クラブ&ダンスのシーンで最も権威ある名前のひとりであるRoni Sizeは、'80年代後半から長期にわたって数多くの作品をリリース、アメリカのでドラムンベース人気に貢献した人物である。ジャマイカ移民を両親に持つSizeは、イギリスのブリストルで育った10代の間にハウスのパーティやクラブに参加、最終的にDJおよびプロデュース業へと進んだ。その後、彼は地元のダンス・イべントのコーディネーションを通じて知り合った仲間であるKrust、Suv、DJ Dieとのコラボレーションを行なうようになる。この集団はReprazentと名乗り、ホームスタジオでブレークビートのレコードを制作。'92年にはJumpin' Jack FrostとBryan Geesが経営する地元のジャングルレーベル、V Recordsと契約するという大きな一歩を踏み出し、'94年にはKrustとともに自身のレーベルFull Cycleを立ち上げたのだった。 SizeとKrustによる最新のコラボレーションアルバム『Through The Eyes』でも、ダンスミュージックシーンにおける発言者としての彼らの人気は確固たるものがある。RoniとDJ KrustはさきごろLAUNCHのMacn Randallのインタヴューに応じ、『In The Mode』(『New Forms』に続く待望のReprazent作品)のリリース、Method Manや元Rage Against The Machineのフロントマン、Zach De La Rochaとの共演、羨むべきイギリスのマーキュリー賞の受賞などについて語ってくれた。 ――ブリストルのシーンはどのようなものですか? RONI SIZE: ブリストルはロンドンから約120マイルのイングランド周縁部にある本当に小さな街で、リアルな文化的風土のある場所なんだ。ジャマイカやインド、中国の文化の影響が見られて、ひとつのストリートに7、8種の異なるカルチャーが、それぞれの文化的な影響を受けた音楽や独自のライフスタイルを持って共存しているのさ。すべての文化がテーブルに並べられている感じだね。 例えば、本物のブラックミュージックの祭典であるセントポールとかアシュトンコートとかの大きなフェスティヴァルがあるよ。セントポールのフェスティヴァルはノッティング・ヒルのお祭りを1日にまとめたような、ブラックの食べ物、音楽、アート、エンタテインメントのコンパクトな祝祭で、僕は今の膝くらいの小さな頃から、このフェスティヴァルに出かけてはストリートを走り回ってた。スピーカーの中に入ってベース音を感じられるくらいに小さい頃からね。家へ歩いて帰るとき、カーニヴァルから3マイルほどの距離でも、音楽が朝やけの空に響いているのが聴こえていたっけ。僕が知ってるTricky、Massive Attack、Portisheadなんかの連中もたくさんカーニヴァルに通ってたから、祝祭的なものがまるでサブリミナルのように作っている音楽に反映されてるのさ。 僕らが世界中へ旅に出かけるようになると、顔をのぞき込まれて「ブリストル出身だって。あそこの水には何か入っているんだよね」なんて言われるようになったよ。それで僕らは「水には何にも入ってないけど、街には独特のクールなヴァイブが流れているんだ。僕らはそのヴァイブに同調して育ってきたのさ」と答えるんだ。ブリストルで何か大きなことを成し遂げるのは難しいよ。ロンドンとかニューヨークとかの大都市にいるよりもずっとハードに働かなくちゃいけないんだ。チャンスが少ないから、うんと努力するしかないのさ。 DJ KRUST: そうだね、ブリストルはあまり大きな街じゃないから、実際に会ったことがなくてもみんな知り合いみたいなものなんだ。僕が最初にDJを始めた頃には、他にDJをやっている人間はほとんどいなかった。Massive AttackのWild Bunchとか、BjorkやDJ RapなんかをプロデュースすることになるToo Badくらいだったよ。でもいろんなサウンドシステムのクルーがあちこちでハウスパーティやウェアハウス(倉庫)パーティをやっていた。だからあらゆる人たちが混じり合って交流していたんだ。 Dynamyte(Reprazentのメンバー)はウェアハウスパーティをやっていた頃からずっと知ってたよ。彼はスケートボードでやってきては、ウロチョロしてたね。Roniは街の反対側の地区でサウンドシステムを運営していた。彼のことは知っていたけど、実際に会ったことはなかったんだ。いくつかのウェアハウスパーティやなんかをやるときに、何度か彼のサウンドシステムを雇ったのさ。Dynamyteが参加したのはずっと後、Full Cycleを立ち上げて回り始めた頃だ。僕らが彼とパーティで会ったときに、Roniはまるでブラッドハウンド(警察犬)のように彼を連れていたんだ。 すべてが立ち上がって回り始めてから、僕らはプロダクション的な事業も手掛けるようになった。ブリストルのシーンはこじんまりとしてるから、みんながお互いのスタジオなんかを行き来してるのさ。お互いのミックスもするし、何かが必要なときにはみんなが手を貸してくれるんだ。ブリストルは静かな街で、ゆったりとしたペースで動いている。誰もが「明日ね」って感じの態度なのさ。つまり「明日、明日、明日やるよ」みたいなことだよ。素晴らしいと思うな。 ――あなたがたの音楽にはダブの影響が大きく見られますが、家ではどんな音楽を聞いていたのですか? またカーニヴァルから受け継いだものはありますか? RONI SIZE: ダブはほとんどの音楽に影響を与えていると思うよ。ヴォーカルバージョンを聴いてからひっくり返してダブサイドをプレイすると、MCが登場してダブに乗せて詩的な方法でリスナーに語りかけるんだ。自家製のスピーカーで再生されるんだけど、ヴォリュームを上げると音が歪んで、それが独特のヴァイブを送りだすのさ。まったく違った種類のエネルギーだよ。家では両親はスカとかStudio Oneのものなんかを聴いていて、それとはちょっと違ってたな。ママはあらゆるところのレコードを集めていたね。 でも僕にとってダブは、今やっていることに大きな影響を与えたもののひとつだよ。実際に育ってきた環境に立脚する必要があるのさ。僕は何度もジャマイカに行って、丘を歩いて上り、子供たちが座り込んでサウンドシステムで遊んでいるのを見てきたよ。何の不安や苦しみもなく、無心になっているのさ。すべて自家製の機材でね。 ――音楽を作りたいと思った何か特定のことってありますか? RONI SIZE: 学校にいた頃はエネルギーがあり余ってて、学校中を走り回っては騒ぎを起こしてたよ。先生もどう扱っていいかわからなかったくらいさ。親が学校へ呼びだされ、僕は校長室で窮地に追い込まれて「なんてこった、痛め付けられるぞ」と脅えていた。彼らが僕に「お前のやりたいことをやれ」っていうから、「音楽をやりたい」と答えたけど、わかってもらえなかったね。彼らにとって音楽とは作曲したり、ヴァイオリンを弾いたり、ピアノでスケールを練習することだったのさ。それは僕のやりたいこととは違った。僕はクラスでビートボックスを鳴らしていて、みんなは僕が狂ってると思ってたよ。友達も僕がクレイジーなやつだと思っていて、僕はそこらじゅうにツバを吐いて回ったんだ。それで学校を追い出された。友達は学校へ通っていたけど、僕には何もやることがないと気付かされたのさ。 僕はブリストル中を動き回って何かを探した。集中してやれる何かをね。そうして飛び込んだのがユースクラブだった。そこでは何をやるべきかを教えてくれるのじゃなくて、僕が何をやりたいのかを聞いてくれたんだ。僕が「音楽をやりたい」と答えたら、彼らはヤマハのドラムマシンRX 7を購入してくれたよ。僕はずっと座り込んで使い方を覚えた。それからサンプラーを購入して、僕がやろうとしていることを理解する手助けをする人を雇ってくれたんだ。僕がそれを修得する頃には、教える立場に回ることになった。若い連中と一緒に音楽を作る仕事をしたかったんだ。それで、機材を持っていろんな地域を回るアウトリーチの活動を始めたのさ。僕らのグループがバンに機材を積み込んで、そうした機材を買えないような地域に出かけていくんだ。 僕は19歳でとても若かったけど、ずっと成熟していたよ。でも僕は率直にものを言う性格で、一般的な指導者らしい人間じゃなかったから、子供たちは19歳でドレッドヘアの先生を気に入ってくれたんだろう。僕らはPublic Enemyの歌をポジティヴなメッセージに変えて歌った。彼らがポジティヴじゃなくなっていたという意味じゃなくて、ドラッグやHIVをテーマにしてトークしたのさ。これを続けていこうと思ったのは、単位を取ろうとしていたカレッジから追い出された時だね。何かの組織の設立に関係するのが僕の目標になったんだ。 DJ KRUST: 僕が実際に音楽に興味を持つようになったのは、たぶん兄貴の影響だろう。僕の家族はとても音楽に親しんでいて、ママはいつも家中で歌っていたし、パパはいつでも音楽を聴いてたよ。彼は膨大なレコードのコレクションを持ってて、兄もレコードを集め始めてたから、僕も音楽をたくさん聴くようになったのさ。そんなふうに音楽に親しんでいったけど、ヒップホップがイギリスで流行り始めると、すぐに「Wild Star」のような曲でスクラッチを始めて、夢中になってしまったんだ。僕らはママのステレオシステムを使ってたけど、それにはオン/オフのボタンがあってプロのをまねをしてスクラッチするには最適だった。最高だったね。 それからユースクラブに通うようになって、サウンドテープやニューヨークのWBLS-FM直送ものなんかを聴き始めたのさ。これらのテープは僕が学校にいた最後の年には出回り始めていたから、キッズもそれをゲットするようになっていたんだ。それで僕も街の反対側へ出かけるようになって、いろんな人たちと交流するようになった。もっと音楽やヒップホップのカルチャーにどっぷり浸っているような連中さ。そこから僕のキャリアは広がり始めたんだよ。 ――Roni、Reprazentというバンドにおけるあなたの役割は何ですか? RONI SIZE: 僕らのことをバンドと呼びたがる人たちもいるけど、まず第一に言うのは、僕らは集団だってことさ。僕らは違った地域の出身だし、個々のアイデンティティもあるんだ。僕らのレーベルはFull Cycleって言うんだけど、これは僕らが実験したり、シングルを選んでリリースするための組織なのさ。僕らはシーンを象徴するような音楽を送りだしている。ダンスフロア向けに限定されたヤツをね。僕らはFull CycleをDef Jamと同じレベルにまで持っていきたいんだ。Def Jamは小さなインディペンデントだったけど、最有力レーベルに成長して、今じゃ世界でも最大の企業のひとつだよ。 たくさんのプロジェクトを手掛けているけど、僕らがこの集団のために結束するのは、ステージでは8人分の力を出せることを認識しているからだ。ドラムとベースがいて、キーボードやサンプリングを担当するのが4人、そしてフロントマンが2人いるんだ。全員がお互いと同調できているから、すべてがうまく機能するのさ。これは難しいことなんだけどね。ショウのサウンドは100%ライヴ演奏で、ストリングスを付けたりはしていない。レコードを聴いたときには「気に入ったよ」くらいの感じでも、ショウを見れば「すげえ、完全に勘違いしていたよ。ベーシストがいてアップライトベースを弾いてるぜ。しかもこれまで見た世界中の誰よりも演奏が巧いね」ってことになるのさ。 ――レコード会社を運営していくうえでの必要条件と報いは何ですか? RONI SIZE: 僕らは単に音楽を作ってるだけじゃなくて、僕らの仕事にはビジネス面も存在するんだ。自分たち自身のプラットフォームを確保するためにも、Full Cycleを世界中に広めていきたいんだよ。表現の自由も守れるからね。V Recordsを経営しているBryan GeeやJumpin' Jack Frostとやっていくのも大変だけど、とにかく経営というのは難しいよね。インターネットによって楽になった面もあるし、大変になった面もあるんだ。ナップスターのような連中が出てきて、音楽を無料でネットにのっけてしまうから、レーベルは被害を被ることになるのさ。でもそれはプロモーションにもなるから、被害はそれほどでもないかもしれないけど、厳しい状況に違いはないね。僕はレーベルの運営に全力で取り組んでいるけど、アタマはちょっと壊れかけてるしれないな。 ――ニューアルバムはヒップホップの影響を強く受けているようですが、それには同意しますか? それは意図的なものだったのでしょうか? RONI SIZE: 確かに、『New Forms』で僕らが学んだことと、リスナーが学んだことはまったく違うと思う。『New Forms』を作ったとき、それはアイデアの骨格であり、曲の骨格であり、そのとき僕らがいたポジションの骨格だった。僕らがマーキュリー賞を獲って、親切にもこの「承認シール」をもらったことで、普段は音楽を聴かない人たちが僕らに注意を払ってくれたんだ。彼らがすぐに理解できたのは、ジャズの影響だよ。アルバムを聴くとすぐに、みんなやって来て「これはジャズだね」って。誤解しないでくれ、僕はジャズが好きだし、ジャズはグレートだと思う。けど、僕はそれを座って聴いたことがないんだ。人々は僕をMiles Davisと比較しようとするけど、彼のアルバムは聴いたことがなかったし、人々が僕に尋ねはじめるまで、彼が誰であるかさえ知らなかったんだ。 僕がジャズから見い出したのは、“ブレイク”を捉える方法だった。僕は走り回ってBo Diddleyのアルバムを見つけ、そしてブレイクをゲットする。僕がブレイクを探していて、君がブレイクに聞き耳をたてるなら、このレコードを聴き始めたことになるんだ。そして、それがよくできたレコードだってわかる。全体のジャズうんぬんってのは、そんな感じだったんだ。あのね、A Tribe Called Questはダブル-ベース・ジャズ・ループのアルバムを3枚作ったけど、決して“Tribe Called Jazz”とは呼ばれなかったよ。 僕らのゴールは、時代にピッタリ付いていくことだった。ヒップホップやロックのレコードもサンプリングしたし、手に入るものは何でもサンプリングしたよ。サンプラーをもらったら何をする? そりゃサンプリングさ。で、その時点で、本物のミュージシャンを入れるべきだって思ったんだ……100万1のサンプルで訴えられたくないだろ? マーキュリー賞で彼らは、僕らがボックス(サンプラー)の要素と人を組み合わせて、それをステージでトランスレートするのを見た。そこで思いがけなく、最初はアピールしてなかったオーディエンスが夢中になった。これは大きかったよ。 アルバムを作るには3カ月しかかからなかったけど、それをどんな方向にもっていくかを考えるのに1年かかった。そして、僕はいつもヒップホップのライフスタイルやメンタリティを受け継いでいたんだ。ヒップホップはインディーズの状態からメジャーへと成長した。そのプロセスには多くの犠牲者も出たけど、今では立派なエスタブリッシュメントだ。人に嫌われれば嫌われるほど強くなっていく。今回のアルバムで僕たちは、そんな気持ちを持っている人々とつながってみたかったんだよ。 DJ KRUST: ヒップホップは僕たち全員に強い影響を与えていると思うな。だって僕らはみんな、'70年代終盤から'80年代初めのヒップホップ台頭期に育ったからね。その成長を見守ってきたし、それがだんだん好きになっていったのさ。それで僕らの一部になったんだよ。僕らがやることすべてにヒップホップの影響は非常に強く現われているし、今では聴いた人が、これはヒップホップだと思うような騒々しいラップまで取り入れてる。僕らがウッドベースを使ったときは、みんながジャズだと言ったけど、そうした要因は元の音楽そのものに入っていたわけだし、リスナーは時としてわかりやすい目立つ音だけを聴いて「これはヒップホップだ」なんて決めちゃうからね。そうしたヴァイブはずっと存在したものなんだけどさ。 僕らはヒップホップの連中と同じように、プロダクションに集中して制作したよ。ドラムスの音とブレイクが僕らのすべてだけど、それこそがヒップホップの源流なんだ。僕らはすごい量のブレイクとドラムマシンを使用した。わずか0.5秒間の短いループにピッタリで、しかも無料で使えるブレイクを探して、いつも中古レコード屋を駆けずり回ってるのさ。それこそが僕らの求めているものなんだよ。ヒップホップを作っている連中だって同じ心理だろうから、僕たちは同じ場所、同じ背景から出発しているということになるんだ。 【後編】に続く |