B.B.QUEENS「おどるポンポコリン」制作秘話
日本の音楽シーンにおいて最もセールスを上げたシングル曲、それは1975年12月に発売されて450万枚を超えるセールスを記録した「およげ!たいやきくん」である。このようなメガ・ヒットは80年代には皆無になり、アルバムの方がセールスを伸ばすようになっていた。アナログ盤は姿を消し、それにとって代わったCDは、その扱い易さと高音質でマーケットの変化をもたらした。
1991年の小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」のミリオン・ヒットは、トレンディー・ドラマのタイアップが“グレイゾーン”の購買意欲を刺激、大きなセールスを生む事を証明した。と同時に、当時急速に普及し始めたカラオケ・ブームのニーズに合わせてオリジナル・カラオケを付けるといったマーケティング戦略も、こうしたブームを後押しした。
そして、そんなCDバブル時代の幕開けを飾ったのが他ならぬB.B.QUEENSだった。
1990年4月、フジテレビ系アニメ「ちびまる子ちゃん」が放映され、そのエンディング・テーマとしてO.A.されていた「おどるポンポコリン」が大ヒット。このヒットを皮切りにミリオン、ダブルミリオン・シングルは当たり前、業界史上空前のCDバブル時代の到来だ。同時に“J-POP”といった言葉が氾濫するようになっていく。
とにかく時代は浮かれていた。学生は、就職難どころか、就職出来て当たり前。大学生はどこまでも気楽に人生そのものをレジャーとして満喫。そんな気楽な時代だからこそ、巻き起こった現象がバンド・ブームだった。現在のJ-パンク・シーンの基盤にもなったこの現象、TBS系深夜に放映されていたオーディション番組「イカす!バンド天国」がきっかけだった。この番組は、深夜としては異例の視聴率を記録、カブキロックス、フライングキッズ、BEGIN、ブランキージェットシティ等が次々とメジャー・デビュー。ヒット・チャートを席巻していったのだ。
ある意味これは、80年代半ばより脈々とアンダーグラウンドで培われてきたインディーズ・シーンの到達地点だった。
60年代は、ビートルズやローリング・ストーンズといった“ブリティッシュ・インヴェージョン”が、世界中のヒット・チャートを席巻した事に対抗して、ブリルビル・スタッフサイドが総力を結集して作り上げたモンキーズは、プロフェッショナリズムの結晶だった。歴戦錬磨のプロによる、音楽を通じての徹底的遊び感覚。バンド・ブームに対するビーイングからの回答、B.B.QUEENSとは、まさにそんな存在だった。
B.B.QUEENSが結成されたのは1990年。80年代中盤にブレイクしたTUBEと、それを取り囲むファミリー的存在として結成された期間限定ユニット“渚のオールスターズ”の流れの中で、レーベル・メイトによるセッション。近藤房之助がTUBEの前田亘輝とブルーズで共演し、アルバムにコーラスで参加したり、といった行為が日常茶飯事に行なわれていた。その延長線上にあったのが“渚のオールスターズ”であり、その発展形こそがB.B.QUEENSなのだ。
当初、長戸がプロデュースしていたTUBEが3年目あたりからだんだんロック色が強くなり(メンバーの意向で)、当初の夏バンドのコンセプトが失くなる方向になりつつあった。そこで長戸は、TUBEはメンバーがやりたがっているようにロック色を強く、代わりに夏企画バンドを立ち上げようと、前田も参加する“渚のオールスターズ”(ここには近藤房之助、坪倉唯子、栗林誠一郎が参加していた)を結成する。が、TUBEのロック色強い方向は徐々に変わり、5年目の夏、彼らは「あー夏休み」(これは春畑道哉が作った3曲のそれぞれのA、B、Cを長戸がくっつけて出来上がった)で再び夏バンドでブレイクする。そこで、長戸は渚のオールスターズの主だった面々を引き連れて新レーベルを設立する。
当時のビーイング・グループを代表するスタジオ・ミュージシャンやブルーズ系ミュージシャン等(その代表的存在が近藤房之助)がYeah! Recordsというレーベルからブルーズ・セッション系の作品を何枚かリリースしていた。その流れの中から、ビーイング・グループを取り巻く本物のミュージシャンで、次世代のAOR、大人が聴ける音楽を作ろうと、BMGビクターにRhizome(リゾー厶)というレーベルを設立。近藤房之助の『MY INNOCENT TIME~LIVE AT ROPPONGI PIT INN』(1992年3月21日リリース)といったアルバム他をリリース。
B.B.QUEENSは、コミカルな要素もあったから“コミック・ソングを演っているバラエティ・バンド”という意見も確かにあるだろうし、実際そういう部分はあながち否定出来ない。だからといって小手先だけではなく、むしろコミック的要素が強まるほど、そこに音楽的指向性がしっかりと存在していないとバンドとして成立しない。
ブレイクダウン時代より日本ブルーズ・シーンを支え続けてきた近藤房之助、数々のセッションを経験してきたベテランシンガー坪倉唯子、そしてスタジオ・ミュージシャンとしても一流、今やJ-FUSIONの代表的ギタリスト、DIMENSION増崎孝司、ZARDの「君がいない」「Don't you see!」「もう少し あと少し…」等数々のヒット曲を世に送り出した栗林誠一郎(一時、TUBEのベースを担当していた)、ヒーリング系ミュージックの名盤を残した望月衛介(ZARD「遠い日のNostalgia」は彼の作曲)といった、後に各々がそれぞれの場所において脚光を浴びた事を考えれば、B.B.QUEENSという存在は、本物の才能が集まった豪華な遊び場だったという事がよく理解出来る(よくよく考えれば、名前自体がB.B.KINGのパロディという部分も徹底している)。
パロディは技術的に未熟なミュージシャンがやっても伝わらない。熟練の技術を持ったミュージシャンが音楽というメディアを通じて徹底的に遊び倒してこそのパロディ。むしろ、この停滞し切った現在の音楽シーンにおいて、彼らのような存在こそ今最も必要とされているのかもしれない。
◆「BEST OF BEST 1000」シリーズ ダイジェスト映像
https://www.barks.jp/watch/?id=1000020789
[楽曲解説]
1. We Are B.B.クィーンズ
1990年7月4日リリースの1stアルバム『We Are B.B.クイーンズ』に収録。
フィンガー5の「ダンス天国」的アプローチが痛快な、作詞・作曲:坪倉唯子作品。とにかく遊んでしまえ!という、ある種のやけっぱちなアプローチがまた聴き手の楽しさをそそる。それぞれの参加メンバーのキャリアがあってこそ、こういった楽曲は映える、という典型的楽曲である。
2. おどるポンポコリン
1990年4月4日に発売された1stシングル。90年代J-POPシーンの代表的楽曲であり、歌謡曲から“J-POP”という呼び名に移り変わるきっかけともなった一曲。
当時、全盛だったユーロビートを要素として取り入れ、CD時代初のミリオン・ヒットを記録。この曲は、織田のデモ曲の中から長戸が選び出した3曲の中の1曲(その内の1曲は「ゆめいっぱい」という曲で、新人、関ゆみ子のデビューシングルとなり、かつこちらがアニメ「ちびまる子」ちゃんのオープニング・テーマだった)。
「おどるポンポコリン」は、当初リード・ヴォーカルは栗林が取る予定だったが、たまたま栗林が海外に出ていてつかまらないという理由で急遽、坪倉唯子の起用が決定。Keyが合わないのでテープの回転を変えて収録した。更に歌詞の中に“インチキおじさん登場”というフレーズがあることから、「やっぱりおじさんがいないとまずいだろう?」という長戸の発案で近藤房之助もヴォーカルを取る事になった。
もとは、マンガの単行本だった「ちびまる子ちゃん」に感動した長戸が、作者のさくらももこに逢いに行き、そこで近々TVアニメ化されるということを聞き、長戸がテーマ曲を担当することになったのだという。だから「エンディングは、どうしてもさくらももこに詞を書いて遊んで欲しかった。」と言っていた。
当初、歌詞の中には“おどるポンポコリン”というフレーズは入っていなかった。が、「このままでは子供が買いづらいだろう」とこれもまた長戸の発案で「ポンポコリン」という1フレーズが歌の中に取り入れられた(サビはピーヒャラ ピーヒャラしかなかった)。
また、もちろんヴォーカル部分を早回しで録音して子供のような声で聞かせる手法は60年代フォーク・クルセイダーズの名曲「帰ってきたヨッパライ」へのオマージュ。所々で近藤がシャウトしている部分では、「サム・クックやレイ・チャールズみたいに」と長戸はアドバイスしたそうだ。
また、和製合唱団や和太鼓等の音が随所に登場するアレンジも“とにかく徹底的に音楽で遊ぶ”というビーイング流パロディ精神、やんちゃぶりが最も端的に現れた楽曲である(ビーイング設立後初のヒット曲が、1978年、企画バンド、スピニッヂ・パワーの「ポパイ・ザ・セーラーマン」というディスコ曲だった事からも伺えるように、こういった時代の大衆性をつかむ彼の楽曲センスは、ビーイング・グループの一つの特長でもある)。
ちなみにこの年の夏に行われた全国高等学校野球選手権大会では、出場校49校中38校が応援歌としてこの楽曲を選ぶなど、社会現象ももたらした。年末には日本レコード大賞ポップス・ゴールドディスク賞、ゴールドディスク大賞グランプリ・シングル賞を受賞、NHK紅白歌合戦の出場も果たしている。
セールス的にはリリース当初あまり期待されていなかったが、リリース後の反響が予想以上に多く、問い合わせの電話がひっきりなしにかかってくる程だった。チャート・アクション的には息の長いヒットを維持しており、オリコン初登場24位、発売10週目で初のトップ10、更に49週連続トップ50にランクインする等、まさに時代を代表する1曲。フジテレビ系アニメ「ちびまる子ちゃん」エンディング・テーマ。
実は、当初企画モノだったため活動は一切やらない予定だった。ところがオリコンの上位に毎週登場するようになり、ついに長戸と旧知の仲だったフジテレビの音楽プロデューサー、渡辺ミツオ氏から出てくれないか?、とお声がかかることに。
当時、長戸はB'zの初の海外レコーディングのためニューヨークにいた。毎夜かかってくる国際電話に出演を固辞していたが、ブロードウェイのミュージカルを観て、長戸は閃く。「よし、より日本的なシャレバンドにしてやろう。」と。
そして、閃いたのが「ひな人形」だった。近藤をお内裏様、坪倉をお雛様、そして増崎達を五人囃子、そこで三人官女を帰国したらすぐ探そう「見つかり次第、出演する」という事になった。そこでオーディションが行なわれ、後のMi-Keのメンバーが決定する。
3. ドレミファだいじょーぶ
1991年12月16日リリースの5thシングル。長戸の発案でドレミファソラシド ドシラソファミレドで曲を作るという企画で生まれた。「ツイスト&シャウト」調の掛け合いコーラスでスタートするポップ・ナンバー。日本テレビ系「はじめてのおつかい」の主題歌に使用され、好評につき急遽シングル化された。「おどるポンポコリン」以来、B.B.QUEENSの音楽性の特長は、大人も子供も楽しめるという点。かつてのビートルズがそうだったように、究極のエンターテインメントというものは大人でも子供でも楽しめるもの。そういう意味でB.B.QUEENSはまさにエンターテインメントなバンドだったという事が理解出来る楽曲だ。実は現在も番組で使用されていて2007年3月14日に再発売している。
4. ギンギラパラダイス
1990年12月19日リリースの2ndシングル。リゾート感覚溢れるアメリカン・ポップス調のナンバー。ウィットに富んだフレーズがリズミカルな楽曲とマッチして、楽しげな雰囲気が心地良い。ちなみにこの楽曲のプロモーションで、「ミュージックステーション」に出演した際、海のセットを背景にMi-Keと一緒の振り付けを20人の子供達がやるという演出が印象的だった。オリコン最高位2位を記録。この時期に前作「おどるポンポコリン」が再浮上。その週の3位まで上がってくるといった予想外の現象も巻き起こした。Victoria CFイメージソング。
5. ぼくらの七日間戦争~Seven Days Dream~
1991年6月5日リリースの3rdシングル。楽曲的には80年代後半のTUBEや渚のオールスターズを彷彿とさせるリゾート・スタイルのポップ・ソング。“裸のままとろけそう”とか“ため息が出ちゃうほど 抱きしめられた”といった、ちょっとHな歌詞をあえて盛り込む事で、子供だけでなく、親までも巻き込んでニヤリとさせる手法は、長戸ならではのユーモア精神の表れだ。90年代以降、ビーイング・グループは数々のアニメ作品とタイアップを繰り返してきている。だが、アニメ楽曲だからといって、チャイルディッシュな楽曲を制作することはまずない。その制作方針にはある種、子供と大人の関係への平等精神が横たわっている。オリコン初登場10位。角川春樹事務所作品 配給/松竹株式会社「ぼくらの七日間戦争2」主題歌。
6. ゆめいっぱい(B.B.クィーンズ・ヴァージョン)
「ちびまる子ちゃん」のオープニング・ナンバーとして関ゆみ子が歌っていた、こちらはB.B.QUEENSヴァージョン。レゲエ・ヴァージョンとして1stアルバム『We Are B.B.クィーンズ』に収録された。
7. 夢のENDはいつも目覚まし
1992年11月26日リリースの6thシングル。近藤、坪倉のユニゾン・ヴォーカルからスタートという珍しい構成。楽曲的にはアメリカン・ハードポップ的展開を見せつつ、キャッチーにまとめている。テレビ朝日系アニメ「クレヨンしんちゃん」のオープニング・テーマとしてO.A.され、オリコン・チャートに21週ランクインする等、息の長いヒットとなった。
8. キスの途中
1991年10月9日リリースの4thシングル。コニー・フランシスのヒット曲である「ボーイハント」を彷彿とさせる美しい3連バラッド。こういったパロディ精神もまた、B.B.QUEENSの楽曲を楽しむひとつのポイントである。ビーイングという制作集団を考える場合、50年代~60年代のアメリカン・ポップスの要素は絶対に外せない(何故ならば、創立者長戸大幸の音楽的ルーツはまさにそこにあり、当時学生だった長戸が食事代も節約して高価だったレコードを収集、その数3万枚に及び、彼は50年代~60年代のヒットチャートを全て暗記しているという)。そういう意味では、ビーイングのルーツを垣間見れる貴重な楽曲ではないだろうか。
9. 君にコケコッコー
「ギンギラパラダイス」と両A面として発表された楽曲。「おどるポンポコリン」の延長線上にあるユーロビート歌謡だが、「おどるポンポコリン」にあるようなアナーキーさは影を潜め、ポップ・ソングとして素直に機能している。そんなところがこの楽曲の根強い人気を誇っている要因なのだろう。ただ、ラテン系のリズム・セクションを取り入れたり、「おどるポンポコリン」同様、和太鼓や尺八をイントロ導入部に持ってくる等遊び心は健在。2ndアルバム『PARTY』にも収録。
10. I Remember You
デフ・レパードやシンデレラに代表される、80年代後半~90年代前半にかけてのアメリカン・ハード・ロックを彷彿とさせる、ダイナミックなサウンドに驚かされる。ただハードにまとめるのではなく、あくまでポップで切ない雰囲気が崩れないところがポイント。3rdアルバム『真夏のB.B.クィーンズ』に収録。
11. カエルの合唱
1stアルバム『We Are B.B.クィーンズ』に収録されたカヴァー曲。子供達の輪唱のイメージが強いこのナンバーを、ここではなんと7拍子のJAZZにアレンジ。曲後半はビッグバンドの演奏にまで発展、大人たちが粋に楽しめるナンバーに仕上げている。
12. 赤とんぼ
こちらも、1stアルバム『We Are B.B.クィーンズ』に収録のカヴァー曲。こちらは“インチキおじさん”こと近藤房之助が生粋のブルーズシンガーである事を証明するブルーズ・アレンジで。原曲のイメージに左右されることなく、本格派ミュージシャンの実力をこういったアルバム収録のカバー曲で表現するところにB.B.QUEENSの底力が隠されている。今こそ、再評価されて然るべき魅力ある音源だ。
文:斉田才
1991年の小田和正「ラブ・ストーリーは突然に」のミリオン・ヒットは、トレンディー・ドラマのタイアップが“グレイゾーン”の購買意欲を刺激、大きなセールスを生む事を証明した。と同時に、当時急速に普及し始めたカラオケ・ブームのニーズに合わせてオリジナル・カラオケを付けるといったマーケティング戦略も、こうしたブームを後押しした。
そして、そんなCDバブル時代の幕開けを飾ったのが他ならぬB.B.QUEENSだった。
1990年4月、フジテレビ系アニメ「ちびまる子ちゃん」が放映され、そのエンディング・テーマとしてO.A.されていた「おどるポンポコリン」が大ヒット。このヒットを皮切りにミリオン、ダブルミリオン・シングルは当たり前、業界史上空前のCDバブル時代の到来だ。同時に“J-POP”といった言葉が氾濫するようになっていく。
とにかく時代は浮かれていた。学生は、就職難どころか、就職出来て当たり前。大学生はどこまでも気楽に人生そのものをレジャーとして満喫。そんな気楽な時代だからこそ、巻き起こった現象がバンド・ブームだった。現在のJ-パンク・シーンの基盤にもなったこの現象、TBS系深夜に放映されていたオーディション番組「イカす!バンド天国」がきっかけだった。この番組は、深夜としては異例の視聴率を記録、カブキロックス、フライングキッズ、BEGIN、ブランキージェットシティ等が次々とメジャー・デビュー。ヒット・チャートを席巻していったのだ。
ある意味これは、80年代半ばより脈々とアンダーグラウンドで培われてきたインディーズ・シーンの到達地点だった。
60年代は、ビートルズやローリング・ストーンズといった“ブリティッシュ・インヴェージョン”が、世界中のヒット・チャートを席巻した事に対抗して、ブリルビル・スタッフサイドが総力を結集して作り上げたモンキーズは、プロフェッショナリズムの結晶だった。歴戦錬磨のプロによる、音楽を通じての徹底的遊び感覚。バンド・ブームに対するビーイングからの回答、B.B.QUEENSとは、まさにそんな存在だった。
B.B.QUEENSが結成されたのは1990年。80年代中盤にブレイクしたTUBEと、それを取り囲むファミリー的存在として結成された期間限定ユニット“渚のオールスターズ”の流れの中で、レーベル・メイトによるセッション。近藤房之助がTUBEの前田亘輝とブルーズで共演し、アルバムにコーラスで参加したり、といった行為が日常茶飯事に行なわれていた。その延長線上にあったのが“渚のオールスターズ”であり、その発展形こそがB.B.QUEENSなのだ。
当初、長戸がプロデュースしていたTUBEが3年目あたりからだんだんロック色が強くなり(メンバーの意向で)、当初の夏バンドのコンセプトが失くなる方向になりつつあった。そこで長戸は、TUBEはメンバーがやりたがっているようにロック色を強く、代わりに夏企画バンドを立ち上げようと、前田も参加する“渚のオールスターズ”(ここには近藤房之助、坪倉唯子、栗林誠一郎が参加していた)を結成する。が、TUBEのロック色強い方向は徐々に変わり、5年目の夏、彼らは「あー夏休み」(これは春畑道哉が作った3曲のそれぞれのA、B、Cを長戸がくっつけて出来上がった)で再び夏バンドでブレイクする。そこで、長戸は渚のオールスターズの主だった面々を引き連れて新レーベルを設立する。
当時のビーイング・グループを代表するスタジオ・ミュージシャンやブルーズ系ミュージシャン等(その代表的存在が近藤房之助)がYeah! Recordsというレーベルからブルーズ・セッション系の作品を何枚かリリースしていた。その流れの中から、ビーイング・グループを取り巻く本物のミュージシャンで、次世代のAOR、大人が聴ける音楽を作ろうと、BMGビクターにRhizome(リゾー厶)というレーベルを設立。近藤房之助の『MY INNOCENT TIME~LIVE AT ROPPONGI PIT INN』(1992年3月21日リリース)といったアルバム他をリリース。
B.B.QUEENSは、コミカルな要素もあったから“コミック・ソングを演っているバラエティ・バンド”という意見も確かにあるだろうし、実際そういう部分はあながち否定出来ない。だからといって小手先だけではなく、むしろコミック的要素が強まるほど、そこに音楽的指向性がしっかりと存在していないとバンドとして成立しない。
ブレイクダウン時代より日本ブルーズ・シーンを支え続けてきた近藤房之助、数々のセッションを経験してきたベテランシンガー坪倉唯子、そしてスタジオ・ミュージシャンとしても一流、今やJ-FUSIONの代表的ギタリスト、DIMENSION増崎孝司、ZARDの「君がいない」「Don't you see!」「もう少し あと少し…」等数々のヒット曲を世に送り出した栗林誠一郎(一時、TUBEのベースを担当していた)、ヒーリング系ミュージックの名盤を残した望月衛介(ZARD「遠い日のNostalgia」は彼の作曲)といった、後に各々がそれぞれの場所において脚光を浴びた事を考えれば、B.B.QUEENSという存在は、本物の才能が集まった豪華な遊び場だったという事がよく理解出来る(よくよく考えれば、名前自体がB.B.KINGのパロディという部分も徹底している)。
パロディは技術的に未熟なミュージシャンがやっても伝わらない。熟練の技術を持ったミュージシャンが音楽というメディアを通じて徹底的に遊び倒してこそのパロディ。むしろ、この停滞し切った現在の音楽シーンにおいて、彼らのような存在こそ今最も必要とされているのかもしれない。
◆「BEST OF BEST 1000」シリーズ ダイジェスト映像
https://www.barks.jp/watch/?id=1000020789
[楽曲解説]
1. We Are B.B.クィーンズ
1990年7月4日リリースの1stアルバム『We Are B.B.クイーンズ』に収録。
フィンガー5の「ダンス天国」的アプローチが痛快な、作詞・作曲:坪倉唯子作品。とにかく遊んでしまえ!という、ある種のやけっぱちなアプローチがまた聴き手の楽しさをそそる。それぞれの参加メンバーのキャリアがあってこそ、こういった楽曲は映える、という典型的楽曲である。
2. おどるポンポコリン
1990年4月4日に発売された1stシングル。90年代J-POPシーンの代表的楽曲であり、歌謡曲から“J-POP”という呼び名に移り変わるきっかけともなった一曲。
当時、全盛だったユーロビートを要素として取り入れ、CD時代初のミリオン・ヒットを記録。この曲は、織田のデモ曲の中から長戸が選び出した3曲の中の1曲(その内の1曲は「ゆめいっぱい」という曲で、新人、関ゆみ子のデビューシングルとなり、かつこちらがアニメ「ちびまる子」ちゃんのオープニング・テーマだった)。
「おどるポンポコリン」は、当初リード・ヴォーカルは栗林が取る予定だったが、たまたま栗林が海外に出ていてつかまらないという理由で急遽、坪倉唯子の起用が決定。Keyが合わないのでテープの回転を変えて収録した。更に歌詞の中に“インチキおじさん登場”というフレーズがあることから、「やっぱりおじさんがいないとまずいだろう?」という長戸の発案で近藤房之助もヴォーカルを取る事になった。
もとは、マンガの単行本だった「ちびまる子ちゃん」に感動した長戸が、作者のさくらももこに逢いに行き、そこで近々TVアニメ化されるということを聞き、長戸がテーマ曲を担当することになったのだという。だから「エンディングは、どうしてもさくらももこに詞を書いて遊んで欲しかった。」と言っていた。
当初、歌詞の中には“おどるポンポコリン”というフレーズは入っていなかった。が、「このままでは子供が買いづらいだろう」とこれもまた長戸の発案で「ポンポコリン」という1フレーズが歌の中に取り入れられた(サビはピーヒャラ ピーヒャラしかなかった)。
また、もちろんヴォーカル部分を早回しで録音して子供のような声で聞かせる手法は60年代フォーク・クルセイダーズの名曲「帰ってきたヨッパライ」へのオマージュ。所々で近藤がシャウトしている部分では、「サム・クックやレイ・チャールズみたいに」と長戸はアドバイスしたそうだ。
また、和製合唱団や和太鼓等の音が随所に登場するアレンジも“とにかく徹底的に音楽で遊ぶ”というビーイング流パロディ精神、やんちゃぶりが最も端的に現れた楽曲である(ビーイング設立後初のヒット曲が、1978年、企画バンド、スピニッヂ・パワーの「ポパイ・ザ・セーラーマン」というディスコ曲だった事からも伺えるように、こういった時代の大衆性をつかむ彼の楽曲センスは、ビーイング・グループの一つの特長でもある)。
ちなみにこの年の夏に行われた全国高等学校野球選手権大会では、出場校49校中38校が応援歌としてこの楽曲を選ぶなど、社会現象ももたらした。年末には日本レコード大賞ポップス・ゴールドディスク賞、ゴールドディスク大賞グランプリ・シングル賞を受賞、NHK紅白歌合戦の出場も果たしている。
セールス的にはリリース当初あまり期待されていなかったが、リリース後の反響が予想以上に多く、問い合わせの電話がひっきりなしにかかってくる程だった。チャート・アクション的には息の長いヒットを維持しており、オリコン初登場24位、発売10週目で初のトップ10、更に49週連続トップ50にランクインする等、まさに時代を代表する1曲。フジテレビ系アニメ「ちびまる子ちゃん」エンディング・テーマ。
実は、当初企画モノだったため活動は一切やらない予定だった。ところがオリコンの上位に毎週登場するようになり、ついに長戸と旧知の仲だったフジテレビの音楽プロデューサー、渡辺ミツオ氏から出てくれないか?、とお声がかかることに。
当時、長戸はB'zの初の海外レコーディングのためニューヨークにいた。毎夜かかってくる国際電話に出演を固辞していたが、ブロードウェイのミュージカルを観て、長戸は閃く。「よし、より日本的なシャレバンドにしてやろう。」と。
そして、閃いたのが「ひな人形」だった。近藤をお内裏様、坪倉をお雛様、そして増崎達を五人囃子、そこで三人官女を帰国したらすぐ探そう「見つかり次第、出演する」という事になった。そこでオーディションが行なわれ、後のMi-Keのメンバーが決定する。
3. ドレミファだいじょーぶ
1991年12月16日リリースの5thシングル。長戸の発案でドレミファソラシド ドシラソファミレドで曲を作るという企画で生まれた。「ツイスト&シャウト」調の掛け合いコーラスでスタートするポップ・ナンバー。日本テレビ系「はじめてのおつかい」の主題歌に使用され、好評につき急遽シングル化された。「おどるポンポコリン」以来、B.B.QUEENSの音楽性の特長は、大人も子供も楽しめるという点。かつてのビートルズがそうだったように、究極のエンターテインメントというものは大人でも子供でも楽しめるもの。そういう意味でB.B.QUEENSはまさにエンターテインメントなバンドだったという事が理解出来る楽曲だ。実は現在も番組で使用されていて2007年3月14日に再発売している。
4. ギンギラパラダイス
1990年12月19日リリースの2ndシングル。リゾート感覚溢れるアメリカン・ポップス調のナンバー。ウィットに富んだフレーズがリズミカルな楽曲とマッチして、楽しげな雰囲気が心地良い。ちなみにこの楽曲のプロモーションで、「ミュージックステーション」に出演した際、海のセットを背景にMi-Keと一緒の振り付けを20人の子供達がやるという演出が印象的だった。オリコン最高位2位を記録。この時期に前作「おどるポンポコリン」が再浮上。その週の3位まで上がってくるといった予想外の現象も巻き起こした。Victoria CFイメージソング。
5. ぼくらの七日間戦争~Seven Days Dream~
1991年6月5日リリースの3rdシングル。楽曲的には80年代後半のTUBEや渚のオールスターズを彷彿とさせるリゾート・スタイルのポップ・ソング。“裸のままとろけそう”とか“ため息が出ちゃうほど 抱きしめられた”といった、ちょっとHな歌詞をあえて盛り込む事で、子供だけでなく、親までも巻き込んでニヤリとさせる手法は、長戸ならではのユーモア精神の表れだ。90年代以降、ビーイング・グループは数々のアニメ作品とタイアップを繰り返してきている。だが、アニメ楽曲だからといって、チャイルディッシュな楽曲を制作することはまずない。その制作方針にはある種、子供と大人の関係への平等精神が横たわっている。オリコン初登場10位。角川春樹事務所作品 配給/松竹株式会社「ぼくらの七日間戦争2」主題歌。
6. ゆめいっぱい(B.B.クィーンズ・ヴァージョン)
「ちびまる子ちゃん」のオープニング・ナンバーとして関ゆみ子が歌っていた、こちらはB.B.QUEENSヴァージョン。レゲエ・ヴァージョンとして1stアルバム『We Are B.B.クィーンズ』に収録された。
7. 夢のENDはいつも目覚まし
1992年11月26日リリースの6thシングル。近藤、坪倉のユニゾン・ヴォーカルからスタートという珍しい構成。楽曲的にはアメリカン・ハードポップ的展開を見せつつ、キャッチーにまとめている。テレビ朝日系アニメ「クレヨンしんちゃん」のオープニング・テーマとしてO.A.され、オリコン・チャートに21週ランクインする等、息の長いヒットとなった。
8. キスの途中
1991年10月9日リリースの4thシングル。コニー・フランシスのヒット曲である「ボーイハント」を彷彿とさせる美しい3連バラッド。こういったパロディ精神もまた、B.B.QUEENSの楽曲を楽しむひとつのポイントである。ビーイングという制作集団を考える場合、50年代~60年代のアメリカン・ポップスの要素は絶対に外せない(何故ならば、創立者長戸大幸の音楽的ルーツはまさにそこにあり、当時学生だった長戸が食事代も節約して高価だったレコードを収集、その数3万枚に及び、彼は50年代~60年代のヒットチャートを全て暗記しているという)。そういう意味では、ビーイングのルーツを垣間見れる貴重な楽曲ではないだろうか。
9. 君にコケコッコー
「ギンギラパラダイス」と両A面として発表された楽曲。「おどるポンポコリン」の延長線上にあるユーロビート歌謡だが、「おどるポンポコリン」にあるようなアナーキーさは影を潜め、ポップ・ソングとして素直に機能している。そんなところがこの楽曲の根強い人気を誇っている要因なのだろう。ただ、ラテン系のリズム・セクションを取り入れたり、「おどるポンポコリン」同様、和太鼓や尺八をイントロ導入部に持ってくる等遊び心は健在。2ndアルバム『PARTY』にも収録。
10. I Remember You
デフ・レパードやシンデレラに代表される、80年代後半~90年代前半にかけてのアメリカン・ハード・ロックを彷彿とさせる、ダイナミックなサウンドに驚かされる。ただハードにまとめるのではなく、あくまでポップで切ない雰囲気が崩れないところがポイント。3rdアルバム『真夏のB.B.クィーンズ』に収録。
11. カエルの合唱
1stアルバム『We Are B.B.クィーンズ』に収録されたカヴァー曲。子供達の輪唱のイメージが強いこのナンバーを、ここではなんと7拍子のJAZZにアレンジ。曲後半はビッグバンドの演奏にまで発展、大人たちが粋に楽しめるナンバーに仕上げている。
12. 赤とんぼ
こちらも、1stアルバム『We Are B.B.クィーンズ』に収録のカヴァー曲。こちらは“インチキおじさん”こと近藤房之助が生粋のブルーズシンガーである事を証明するブルーズ・アレンジで。原曲のイメージに左右されることなく、本格派ミュージシャンの実力をこういったアルバム収録のカバー曲で表現するところにB.B.QUEENSの底力が隠されている。今こそ、再評価されて然るべき魅力ある音源だ。
文:斉田才
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