望、昭和荘」
自宅の隣にかつて、昭和荘というアパートがあった。
恐らく半世紀以上前に建てられた古い銭湯のような瓦屋根のアパートで、
壁は鉄の錆びたような赤茶けた色であった。
建物全体から絶望と狂気が滲みでていた。
住人はみな一様にどこを見ているのかわからない目をしており、
世捨人の雰囲気をまとっていた。
てゆーか完全に世を捨てていた。
今日はそんな昭和荘のバッドなガイズのお話。
※※
▲絵:小林賢司 |
昨今の日本において、ドレッドの黒人が近所に住んでいても、さして特筆すべきことではないかもしれない。
しかし今にも崩れそうな共同便所のクソぼろいアパートに、
今にもやーまんとか言ってきそうなドレッドの黒人が住んでいるという現実が、俺の気持ちを掻き乱していた。
なぜ?どうして?
住み始めてすぐ、彼は深夜の住宅街を赤い一輪車で爆走するという恐ろしいトレーニングを始めた。
俺は実際遭遇していないが、付近住人の目撃情報がある。
俺の自宅のすぐ近くに小学校がある。
その小学校の曲がり角から突如、
一輪車に乗ったドレッドの黒人が猛スピードであらわれ、
曲がり角近くを歩いていたおっさんに、危うくぶつかりそうになったそうな。
これがもしぶつかっていたら、大事故である。
なにせドレッドの黒人が猛スピードで、フルパワーで一輪車をこいでいるのである。
そこらのガキが遊びで乗っているのとは、わけが違うのである。
もしぶつかっていたら恐らくおっさんは全身複雑骨折で全治三百年、あまりの驚きに頭髪が全て抜けて頭がつるつるになり、精神が縮んで見た目は五十歳くらいのおっさん、心は五歳児くらいになり入院、最初は甲斐甲斐しく世話をしていた妻も月日が経つと新しい若い男をつくり出奔、頼みの綱の一人娘はいつのまにかジャマイカ人と結婚してやーまん!などと言いつつすぐ離婚、一年後、インドで行方不明になり消息を絶ち、おっさんは病室で独り、仮面ライダーフォーゼに夢中になって僕フォーゼになるんだぁとか言って座り小便をしてる、みたいなことになる可能性は限りなく低いが、いずれにしろ大怪我をおっていたはずである。
俺は一輪車の話を聞いて総毛立った。
いつ、自分にも上記のようなことが起きるともわからない。
幸いにも俺はまだ妻帯はしておらないので、妻に出奔されたり一人娘が消息を絶ったりという心配はないが、
運が悪ければ大怪我を負い、とてもバンドなどやっていけない身体になってしまう可能性だってあるじゃん。
そんなのいやじゃん。
といって俺には、ドレッドさんに、
「今すぐ一輪車を猛スピードで漕ぐトレーニングはよせ。ことによると、どこかのおっさんが妻に出奔され、一人娘が消息を絶つかもしれないからだ」
などと忠告できるブレイブなハートはない。
したがって俺は曲がり角には充分気をつけるという、なんともふわふわした対策をとるしかなかった。
だが、すぐに問題は解決された。
ある朝なにげなく近所のゴミ捨て場を通りかかると、
使い古された一台の赤い一輪車が棄てられていた。
俺はあまりの安堵にその場で座り小便をし、よかったあ、よかったあ、これでバンドを続けられる、よかったあ、と天を仰いで叫んだ。
頬に一筋の涙が流れた。
だがその日の夜、また新たな事件が発生したのである。
発生したのであるがちょっと他の住人も紹介したいので、
ひとまずドレッドさんのお話はここまでにしておこう。
※※※
古くから昭和荘の二階には、狂ったテニスボールおじさんが住んでいる。
色黒で小柄な引き締まった身体つきをしており、インディアンのような、どこか切なさを漂わせる顔をしていた。
俺が幼い頃、
よく家の前の露地で遊んでいると彼はテニスボールが八個ほど入った底の浅いダンボールを持ち、
「おい、これ、いる?」
と言ってテニスボールを二、三個くれた。
それも一度や二度じゃない。
多分三度くらい。
ゆえにテニスボールおじさんである。
テニスボールおじはいつからか狂ってしまった。
悲しきテニスボールおじ。
かつてのテニスボールおじは、多少狂気は感じられたが、幼子にテニスボールをくれるくらいの優しさはあったはずなのに…。
二十歳のときだろうか。
俺は仲の良い友人のSと二人で自宅で酒を飲んでいた。
夏の暑い夜であった。
俺は煙草の煙で濁った部屋の空気を入れかえるため、ベランダに通じる窓を全開にした。
窓を開けると五メートルほど離れた向かい側に、
テニスボールおじの部屋の、くもりガラスの窓がある。
テニスボールおじは耳が悪いのか、いつもラジオのボリュームを最大限まで上げて聴いている。
その日も、少し開けた窓からラジオの音が聴こえていた。
時刻はまだ宵の口、俺とSも飲んで騒いでいたため、ラジオの音など気にはならなかった。
どれほど時間が経ったであろうか。
少し酔ったSが突然、
「なんか変な音聴こえない?」
と言うので耳を澄ませると、ラジオの音がいつのまにか消えており、かわりに、
「パチッ…パチチッ…」
という、何か爆ぜるような音が聴こえてきた。
「なんだこの音…」
「いやぁ、別になんでもないでしょ…」
俺は気にせず缶ビールに手を伸ばした。
爆ぜる音は鳴り続いている。
「あれ、隣、窓おかしくない?赤いよ…」
Sが言った。
「え?」
俺はベランダに出てテニスボールおじの部屋の窓をみた。
くもりガラスの窓に赤い何かがゆらめいている。
(あれ…なんだろうなあれ…)
そう思って、少し開いた窓から見える部屋の中に目をやると、
「パチッ…パチチッ」
という音とともに、火の粉が舞い上がった。
部屋のなかで、焚き火してた。
消防車がきて、狭い露地に銀色の服をきた消防士がひしめきあっていた。
その日を境に、テニスボールおじを見ることはなかった。
※※※※
テニスボールおじがいつから狂ったのかわからない。
だが、ドレッドの黒人もテニスボールおじも、昭和荘という箱のなかで少しずつ狂っていったのは、確かだ。
そんな昭和荘も最近とり壊され、新しいオートロックのマンションが建てられた。
かつての昭和荘の住人たちは、いつのまにか姿を消していた。
新しい住人達はいずれも若く、猿のようにちゃあちゃあいいながら暮らしている。
もちろん人を狂わせるクソぼろいアパートより、
万全のセキュリティがある新築マンションのほうが住むには良いに決まっている。
しかし、マンションが建てられたその土地には、
昭和荘から滲みでた狂気と、かつての住人達が吐きだした瘴気が染み込んでいる。
それは、少しずつその土地の新しい住人達を蝕んで行くだろう。
そして、俺の家と俺は何年間も、
昭和荘の狂気と瘴気にさらされてきた。
もしかしたら、今度は俺が部屋の中で焚き火をする番かもしれない。
絶望的な気分だ。
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