増田勇一のライヴ日記【1】 2007年5月18日(金)ナイン・インチ・ネイルズ@新木場STUDIO COAST
ここではいわゆるライヴ評やレポートではなく、重症のライヴ中毒とでもいうべき体質の僕が(1週間何も観ずにいたりすると禁断症状が出ます)、日々のライヴを通じて感じたこと、考えさせられたことなどを綴っていきたいと思う。
まず記念すべき(?)第1回はナイン・インチ・ネイルズ(以下NIN)。
モノを書く人間として「最高!」なんて言葉を安易に頻発することは避けるべきなのだが、まさにこれは2007年度ベスト・ライヴ候補と言っていいんじゃないだろうか。とにかく最高のライヴだった。
午後6時54分。まだ開演時刻に達しないうちに場内はいきなり暗転。ほの暗いステージに登場したのはノルウェーからやってきたオープニング・アクトのSERENA MANEESH。ヴァイオリン奏者や女性メンバーも含む編成による、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインあたりを彷彿とさせるところのあるバンドだ。
シューゲイザー系という括りの定義は曖昧だし僕自身そうカテゴライズされる音楽に精通しているわけでもないが、確かにステージ上のメンバーたちは客席よりも自分たちの靴を見つめていたかもしれない。ただ、過度にヴォーカルが引っ込んだイビツな音作りゆえに楽曲の輪郭が掴みにくくはあったものの、独特の歪んだ空気感は印象的だったし、短い演奏時間のなかで自分たちがナニモノであるかを主張することには成功していたと思う。
そして肝心のナイン・インチ・ネイルズ。最新アルバム『イヤー・ゼロ~零原点…』の国内リリースからわずか3週間で実現に至ったジャパン・ツアーの初日公演は、トレント・レズナー自身が心身ともにとても充実した現状にあること、この“バンド”のエンジンがすでに充分すぎるほど温まっていて幾らでも爆走できる状態にあることを無条件に理解させてくれるものとなった。
まだこれから公演を観る人たちのためにも、敢えて具体的な演奏曲目や曲順については触れずにおきたい。が、たとえば仮に最新アルバムからの楽曲しか演奏しないというような極端な構成のライヴをやろうと、NINの場合はそれが許されて当然というか、むしろ“今”を観させてもらわないと納得できないところもあるわけだが、そのへんのバランス感覚も実に見事だった。
しっかりと“今”を立体的に表現しながら、しかも“本音を言えば、やはり常に聴きたいマスト・チューン”たちを必要以上にお約束の匂いを感じさせることなく披露してくれる。さらにトレントは日本という国について「この惑星上、もっとも気に入っている場所」と語り、ちょうど前日に誕生日を迎えた彼に向けて「ハッピー・バースデイ」の小さな合唱が起こると、「29歳になったよ」と言って拍手と歓声のみならず笑いをも誘ってみせた。実は優れたエンターテイナーでもあるのだな、と改めて気づかされた瞬間だった。
同時にトレントの姿は、これまでに彼らのライヴを目撃したどんなときよりも人間的に見えた。芸術表現に精神と肉体が追いついている状態、なんて言い方は抽象的すぎるかもしれないが、アタマだけで作られたものでもエネルギーだけで成立しているものでもないからこそ、僕はNINの音楽とライヴ・パフォーマンスに惹かれるのだろう。
確かにかつてのような危うさ、ある種のもろさを持ったトレントもまた魅力的ではあった。屈強で健全な彼ではなく、葛藤にもがき苦悩する彼にこそ惹かれるという人たちもいるだろう。しかし僕は、そんな局面を通過し、克服してきた現在の彼に、今はいちばんリアリティを感じてしまう。生々しい躍動を感じてしまう。
NINを初めて観たのは1991年、ジェーンズ・アディクションのロサンゼルス公演で彼らがオープニング・アクトを務めたときのことだった。暗闇のなかでストロボライトが点滅を繰り返すという光景のど真ん中にトレントはいたはずだが、実際、その姿はほとんど肉眼では確認できなかった。
それから幾度かの接近遭遇を経ながら至った現在、あの頃と同じ「ヘッド・ライク・ア・ホール」を歌う彼の姿は、実にくっきりと鮮明に見えた。開演前に購入したTシャツには“ART IS RESISTANCE”と記されていたが、その言葉は“芸術が世の中に対する抵抗手段になり得る”ことばかりを指しているのではなく、“表現者が従来の自分自身に抵抗しながら生み出すのが芸術”といった意味でもあるんじゃないだろうか。汗まみれのトレントの雄姿に、ふとそんなことを思わされた。
文●増田勇一
まず記念すべき(?)第1回はナイン・インチ・ネイルズ(以下NIN)。
モノを書く人間として「最高!」なんて言葉を安易に頻発することは避けるべきなのだが、まさにこれは2007年度ベスト・ライヴ候補と言っていいんじゃないだろうか。とにかく最高のライヴだった。
午後6時54分。まだ開演時刻に達しないうちに場内はいきなり暗転。ほの暗いステージに登場したのはノルウェーからやってきたオープニング・アクトのSERENA MANEESH。ヴァイオリン奏者や女性メンバーも含む編成による、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインあたりを彷彿とさせるところのあるバンドだ。
シューゲイザー系という括りの定義は曖昧だし僕自身そうカテゴライズされる音楽に精通しているわけでもないが、確かにステージ上のメンバーたちは客席よりも自分たちの靴を見つめていたかもしれない。ただ、過度にヴォーカルが引っ込んだイビツな音作りゆえに楽曲の輪郭が掴みにくくはあったものの、独特の歪んだ空気感は印象的だったし、短い演奏時間のなかで自分たちがナニモノであるかを主張することには成功していたと思う。
そして肝心のナイン・インチ・ネイルズ。最新アルバム『イヤー・ゼロ~零原点…』の国内リリースからわずか3週間で実現に至ったジャパン・ツアーの初日公演は、トレント・レズナー自身が心身ともにとても充実した現状にあること、この“バンド”のエンジンがすでに充分すぎるほど温まっていて幾らでも爆走できる状態にあることを無条件に理解させてくれるものとなった。
まだこれから公演を観る人たちのためにも、敢えて具体的な演奏曲目や曲順については触れずにおきたい。が、たとえば仮に最新アルバムからの楽曲しか演奏しないというような極端な構成のライヴをやろうと、NINの場合はそれが許されて当然というか、むしろ“今”を観させてもらわないと納得できないところもあるわけだが、そのへんのバランス感覚も実に見事だった。
しっかりと“今”を立体的に表現しながら、しかも“本音を言えば、やはり常に聴きたいマスト・チューン”たちを必要以上にお約束の匂いを感じさせることなく披露してくれる。さらにトレントは日本という国について「この惑星上、もっとも気に入っている場所」と語り、ちょうど前日に誕生日を迎えた彼に向けて「ハッピー・バースデイ」の小さな合唱が起こると、「29歳になったよ」と言って拍手と歓声のみならず笑いをも誘ってみせた。実は優れたエンターテイナーでもあるのだな、と改めて気づかされた瞬間だった。
同時にトレントの姿は、これまでに彼らのライヴを目撃したどんなときよりも人間的に見えた。芸術表現に精神と肉体が追いついている状態、なんて言い方は抽象的すぎるかもしれないが、アタマだけで作られたものでもエネルギーだけで成立しているものでもないからこそ、僕はNINの音楽とライヴ・パフォーマンスに惹かれるのだろう。
確かにかつてのような危うさ、ある種のもろさを持ったトレントもまた魅力的ではあった。屈強で健全な彼ではなく、葛藤にもがき苦悩する彼にこそ惹かれるという人たちもいるだろう。しかし僕は、そんな局面を通過し、克服してきた現在の彼に、今はいちばんリアリティを感じてしまう。生々しい躍動を感じてしまう。
NINを初めて観たのは1991年、ジェーンズ・アディクションのロサンゼルス公演で彼らがオープニング・アクトを務めたときのことだった。暗闇のなかでストロボライトが点滅を繰り返すという光景のど真ん中にトレントはいたはずだが、実際、その姿はほとんど肉眼では確認できなかった。
それから幾度かの接近遭遇を経ながら至った現在、あの頃と同じ「ヘッド・ライク・ア・ホール」を歌う彼の姿は、実にくっきりと鮮明に見えた。開演前に購入したTシャツには“ART IS RESISTANCE”と記されていたが、その言葉は“芸術が世の中に対する抵抗手段になり得る”ことばかりを指しているのではなく、“表現者が従来の自分自身に抵抗しながら生み出すのが芸術”といった意味でもあるんじゃないだろうか。汗まみれのトレントの雄姿に、ふとそんなことを思わされた。
文●増田勇一
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