【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話051「音楽リスニングに、ルール制定のススメ」

スポーツの世界では「ルール」が競技の価値を高めている。サッカーのオフサイド、テニスのライン判定、野球のストライクゾーン…いずれも節度ある「制約」を設けることが、ゲームを成立させるために機能し、エンターテイメント性を高めるシステムとしても機能している。
スポーツにルールがあるように、音楽リスニングにも良質なルールがあると音楽の質は上昇するのではないか。そう考えてみると、「音楽を聴く」という行為は「ただの受動的な娯楽」から「クリエイティブな身体活動」へと姿を変える事実に突き当たる。
例えば、聴く前に「リスニング環境を整える」ことは、スポーツ選手が「靴紐を結び直し、集中の角度を整える」ことに似ている。雑音の少ない空間を意識する。スマートフォンの通知を切る。照明の明度を落とす…そのひとつひとつが、音楽を受容する脳のコンディションを整える。音量を意図して決めることも有効なルールになるだろう。大きすぎても小さすぎてもミュージシャンという作り手が目指したスコアから逸脱するかもしれない。環境を制御すると音が立ち上がり、音楽の輪郭が研ぎ澄まされる。最適音量というルールを設けるだけで、音楽は解像度を増したりするものだ。
つまり、ルールは「縛り」ではなく「聴く自由を最大化するためのガイド」となる。スポーツにおいても、自由に見える身体の動きは、実際は厳密な秩序に支えられている。音楽との接し方も同様で、ルールを意図的に導入すると「聴き逃していた自由」を発見する機会を得ることとなる。「アルバムは頭から通して聴く」「イヤホンではなくスピーカーで聴く」「一日に一度は未知のアーティストを試す」…例えばこれらは小さなルールだけど、視界を広げ音楽の意味を変えるきっかけにつながっていく。
スポーツでは身体のコンディションが得点の質を左右するけれど、音楽も全く同様で、聴く側のコンディションが体験のすべてを決定するというのが紛れもない事実だ。疲れている時は機微な余韻は余白になるし、精神が昂っているときはノイズが旋律になる。「自分の心身の状態を自覚し、その日のリスニング戦略を決める」ということもまた一種のルールだ。「今日はしっとりした曲を聴きたい」と思うその気持ちは、音楽の価値を高めるルール作りの一貫だったというわけだ。気分と音楽の相性を把握していると、音楽の価値は跳ね上がる。
そして、ルールが導入されるとリスナーはプレイヤーの側に立つことになる。音楽をただ受け取るのではなく、自らの意思をもって聴く。スポーツ観戦が「知っている人ほど面白い」のと同じように、音楽も「聴き方を知っている人ほど深く響く」という事実に直面する。結局のところ、音楽体験の質を決めているのはアーティストだけではなく、一定のルールを持つリスナー自身が体験の共同制作者になるという構造が隠されているわけだ。
もちろん音楽は自由。だけど、自由の中に「自分で決めたルール」をひとつ置くと、その自由は一段深い層に潜り込む。スポーツがルールによって高度化してきたように、音楽リスニングもまた、ルールによって精度を増すことになる。
聴くという行為は想像以上にクリエイティブな行為だ。今では、生成AIによる音楽や膨大なプレイリストが日常的に流れ込んでくる。音楽が「聴かせてくる時代」とも言える。だからこそ、聴き手が自分のルールを持ち、どのように楽しむかを能動的にコントロールすることは、これからの音楽の楽しみ方を確実に豊かにしていく極めて有効な方法論だ。生成AIが生みだした音楽をどれだけ享受し楽しめるのかは、聴き手のクリエイティビティに委ねられていると思っている。

文◎BARKS 烏丸哲也